雁屋哲作・シュガー佐藤画『まさかの福澤諭吉』(遊幻舎)を一読した。本書の主旨は、表紙に記された短文「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』に代表される福澤諭吉=民主主義者の評判。しかしその実像は、大日本帝国憲法や教育勅語を歓迎する国家主義者の顔だった。」
主旨の具体的発現が福澤諭吉の隣国人(朝鮮人、中国人)差別観・偏見であると本書に強調されている。かかる差別観が日清戦争に直通する、とする。
ここで、私=岩田は、筝曲の名曲「嵯峨の秋」のことを想い起した。作曲者菊末検校は明治25年(1892年)に没していた。明治10年の西南戦争の頃から、明治27-28年の日清戦争(1894-95年)の頃まで日本の家庭で「明清楽」が非常に流行した。「月琴」が中心であった。そんな時代に作曲された「嵯峨の秋」は、その調子に高低「明清楽」の影響をうけている。以上は、正派邦楽会中島雅楽之都の解説による。
どうも、月琴をかなでる趣味を有した日本の中上層社会には特別な反清感情がなかったようだ。文明開化の西洋楽よりも日清修交で明清楽が大流行した。そういう時代に『脱亜論』がどこまで深刻に受け止められたか。脱亜して、鹿鳴館の西洋舞踏会を音楽的に楽しめた人は、ほんの数人であった。
もう一つ想い出した邦楽がある。平成の今、邦楽ではなくて、「純邦楽」と呼ばれるそうだが。長唄の「虎狩」である。邦楽会最大流派の一つである杵勝派の奥許し曲であるそうだ。明治14年(1881年)に近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」(正徳5年・1715年)を二世杵屋勝三郎が長唄に移した曲である。私がここで紹介したいのは、和藤内母子が韃靼王旗下の唐人軍との戦闘に勝って彼等を捕虜にし、家来にする場面である。頭を日本流の月代にさせ、名前も日本名にさせる場面である。「チャグチュウ左衛門 カボチャ右衛門 ルスン兵衛 トンキン兵衛 ホルナン四郎 チャルナン五郎 ウンスン六郎 スンチキ九郎 ヂャガタラ兵衛 サントメ八郎 イギリス平 只今参るお供先。」
チャグチュウ=漳州、カボチャ=カンボチャ王国、ルスン=フィリピン、トンキン=東京(中国の地名)、チャルナン=印度のチャウル、ウンスン=ポルトガル、ホルナン=ポルトガル、ヂャガタラ=バタビア、サントメ=インド、イギリス=英国。捕虜夫々の出身地を頭字(姓)に、名を日本流に創氏改名させて、家来にする。和藤内は、血筋的には日明(日中)混血であるけれども、「国性爺合戦」≒「虎狩」では日本国の英雄として活写されている。
上記の明清楽の流行には文明上下の格差=差別のにおいは全くない。好みの問題だ。また「虎狩」の場合も近代文明以前の戦争、つまり勇気と肉体技術の戦争であって、勝敗の結果、敗者が勝者のはずかしめを受ける。自己中心的であって困ったことではあるが、文明上下の格差=差別のにおいはほとんどない。ウンスン六郎と呼んだり、イギリス平と呼んだからと言って、近松や杵屋が普遍文明の高みからポルトガル人やイギリス人を見下している訳ではない。勝敗は時の運であり、勝者・敗者の立場は常に逆転可能なのである。もっとも、かかる感性は、近代文明と接触すると、楽々と近代的民族差別に「上昇」転化しうる。
それに対して、同じ明治期の福澤達の言説は、文明格差の上下信仰=近代信仰そのものである。マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」から社会主義・共産主義への展望を消し去るならば、残った部分は福澤達が描く世界にほぼ等しい。それは、福澤達が市民的自由主義であるか、国権皇張主義であるかにかかわらず、両方向に共通する。文明が必ず勝つ時代がやって来た。
かつて、エンゲルスは、1849年1月の『新ライン新聞』に書いた。「フランス・プロレタリアートの蜂起が勝利すれば、ただちにオーストリアのドイツ人とマジャール人は自由となって、スラブの未開人に対して血の報復をとげるであろう。そのとき勃発する全般的戦争がこのスラブの分離同盟を粉砕し、これらすべての強情な小民族をその名も残さず抹殺することになろう。次の世界戦争は、反動階級と諸王朝はもちろん、あらゆる反動的な諸民族をも地上から滅ぼしさることであろう。そした、それもまた一つの進歩である。」
今日、2016年11月25日、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ出身のセルビア人教授 ネナド・ケツマノヴィチは、「私達は想い出します。そう、シラク(フランス首相:岩田)とモック(オーストリア外相:岩田)は、セルビア民族全体を“モラルも法もないけだもの”と決めつけたことを。」(『ポリティカ』)と書いた。日清戦争ならぬ1990年代の旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の時だ。
その意味で福澤諭吉の時代は続いている。
平静28年12月14日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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