福島県は、《福島県に県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにする義務もなければ、症例数を把握する鈴木眞一教授らの研究プロジェクトとも関わりはない》と答弁(子ども脱被ばく裁判。2018年1月22日)

著者: 柳原敏夫 やなぎはらとしお : 弁護士(ふくしま集団疎開裁判・元弁護団長)
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<はじめに>
2018年1月22日、福島地裁で、子ども脱被ばく裁判の第13回の弁論が開かれ、昨年からの懸案事項である「いわゆる経過観察問題(※1)」で、被告福島県は末尾の書面(準備書面(13))に記載された答弁をしてきました。
しかし、この書面を読んでも殆どの人は何を言っているのかチンプンカンプンでしょう。これこそ、誰にも分かることを誰にも分からないように煙に巻くことをひたすら心がけ、自分の主張を正当化する「東大話法」規則16(※2)のお手本にほかなりません。
そこで、<傍観者の論理・欺瞞の言語>である「東大話法」の規則をばらして、極力、誰にでも理解できるように解読し直す必要があります。すると、次のようになります。

<福島県の答弁の解読>
1、《福島県は、以下に述べる理由から、県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにする義務がある》という原告主張(原告準備書面(43)6頁以下)について、
①.結論として、《福島県には、そのような義務はない》 と初めて明言し(5頁下から3行目以下。黄色の線で表示)、
②.その理由について、上記義務があるとする根拠についての原告主張は、単に《原告代理人の意見を述べるだけであるから、福島県は答弁するまでもない》、つまり義務がないとする根拠について福島県は明らかにする必要もない、と(6頁。黄色の線で表示)。

まとめると、福島県には、県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにする義務もなければ、そのような義務がない理由についての説明責任もない、と。

2、《鈴木眞一福島県立医大教授と山下俊一長崎大学副学長率いる長崎大学が提携して進める研究プロジェクト(※3)が上記の症例数を把握しているから、福島県も当然、症例数を把握している》という原告主張(原告準備書面(43)2頁以下)について、
①.結論として、《福島県は、症例数を把握していない》 と従来の主張をくり返し、
②.その理由として、《福島県と鈴木眞一教授らの研究グループとは別の組織、主体であり、福島県はこの研究グループとは何の関わりもない》。それゆえ、この研究グループがどんな社会的使命を持ち、どんな目的で、どんな研究をしているか、福島県は知るよしもない(不知だ)。だから、この研究グループが症例数を把握していたとしても、福島県はこれを知るよしもないからだ(2頁。第1、2.黄色の線で表示)。
まとめると、鈴木眞一教授らの研究グループは福島県とは別者であり、そのグループが何をやろうと福島県には関心も関係もなく、どうぞ勝手にやって下さい、だから福島県はそのグループが把握している情報(上記の症例数など)についても何も知らない、と。

以上から、今回、福島県が示したものは、雨が降ろうが槍が降ろうが草津白根山が噴火しようが、どんなことが起きても、県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにすることは決して、ぜったいしないという不退転の決意です。だが、説明責任を伴う民主主義社会で果してこんなことが可能なのか。可能です。それは<傍観者の論理・欺瞞の言語>である「東大話法」を最大限活用することによってです。

<「東大話法」の見事なお手本、福島県の答弁>
1、上記1は、「東大話法」規則2『自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。』のお手本です。
近代裁判制度の大原則
近代の裁判制度がそれ以前と違うのは、18世紀の市民運動が、市民革命の末に獲得し、制定した近代憲法の成果「権力の濫用を防止し、人権保障を実現する」原則を近代の裁判制度に盛り込んだことです。その1つが、事実認定にせよ、法的な判断にせよ、それを導くためには《理由》を明らかにする必要があると宣言したことです。このどこが一体そんなにスゴイのか?そう思う人が多いかもしれません。しかし、近代の裁判制度がおそろしいのは実にこの点にあると言って過言ではない。 或る決定を下すにあたって、《理由》を、それも《合理的な理由》の開示を要求されるというのは他の機関(議会、行政府)ではあり得ないことだから。 だから、裁判では、多数決に任せて、権威や権力にあぐらをかいて、決定を下す訳にはいかない。これは実に大変なことで、それゆえ、市民革命のあと、権力を行使する者は何とか、この近代裁判の原則を骨抜きにしようと躍起になり、これに抵抗する市民との間で、終わりのないStruggle(たたかい)が続いてきました。

民事裁判の手続
民事裁判の手続を定めた法律(民事訴訟法)は、判決に記載する項目についてこう定めています。

第253条 判決書には、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一 主文
二 事実
三 理由
‥‥

つまり、判決の結論である主文を導くためには必ず理由を示す必要があるのです。こんなことは法を制定する国会にも法を執行する政府にもありません。国会は多数決で決めればよく、制定の理由を示すことは求められていません。しかし裁判では判決の理由が示されていなければそれだけでその判決は上級裁判所で破棄されます。またたとえ判決の理由が示されても、それが合理的なものでなければやはり破棄されます(民事訴訟法312条2項6号)。

また、判決には事件を構成する事実を記載する必要があり、事実を認定するためには証拠に基づく必要があります(証拠裁判主義)。しかし、この証拠に基づく事実認定が合理的なものでなければ上級裁判所で破棄されます(自由心証主義に関する247違反)。

これが国会や政府とちがう、近代裁判制度の原則です。その心は或る決定を下すにあたって、多数決や権威や権力ではなく、あくまでも合理的な理由に基づくことを万人の前で説明するという「証明の精神」にあります。

では「証明の精神」とは何か。かつて、数学者の遠山啓はこう言いました。
「直角三角形に関するピタゴラスの定理は経験的には既に古代エジプトで知られていた。しかし、ピタゴラスが偉いのはそれを証明してみせたことである。証明するまでは、たとえどんなに偉い王さまであろうともそれを主張することは許されない。他方、たとえどんな馬の骨でも証明さえできれば認められる。これが数学そして科学の精神である。」

この数学そして科学の精神が「証明の精神」です。
裁判所が「人権の最後の砦」と言われるのは、多数決や権威や権力ではなく、あくまでも証明によって判断を下すというユニークな原理を採用したからです。だから、裁判所がこの原理を失えば、国会や政府と同様、多数決や権威が幅をきかすただの権力機関に成り下がってしまいます。

だから、裁判で「証明の精神」が発揮されるのは、ゴールの判決ばかりでありません。ゴールに至る審理の過程においても「証明の精神」が発揮されなくてはなりません。つまり事実認定にせよ、法的な判断にせよ、それを導くための理由づけをめぐって、当事者である原告と被告がお互いに主張→反論→再反論という議論の積み重ねを通じて、理由付けをめぐる双方の主張を整理・明確にすることが大前提となっています。民事訴訟の規則にも、《準備書面において相手方の主張する事実を否認する場合には、その理由を記載しなければならない。》(79条3項)と明記されています。

ところが、今回、福島県がやったことは、原告の主張は単に《原告代理人の意見を述べるだけである》と『自分の立場の都合のよいように解釈し』、そこから、《福島県は答弁するまでもない》という結論を引き出し、理由付けについて自分たちの主張の提出を拒んだことです。これは「東大話法」の規則2『自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。』の素晴らしい応用です。

ここから判明したことは、福島県には議論の積み重ねによる理由付けの明確化という近代裁判制度の原則のルールを守る気がないということです。こういうことをする人を世の中では無法者といいます。こういう無法者ぶりが、福島県という地方自治体の現状だということを私たちは知っておく必要があります。つまり、ここからもまた我々の国は崩れている、と。

2、上記2は、「東大話法」規則3『都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。』のお手本です。
確かに、鈴木眞一教授らの研究グループの上記j研究プロジェクトは表向き、グループ内部の研究者たちの企画で始まった私的な研究プロジェクトのようにみえます。しかし、事故前ならともかく、いやしくも福島原発事故が発生した後において、この研究プロジェクトは原発事故による福島県民の健康被害の現状と対策を適切に講じるために最も差し迫った、最も重要な調査・研究であり、これを私的な研究グループの手にゆだね、ほったらかしにするなぞ福島県民の健康の確保に第一義的な責任を有している福島県の自殺・自滅行為であり、想像すら出来ません。従って、本来であれば、福島県はこの研究プロジェクトをしかるべき研究者集団に実施を命じ、或いは委託し、必要な指示を出し、適宜、研究結果の報告を受けるなど緊密な関係を築く必要があります。
ところが、今回、福島県は《「上記j研究プロジェクトを実施する研究グループと緊密な関係を築く必要がある」という都合の悪いことは無視し、「この研究グループは福島県とは別者である」という都合のよいことだけ取り上げて》、福島県はこの研究グループとは関わりのないものであり、それゆえ、福島県は上記j研究プロジェクトの目的も成果も何もかも知らない、と主張しました。
ここから判明したことは、福島県には原発事故による福島県民の健康被害の現状と対策を適切に講じるために最も差し迫った、最も重要な調査・研究である上記j研究プロジェクトをみずから実施する気が全くないということです。こういうことをする人のことを世の中では三無(無気力・無関心・無責任)主義者といいます。こういう無気力・無関心・無責任ぶりが、福島県という地方自治体の現状だということを私たちは知っておく必要があります。つまり、ここでもまた我々の国は崩れている、と。

<結論>

福島県は原発事故以来、「復興。復興」をくり返してきました。それほど復興を望むのであれば、何よりも第一に、以上に述べた、己自身の無法ぶりを悔い改め、無法からの復興を実行すべきです。己自身の無気力・無関心・無責任を悔い改め、三無主義からの復興を実行すべきです。県民に対しては、復興、復興と、復興への協力を求めながら、己自身に課せられた上記の復興には知らぬ存ぜぬという顔をするのであれば、福島県は偽善者です。

 

(※1)経過観察問題

福島県が県民健康調査の甲状腺の二次検査で「経過観察」とされた子ども(単純合計で)2523人はその後「悪性ないし悪性疑い」が発見されても、その数を公表していなかった問題。->詳細

(※2)「東大話法」規則16

○規則16:わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。

(※3)研究プロジェクト

2013年12月頃からスタートした、福島県立医大甲状腺内分泌学講座の主任教授鈴木眞一を研究責任者として、山下俊一長崎大学副学長率いる長崎大学と連携しながら、福島県内の18歳以下の小児甲状腺がん患者の症例データベースを構築し、同がん患者の手術サンプル及び同サンプルから抽出したゲノムDNA、cDNAを長期にわたって保管・管理する「組織バンク」を整備する研究プロジェクトのこと。この研究プロジェクトを記載した2つの研究計画書[1](甲C73~74)や研究成果報告書[2](甲C75)が存在する。

 

[1] 研究課題名は「小児甲状腺がんの分子生物学的特性の解明」(甲C73)、「若年者甲状腺がん発症関連遺伝子群の同定と発症機序の解明」(甲C74)

[1][2]研究課題名は「小児甲状腺がんの分子生物学的特性の解明」(甲C75)

 

以下の被告福島県の準備書面(13)は、原告準備書面(43)に対して答弁したものです。

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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