空爆と二重心性

空爆の連鎖反応である。A国が、B国が、C国が、R国が、E国が(イギリスの議会討論を見ていると、ああ、アヘン戦争の時もこういう民主的議論を経て大艦隊を送り込んだのだな)、……と言う具合に、同じ地域の、殆ど同じ敵を空爆する。相手は満足な防空能力を持っていない。ましてや、攻撃空軍力を持ってはいない。そこで人力で非道な覆面テロ攻撃に走る。

防空能力の無い、あるいは弱い、あるいは失った敵を安全な空から空爆しまわると言う反武士道的・反騎士道的戦争様式は、大東亜戦争末期の米軍による日本諸都市大空襲から本格化した。かっては無差別、今日は電子機器の発達によって選択的。だからと言って、空爆される側の常民が味わう絶望と恐怖に差があるはずがない。

西側市民社会は人力テロや人力報復テロを非人道的・非文明的であるとののしり、弾劾する。しかるに、文明的な空中機械テロや空中機械報復テロの非人道性は一部の有識者によって理性的に指摘されるだけである。二重基準である。

ここに、一種の異変が生じた。安全圏からの攻撃のはずであったが、11月24日ロシア国のスホイ24爆撃機が何等かの戦略的意図を持ったトルコ空軍機によって撃墜された。この事件は、長期的に見れば、中近東イスラム世界におけるトルコのオスマン帝国的威信復興の最初の徴しとして位置付けられるかも知れない。キリスト教国の軍用機をイスラム教国の軍用機が射ち落としたからである。いわゆるオスマン主義の徴しである。

しかし、ここではこの問題ではなく、キリスト教世界の東西不調和とロシア軍機撃墜との関係について紹介したい新聞記事について述べる。セルビアの軍事専門記者ミロスラフ・ラザンスキの「パイロット達」(『ポリティカ』2015年11月26日、ベオグラード)なる記事を要約・紹介する。

 

シリアの反アサド政権側の武装グループ(いわゆる「穏健」反対派か、ヌスラ戦線か、イスラム国か、トルクメン人か)が、脱出し落下傘で降下中のロシア人パイロットを射殺した。事実上戦闘から離脱した降下中のパイロットを射ち殺す事は、国際法的に戦争犯罪である。西側メディアにこの戦争犯罪を非難・弾劾する大声が聞こえない。仮に西側のパイロットがこのような形で落命したならば、西側諸メディアになみだがあふれ、ロンドンからシドニーに至るまで悲しみのろうそくの火がともされるだろう。私=ラザンスキは、1991年1月「砂漠の嵐」作戦の現場で取材していた。1991年1月18日、イタリアの「トルナード」機が撃ち落とされ、二人のパイロット(少佐と大尉)が捕虜になった。大尉は、1月20日にイラクテレビの特別番組に出されて、「自分は空爆の理由を知らない。これは犯罪であり誤りであると思う。イラク大統領フセインは素晴らしい、高貴な人物である。」と涙ながらに語らされた。その翌日、西側諸メディアは大反撃に転じ、「イタリア人パイロットに対する拷問とサディズム」、「捕虜に対するジュネーブ条約違反」、「未開性と野蛮性」を喧伝した。この差は何か。ロシア人パイロットは殺され、イタリア人パイロットは殺されていない。二重基準だ。

 

私=岩田は、1980年ポーランドの「連帯」運動、1989年以来の社会主義自崩と体制転換、1990年代前半の旧ユーゴスラヴィアの諸内戦、1999年のNATOによる対セルビア大空爆、ハーグの旧ユーゴスラヴィア戦犯国際法廷等を観察しつづけて、いわゆる市民社会(中道リベラルとリベラル左派)にひそむ二重基準をしばしば見せつけられて来た。たしかに、市民社会の二重基準は、ナチズムやスターリニズムの一重基準よりも人間的である。問題は、二重基準社会の方が一重基準社会より長いことにある。とすると、二重基準というよりも二重心性と表現した方が良いかも知れない。クールヘッドとウォームハートの葛藤のあり方が二重心性であり、二重基準であるかも。

平成27年12月4日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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