太平洋戦争後半期である1944年10月、フィリピン諸島東方でレイテ沖海戦が戦われ、日本海軍の壊滅的な敗北に終わった。同月25日海軍大尉関行男(せきゆきお)は、爆装した零式艦上戦闘機(ゼロ戦)もろとも米護衛空母セント・ローに体当たりし同艦を撃沈した。「神風特別攻撃隊」の第一号とされる。新婚6ヶ月目、23歳であった。死後、中佐に二階級特進し「軍神」と称えられた。
《関行男大尉の遺書》
関行男は次の遺書を残している。
◆父上様、母上様
西条の母上には幼時よりご苦労ばかりおかけ致し、不幸の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其の御恩に報ずる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日帝国の為、身を以て母艦に体当を行い、君恩に報ずる覚悟です。皆様御身体大切に
◆満里子殿(同年5月に結婚した夫人)
何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る
何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様
色々と思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん坊主も元気でやれ
関は出撃前に同盟通信特派員小野田政と会話している。次のように言ったという。
◆ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくても500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA(ケーエー。海軍隠語で「妻」のこと)のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。
《我々はどのように振舞うべきであったか》
特攻に関して戦後65年の今、何か付け加えることがあるのか。
様々な分析や言説は出尽くしている。戦中でも特攻は「統率の外道」の戦術であり、戦後民主主義の基準では特攻は「愚行」である。その通りであろう。だが1930年代の半ばに生まれた私は、「特攻」への思いをそのように一言でいうことができない。たとえば吉田満(よしだみつる、1923~1979年)の文章に私はずっと関心をもって読み返している。
戦艦「大和」に乗って45年4月の沖縄特攻に従軍した吉田満はその体験を『戦艦大和ノ最期』に書いた。吉田は「戦艦大和の終焉とそれに殉じた人々の命運は、日本人が残した栄光と転落の象徴としてわれわれの眼前にある」と書いている(北洋社版あとがき、74年)。戦後、日銀幹部として勤務しながら吉田は、特攻および戦争の意味を問うことを生涯の課題とした。
吉田も航空特攻兵士に関して多くの文章を書いた。
私の心に残っているのは吉田が引用した慶大出身学徒兵徳島宅光の次の手紙である。
▼(八重子へ)俺の通信を待って落ち着かぬ日を過ごしていることと思う。早く返事をしなければと俺の心の責任感が叫ぶ。はっきり言う。俺は君を愛した。そして今も愛している。しかし、俺の頭の中には、今では君よりも大切なものを蔵するに至った。
それは君のように優しい乙女の住む国のことである。俺は静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔もよく見えない遠くから、俺達に頭を下げてくれる子供達のいじらしさに、強く胸を打たれたのである。もしそれが、君に対する愛よりも遙かに強いものというなら、君は怒るだろうか。否々、決して君は怒らないだろう。そして、俺と共に、俺の心を理解してくれるだろう。本当にあのような可愛い子等のためなら、生命も決して惜しくはない。
『戦艦大和ノ最期』初版の「創元社版あとがき、52年」に吉田の戦争観は明らかである。同書は軍国精神を鼓舞しているという評者に反論して言う。
▼この作品に私は、戦いの中の自分をそのままに描こうとした。
ともかくも第一線の兵科士官であった私が、この程度の血気に燃えていたからといって、別に不思議はない。我々にとって、戦陣の生活、出撃の経験は、この世の限りのものだったのである。若者が、最後の人生に、何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあがくことこそ、むしろ自然ではなかろうか。/このような昂りをも戦争肯定と非難する人は、それでは我々はどのように振る舞うべきであっかを、教えていただきたい。/戦争を否定するということは、現実に、どのような行為を意味するかを教えていただきたい。単なる戦争憎悪は無力であり、むしろ当然すぎて無意味である。誰が、この作品に描かれているような世界を、愛好し得よう。
吉田はこれを「開き直り」であると自認している。私にはこの開き直りがよく分かる。
吉田満は生き残った「戦中派」として次のテーマを一貫して追及した。
①あの戦争を戦ったことは何であったのか。敗れたということは何か。
②戦争参加と協力の意味。それは全否定されるべきなのか。容認される部分はないのか。
③再び同じ状況が起こったときにどのような理念と論理で対処すべきか。
④正義の戦争と不正義の戦争があるのか。二種類の戦争があるのなら絶対の反戦はどう正当化されるのか。
《戦後評価とアイデンティティーへの志向》
いずれも一義的な回答の困難な本質的な問題である。
吉田は戦後の経済発展に一定の評価を与えている。
ある文章で「私はいまでも、ときおり奇妙な幻覚にとらわれることがある。それは、彼ら戦没学徒の亡霊が、戦後二十四年をへた日本の上を、いま繁栄の頂点にある日本の街を、さ迷い歩いている光景である。/彼らの亡霊は、いま何を見るか。商店の店先で、学校で、家庭で、国会で、また新聞のトップ記事に、何を見出すだろうか」と書いている。
そして次のように言う。
▲彼らはまず何よりも狂喜するであろう。この氾濫する自由と平和を見て、これでこそ死んだ甲斐があったと、歓声をあげるであろう。/と同時に、もしこの豊かな自由と平和と、それを支える繁栄と成長力とが、単に自己の利益中心に、快適な生活を守るためにだけ費やされるならば、戦後の時代は、ひとかけらの人間らしさも与えられなかった戦時下の時代よりも、より不毛であり、不幸であると訴えるであろう。(「戦没学徒の遺産」、69年)
吉田の言葉は屡々両義的である。その中から私が読みとるのは、日本人としてのアイデンティーの欠如、公共性の不在、国家観の欠落、への批判である。それは政治におけるヨリ明快な理念と政策への期待でもあった。しかし吉田は並みの保守主義者のような現実主義を提唱したのではない。吉田は苦悩の末にキリスト者となって絶対平和の立場に到達したのであった。戦争に正義の戦争も不正義の戦争もないという結論を得たのである。
《原理・理念が求めるリアリズム》
吉田の論は原理的・観念的に見えながら我々に真のリアリズムを要求している。
経済大国の終焉を迎えた日本は、内政外交の両面で「アイデンティーの欠如、公共性の不在、国家観の欠落」という課題に―初めてまたはあらためて―直面している。吉田満が残した課題に我々は真剣に応えなかった。「神風特別攻撃隊」は我々に重要な覚悟を迫っているように感じられる。
■本稿作成に下記の著作を参考にした。
・森 史朗著『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯』(上・下)、文春文庫、2003年
・城山三郎著『指揮官たちの特攻』、新潮文庫、2004年
・保阪正康編『「戦艦大和」と戦後―吉田満文集』、ちくま学芸文庫、2005年
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〔opinion185:101025〕