神戸製鋼救済になったら

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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シャープが中国資本に買収されたとき、そこまできたかと思ったが、まだ気持ちの余裕があった。日産はすでに外資だし、製鉄は集約も進んで、当面にしても最終形態が見えてきたかと思っていたところに、東芝の窮状が明るみに出た。当事者でもなければ関係者でもない。見えたものまでしか、聞こえてきたことまでしか分からない。それでも終わりの始まりはとっくの昔に始まっていて、日本株式会社の瓦解が、周辺ではなく中核の、これが崩れたらというところまで進んでしまっているようにみえる。

伝統的な製造業を基盤とした経済構造を強化し続けて、ジャパンアズナンバーワンなどと我が世を謳歌していた八十年代が懐かしい。確立された製造技術に改善を繰り返して、誰も真似のできない日本の誇るべき製造業だと思っていた。アメリカの製造業の崩落をしり目に、あいつらは働かないからだとうそぶいていた。

当時アメリカはコンピュータの応用技術の基盤つくりに将来を見据えて、それこそ決死の覚悟で産業構造の転換を図っていた。そのころ日本はどうしていたかといえば、新技術の開発どころか産業構造の転換すら考えずに、今まで通りでやっていた。それが、まさか二十年もしないうちに、自分たちがかつてのアメリカの立場に追い込まれて、先の見えない袋小路に入り込んでしまうなど誰も想像しなかった。もしその危険性を公言する人がいたとしても相手にされなかったろう。

五十年代には世界の鉄鋼生産の半分を担っていたアメリカの製鉄業が崩壊して、世界の自動車産業の雄だったGMまでが倒産した。確か八十七年だったと思うが、一年間に百行以上の銀行が倒産するところまでアメリカ経済が痛んだ。そのアメリカがいまや防衛産業も含めたIT産業や通信産業にバイオ技術で世界にその存在を誇示している。

そんなところに神戸製鋼が契約した精度や品質を満足していない製品を出荷し続けてきたことが露見した。自動車産業や産業機械にインフラまで含めて神戸製鋼の顧客は多岐に渡る。多岐にわたる顧客がどれもが日本の製造業の中核をなすところであることが、ことの重大性を示している。こういっては失礼だが、シャープとは違う。

新日鉄が住金を救済合併して、川鉄とNKKがJFEスチールに集約して、日本の製鉄産業の将来像が決まったと思っていたところに神戸製鋼がどうにもならなくなった。新日鉄にしてもJFEスチールにして神戸製鋼を救済する体力があるとは思えない。救済する体力のあるところと探してみても、トヨタぐらいしか思い浮かばない。ただそのトヨタにしても、電気自動や自動運転など素材の基礎研究とIT系の開発に莫大な投資が必要で、たとえ潤沢な資金があっても、おいそれと神戸製鋼救済とはいかない。神戸製鋼は重すぎる。

製鉄に見切りをつけて三菱製鋼を切り離した三菱系にしたところで、三菱自動車が象徴するように、神戸製鋼を救済する体力や意思があるとは思えない。

神戸製鋼の株主である金融筋も顧客であるトヨタや本田も単独で救済する体力がないなかで、中央官庁と金融関係と大手顧客に政治家が、神戸製鋼の救済の可能性を模索しているだろう。ことは神戸製鋼一社の問題ではなく、日本株式会社の将来にかかわる。神戸製鋼に関連した会社の従業員や所在地の町のありようにまで影響がでる。ここで中央官庁と財界首脳をつなぐ自民党の重鎮が活躍するのだろう。

力を発揮できる政治家は自民党にしかいない。神戸製鋼やトヨタに大手金融筋まで網羅した日本株式会社のありようを描き、実現にむけて折衝する能力のある政治家が公明党にいるのか。野党のどの政党にいるのか。一国の経済運営にまで絡んだ経済政策決定に東奔西走する能力に加えて胆力のある政治家は、残念なことに利権屋集団の中にしかいない。

ことはオリンピックでもなければ、卸売市場の汚染の問題でもない。ましてや一私立学校がどうのということでもなければ、保育園がどうの公園がどうのということでもない。日本株式会社を鳥瞰して関係者の調整に力を発揮できる政治家に率いられた政党でなければ、どうするという試案すらでてこない。

この国家レベルの経営能力の視点を持たずに、選挙公約がどうのというレベルで騒いでいる自民党以外の政党のどこが、人々の信頼を、ましてや日本株式会社の信頼を勝ちとりえるのか。憲法九条はいいが、こんなことを言うと叱られるが、日本社会の骨格ともいえる日本株式会社の設計と運営に携わる能力がどこまであるのか。利権屋と呼んだほうがあっている自民党の先生方以外には、この必須の能力のことですら考えているようには見えない。日本株式会社が瓦解して、自民党とその延長の人たちでは、どうにもならなくなって、はじめて声がかかる類の人たちなのかもしれない。

 

<ことの本質―過剰品質>

製品品質を保証すべく多くのリソース(人、モノ、金)を投入してきた。原材料の選定から、設計製造、そして流通におよぶ過程でストイックなまでに品質にこだわってきた。問題や欠陥が見つかるたびに、作業改善を重ねて、屋上屋を重ねるかのように品質保証に万全を期してきた。そして世界に誇る間違いのない品質を提供し続けてきた。

ところが中進国との国際競争にさらされて、コストダウンが生き残りをかけた最優先の課題になった。作り上げた品質保証体系の簡素化は改善以上に難しい。必要だからと付けた屋上屋はなかなか外せない。品質を保ったままコストダウンできればいいが、どこにも魔法はない。体系を簡素化しえないまま、実のところで上手(?)に手を抜いてきた。それが露見した。

成功の源(高品質)が崩壊の原因(過剰品質)になってしまった。絵に描いたような自業自縛。自分たちが営々と築き上げてきた世界に誇る品質保証体系が生き残りを難しいものにしている。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion7343:180210〕