「 教えることは希望を語ること、学ぶことは誠実を胸に刻むこと 」というフランスのシュールレアリスト詩人のアラゴンの言葉があります。筆者は経済学説を勉強しておりますが、その際の分析の観点においてばかりでなく、教科教育の面からも、学生に明日への希望を語ってゆきたいと思っております。そういう観点から、常日頃から実行されている、また、このたびの東日本大震災という状況に際しても繰り広げられた、ボランティアやNPOや市民の皆さんの優しさと絆や助け合い、ひいては自立の支援という「よきこと」や市民の連帯を見つめております。市民の自立・自律や連帯は市民社会を形成する公共的関係であり、それを広げて世界の人権と主権を確立してゆく道を求めて行きます。
「私たちが世界の明日の希望を背負っている」と題して、東日本大震災で被災して絶望的な状況にある生徒たちを励まし続けた松村茂郎先生の文を、南相馬市在住の相川誠一氏が紹介されました。松村先生は相馬高校の2011年度の第2学年主任で、新学年に当たって被災した第2学年の生徒たちを励ますため、生徒たちの強さと優しさや絆のある生き様が福島の希望ひいては世界の明日の希望であるという趣旨の文章を書かれたのです。筆者はそれを一読して、生徒たちのこうした生き様・生き方の強さや優しさを「教えることは希望を語ること」だと直感的に思い、明日への希望を感じ取ることができました。そこで漠然と感じた明日への希望をさらに詳しく見つめてみたくて、4月24日に福島市で先生に直接お会いして、いろいろな話をお聞きしました。
以下に先生の文章を掲載し、また、先生からお聞きした3月11日の大震災当日以後の状況を紹介します。そうして、先生がこれを書かれた状況、また、2年の生徒たちを励ますとき何を強く思われたかを辿ってみて、先生の捉えた明日への希望を追体験し、新しい人権の基礎としての希望の原理を望んでみたいと思います。
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相川氏は、この大震災で被災された中で「魂が揺さぶられるような衝撃を受けました」といって、松村先生の文をfacebookの南相馬市というオープンなグループに投稿して、次のようにそれが朗読された情景を書いています。
「長女が行っている高校の配布文書の中に、先生が書いた文があり感動したのでお知らせしたいと思います。」
「福島県立相馬高校です。娘が初登校の時に壇上で先生が読み上げたそうですが、途中からはこみ上げるものがあって涙ながらの朗読になったそうです。私も感動して熱いものがこみ上げました」。
~私たちが世界の明日の希望を背負っている~
私たちは、この大震災でハンデを背負ったのだろうか?答えは「NO」だ。私たちは、間違いなく強くなった。相変わらず私たちの目尻には涙が溜まったままだが、私たちのハートは、体は、絆(きずな)は比べ物にならないくらいに強くなった。私たちの心や体にまとわりついていた余分な欲はそぎ落とされた。そして、受け入れることができなかったものを受け入れる大きさを持った。私たちは、人の優しさを体の中心で感じることができるようになり、私たちの中に優しさの連鎖が生まれた。私たちは私たちと世界がつながっていることを実感することができた。何よりも今、命の大切さを体全体で理解している。だから、私たちは負けない。人として最も大切なものを身に付けた私たちが負けるわけがない。人として最も大切なものを身につけた私たちは、絶対に負けてはいけない。それは私たちの敗北にとどまらず、人類の敗北となるからだ。福島県人は被害にあっている。人類が経験したことのない苦しみの状況にある。しかし、世界中から注目されている「フクシマ」人の生き方は、生き様は、世界中の人たちに希望を与えるものでなければならない。勘違いをしてはいけない。私たちフクシマ人が世界から希望をもらうのではない。私たちの生き様が、世界に希望を与えるのだ。(松村茂郎、県立相馬高校第2学年通信 4月号)
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松村先生によると、東日本大震災の3月11日当日は、相馬高校は授業中で、生徒に地震や津波による被害はなかったそうです。しかし、悲しいことに1年から3年の生徒のうち、家を流された人は50人以上になってしまったのです。また、4月から入学した1年生は、3月当時の中学3年生の卒業式が済んだあとの被災で被害はかなりあったそうです。4月にはこうして震災のことは話しにくい状況でしたが、松村先生は生徒たちを慰めたり同情することでなく敢えて激励するため、上の文章を2年生の学年通信に発表しました。もちろん生徒たちの受け止め方には温度差がありました。以下先生の避難についてのお話をまとめてみます。
3月11日当日震災後、相馬高校では生徒全員を学校近くの避難所である相馬アリーナに避難させました。幸い相馬高校は海から比較的遠い市街地にあって津波の損害はなかったのですけれども、情報が全くなく、生徒を帰すことができなかったのです。相馬市内の海岸部の松川浦や磯部は壊滅的損害を被りました。夜になって親たちが迎えに来るようになりましたが、多くの生徒が親と連絡がとれないまま避難所に泊まらざるを得ませんでした。
松村先生は翌12日に浪江町の自宅に帰りましたが、まず、福島第1原発の1号機の爆発で避難を余儀なくされました。浪江町の人々は町の指示で北西方面に避難し、津島の小学校や中学校に避難しました。後で考えると理由無き避難方向でした。政府の後日の発表で、皆さんご存知のようにこの避難地域には1号機の爆発で放出された放射性物質が大量に降り注いでいたのです。谷沿いに気流があって放射性物質はそれにのって流れて行ったようです。
松村先生はその後さらに郡山市の妻の実家に避難しました。先生は郡山市に着いた時スクリーニング検査を受け、ジャージズボンの裾から放射線を検出されましたが、ジャージズボンを脱ぐと被曝はなかったそうです。草むらを歩いて放射性物質が付着したと思われます。現在松村先生は、郡山に避難している家族と離れて、福島市のアパートから相馬高校に通っています。
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松村先生が見て取った福島の希望は、災害にめげず絆を結びそれを大切にして助け合う生徒たちの強さです。
「私たちは、間違いなく強くなった。相変わらず私たちの目尻には涙が溜まったままだが、私たちのハートは、体は、絆(きずな)は比べ物にならないくらいに強くなった。」
先生は4月に生徒たちがひとまず安心できた状態を自主的に作り上げたことと、それまでのつらかった状況を次のように話してくれました。
4月になって生徒全員と面談をして、生徒の家庭状況等が徐々にわかってきました。しかしながら3月の震災直後は、電話が通じないために緊急連絡網が利用できず、4月の上旬までは生徒が立ち上げた安否確認サイトからの情報と生徒の携帯だけが命綱でした。松村先生は生徒から連絡があると自分のメイルアドレスを教えて他の生徒に流してもらい、松村先生に現況を報告するように頼みました。3日ほどでクラス全員からの報告が到着し、その後はメイルでのやりとりができるようになったため、生徒たちも安心することができました。しかし、今の1年生(3月では中学生)は、中学校卒業直後ということもあって、このような連絡網をつくることができなかったため、お互いに連絡が取れない状態が続き大変辛い状態にありました。
こうした状況でも生徒たちの前向きな明るさで救われましたと、松村先生はいいます。先生の上の文章に対応させて、生徒たちのがんばりと先生と生徒たちの希望について、先生からお聞きしたその間の情景をまとめてみました。
「受け入れることができなかったものを受け入れる大きさを持った。私たちは、人の優しさを体の中心で感じることができるようになり、私たちの中に優しさの連鎖が生まれた。」生徒は支援の人を手伝ったり、自主的にボランティア活動に参加して、助け合いをしています。被災地では人と人とのつながりが濃密になりました。
「私たちの心や体にまとわりついていた余分な欲はそぎ落とされた。」
人とのつながりがあるので、物がなくとも生きてゆけるという自信を生徒たちは身に着けてきました。
「私たちは私たちと世界がつながっていることを実感することができた。何よりも今、命の大切さを体全体で理解している。」
短い期間の濃密な体験で生徒は成長して大人になりました。若い人は「化ける」と思います、と先生はいわれました。
「私たちフクシマ人が世界から希望をもらうのではない。私たちの生き様が、世界に希望を与えるのだ」
「私たちの生き様が、世界に希望を与える」とはなんという強靭な言葉でしょう。松村先生が励まし絶賛して明日への希望を見た、被災した生徒たちの明るさ、他人への思いやり、人との絆、おおらかな勁さ、こうした人間の本源的な強さ、そういう「人として最も大切なものを身につけた私たち」こそが福島の希望です。
「人として最も大切なものを身につけた私たちは、絶対に負けてはいけない。それは私たちの敗北にとどまらず、人類の敗北となるからだ。」
「世界中から注目されている『フクシマ』人の生き方は、生き様は、世界中の人たちに希望を与えるものでなければならない。」
このような「『フクシマ』人の生き方は、生き様は、世界中の人たちに希望を与える」ことは、すなわち福島の希望が日本や世界の明日の希望であることなのです。我々は、震災復興に際しても、脱原発の方向性をもって、こうした人間の本源的な強さを発揮する若い世代の生き方を大切に育んで、若い世代が希望をもって成長し、世の中を引っ張ってゆける状況を構築して、未来を切り開いてゆかなければなりません。
(2011.05.14記)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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