福島第一原発の事故で、福島県葛尾村から武蔵野市に避難されていた小島力氏、第一原発建設時から反対運動に参加していた。2013年5月に詩集「わが涙茫々 原発にふるさとを追われて」が西田書店より発行された。そこには40年も前から原発がもたらす不合理な現実、そして未来に向けてのやりきれない辛さ、恐ろしさ、無念の気持ちが溢れ、綴られていた。周囲の関係者からの「葛尾村に行ってみたい」という声により一泊二日の訪問ツァーが企画され、今回が4回目、44人が参加した。
一日目は、浪江町の役場で復興の現状と今後の計画について説明を聞き、その後、津波被害者の慰霊碑と、再建された漁港や堤防を見学した。浪江町は原発から10キロから20キロの範囲にあり、山側の約8割のエリアは帰還困難区域に指定されているが、海側の平地は昨年春に避難指定が解除され、事故前の住民数約2万人のうち800人ほどが戻っている。これは全体の4%程度にすぎないから、土曜日のせいもあるだろうが、国道を走る車の数は多いものの街に人影はほとんどみられない。廃屋のような家屋も目に付く。役場の人の説明では、住宅、学校、産業団地など建設済みや計画中のものも多く、復興に向けた環境づくりを進めているとのこと。漁港は再建されて漁船が一部戻っており、堤防も新しく作り直している。農地に置かれた除染土を詰めたフレコンバッグはあちこちの農地におかれているが、焼却施設を作って灰にして体積を減らすことにしており、以前よりバッグの数は減っているという話だ。医療・介護施設、商店などは人口が増えるにつれて整備されるのかまだごくごく少ない。
町役場裏の道路 町のスローガン
除染土などの焼却施設 漁港の看板。後方に新しい堤防が見える
新しい学校とこども園 アンケート結果「なみえ復興レポート」2018.5より
あとは人さえ戻ってくればよいのだが、それがなかなか進まないだろうことは明らかなのだ。新築した学校は大きくて立派な外観だった。しかし、生徒は小中あわせて10人程度である。こども園利用も10人程度という。町が行ったアンケートでは、避難中の人の半分は帰還しないと決め、約3割は判断できないとしている。
除染して線量は下がったといっても平常値には程遠いし、家の周りだけ除染しても、少し山や斜面に近づくと値が跳ね上がる、農地にはフレコンバッグの山、たとえ生産しても売り先がないので出荷できない現実がある。
区域指定図「なみえ復興レポート」2018.5より
こちらからの質問は、①パンフに帰還困難区域指定の基準が50ミリシーベルト以下かどうかで区別されているのはなぜか。言われている20ミリよりかなり高いので気になる ②上水道の水源が帰還困難区域内にあるが放射能の心配はないか ③町独自にホールポディーカウンターなどの導入をしているが今後の運用方針は ④県は健康調査を減らす方向だが、町はどういう考えなのか、精神疾患の賠償についてどう考えているか ⑤ADR(裁判外紛争解決手続き)の補償対応は不調と聞いているが、東電・国との賠償についてはどういう状態か ⑥新しい浪江町というイメージだけが先行しているのではないか――などであったが、残念ながら町長が体調不良で出席できなかったため、その場では答えてもらえなかった。
二日目は、葛尾村の人々に避難生活のことや、現状の思いについて聞かせてもらった。
事故当時、原発が爆発して避難命令が下りた時は、15分以内に退去という指示だったため、着のみ着のままで、家族・親戚が車に乗り込んで出発、しかし道路は海側の町から逃げてくる車でいっぱいだったとのこと。酪農家の人は世話をしないと牛は生きられないので、家畜の取り扱いについて県や村に問い合わせたが指示はなかった。やむなく「恨むなら原発を恨め」といってロープに縛り付けて置き去りにしなければならなかった。1か月後、様子を見に戻った時、牛はみな死んでいた。
避難先は隣の三春町から福島市、そして会津へと何回も転々とした。今もその時を思いだすと不安と悲しみで涙が止まらなくなるので話せないという女の人もいた。それでも代わりに伝えてくれる知人と一緒に参加してくださった。別の女性は、避難先で「義援金を受けているくせに」と悪口をいわれたこともあり、一年ほど引きこもっていた、死にたいと思ったこともあった、精神的な不安は今も強いと時々声を詰まらせながら語ってくれた。また、「国には三度も裏切られた」と80歳近い男性が強い口調で訴えた。戦前、親が満蒙開拓団として大陸に渡り敗戦で捨てられ、戦後、葛尾村に入植することになっても日照の悪い耕作不適地しか割り当てがなく苦労した。そしてようやく日照を良くしようと山を削る許可を得たところで、原発事故に遭いご破算となってしまったのである。
ほとんどの人は、国の方針や復興の行方にも批判的、悲観的だった。「除染といっても、山林は手つかずで、結局帰還を促すための除染ではないか」「内部汚染で遺伝子が傷つけば影響は四世代あとに及ぶ。線量が低いから安全なのか」「若い人は戻れないし年寄りが戻っても孫に遊びに来いとはいえない」「農地を除染しても畦道はやらない」など放射能への不安はぬぐいきれないものがある。実際、放射線量を測るモニタリングポストはコンクリートの土台の上に設置されていて除染効果は出やすいが、そこから10メートルほど離れた周囲の草地を測ると何倍もの数値になるのである。
モニタリングポストの数値は0.125μSV 隣の草地は0.3μSV
こうした不安がある中で復興が順調に進んでいくとはとても信じられない。一般人の年間被ばく限度は通常1ミリシーベルト以下であることを無視して、年間20ミリシーベルト以下で避難解除するという基準自体に説得力がないのが根底にあるからだろう。復興の形を追い求めることに知恵や資金が注ぎ込まれるようでは問題だ。不安があるから帰れない人には避難する権利を認め、必要な援助を継続することに予算が使われるようにしなくてはならないが、東電は賠償を打ち切り、国や県は自主避難者への住宅援助を停止する方針を出して、無理やり帰還せざるを得ないような姿勢をみせているのが実情だ。葛尾村の介護保険料は日本一高く、1万円に近いとのことで、高齢化はどんどん深刻化していく中、村の存続自体が無理ではないかと感じている人、一方で、復興に望みを残して未来への責任のため頑張ろうとしている人もいる。「いずれにしても一人ひとりの希望に沿ったあたたかい政策こそ求めている」と最後に語った方の言葉は強く印象に残っている。
福島第一原発の事故処理は収束にほど遠い上、国が進める原発の再稼働は新たな事故や災害の確率を高めるものでしかない。風向きの具合によっては、首都圏にも大量の放射能が降り注いでいたかもしれなかった。故郷を追われた人の思いは他人事ではない。私たちにとっても差し迫った課題として受け止めて、思いをつなげていくべきだと改めて心に刻んだ旅であった。
(葛尾村 いたる所にフレコンバッグの山)(帰路、福島第一原発への道路は通行止めの柵が)
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