2月にモスクワで行われた前原外相とラブロフ外相の日ロ外相会談は、昨年11月にメドベージェフ大統領が歴代のソ連、ロシア指導者として初めて北方領土の国後島を訪れて冷却化が進んだ両国関係を、改善する糸口を全く見出せずに終了した、と報道されている。しかし、公表された会談内容や両外相の記者会見などを分析してみると、今後の展開を占う上でいくつか注目に値する点がある。
日本側の報道発表によれば、両外相は「これまでの両国間の諸合意に基づいて双方にとって受け入れ可能な解決策を模索する必要があり、静かな環境下で協議を継続していくことで一致した」。つまり、①平和条約締結後の歯舞、色丹2島返還を記した1956年の日ソ共同宣言②北方領土交渉の対象が、択捉、国後、歯舞、色丹の4島であることを明記し「法と正義の原則」に立脚した解決をうたった1993年の東京宣言③日ソ共同宣言を出発点に東京宣言に沿って領土問題を解決して平和条約を結ぶことを明記した2001年のイルクーツク宣言―という基本文書の順守を踏襲した。
▽場外乱闘
さらにラブロフ外相は会談後の共同記者会見で「これまでと同様、平和条約交渉を継続する意思がある」と述べた。メドベージェフ大統領の国後島訪問で火が付いた日ロ間の避難合戦は、日ロ外相会談の前に菅首相が吐いた「許し難い暴挙」発言でさらに燃え上がり、外相会談は冒頭のやりとりから厳しい雰囲気に包まれた。だが、大統領の国後訪問も、それに続くロシア要人の相次ぐ北方領土訪問や、日本側の厳しい反応も、双方が自国の国民を意識したパフォーマンスであり、やや「場外乱闘」の性格を帯びていることを忘れてはならない。
これに対して外相会談は、たとえ最悪のムードの中で行われたとはいえ、ルールが支配するリングの中の正規のラウンドである。その場で、これまで両国の首脳レベルで積み上げた領土交渉の成果と、交渉の継続を確認したことは無意味ではなかった。ロシアのメディアをにぎわせている「もう日本とは交渉しない」という政府高官らの、いさましいセリフともトーンが異なる。
そもそも、メドベージェフ大統領をはじめとする政権要人の相次ぐ北方領土訪問に踏み切ったロシア側の意図はどこにあるのか。二つの見方が可能だ。一つは、ロシアは日本と領土交渉を事実上打ち切る決定をしたという見方だ。もう一つは、交渉を有利に運ぶ目的で、原則を崩さない日本を追い詰めるため、これまで温存してきたカードを切り始めたという見方である。つまり、ロシアは領土問題が未解決であることに不都合があり、解決を急いでいるという解釈だ。
▽実効支配
ここで重要なことは、北方領土を実効支配しているのはロシアだという単純な事実だ。日本が武力にでも訴えない限り、4島は何もしなくてもロシアの支配下にあり続ける。従来のロシアの姿勢はまさに、この事実に立脚して日本に対して「静かな外交」を求め続けてきた。時間が経過すればするほど、実効支配の既成事実化は進む。領土問題の解決も日本との平和条約も必要ないと判断しているのなら、何も日本側の猛烈な反発が予想される元首の北方領土訪問という荒っぽい行為に出る必要は基本的にない。無駄に日本を刺激せず、吸い取れる利益だけは吸い取る、というのが従来のロシア流だった。
その流儀を転換した理由は何か。ロシアもやはり、領土問題の解決による日露関係の完全正常化は必要だと考えているのではないか。ただ「解決」の内容が、日ロ間で大きく隔たっているので、4島返還という原則を崩さない日本に対して、最後通告を突きつけるかのような強い態度に転じたとも解釈できるのだ。
外相会談では「静かな環境下で協議を継続することで一致した」と発表されている。これまでは、ロシアが日本に「静かに」と言ってきたのだが、今度は日本がロシアに「静かに」と求める立場に追い込まれたようだ。また、ロシアが提案してきた北方領土での共同経済活動について「ハイレベルでの協議」に合意した。これも、日本側は管轄権が障害となって極めて難しいとの判断から難色を示してきたものだ。やはり、全般的にロシア側の攻勢に押し込まれたという印象は否めない。
▽包囲網
一方でロシアは、尖閣問題で日本と対立する中国、竹島の領有権を主張する韓国と手を組み、領土問題で日本を包囲する動きも見せている。第2次大戦で日本の侵略を受けた両国を巻き込めば「ロシアの北方領土支配は、日本が起こした侵略戦争の結末」であり、日本は変更を迫ることはできない、という論理が展開しやすくなる。中国と韓国は侵略の被害国だが、ロシアは北方領土を侵略した国という歴史的事実などおかまいなしなのだ。
実はロシアは2005年夏にも、この「歴史認識」を前面に押し出したことがある。時のミハイル・ガルージン駐日公使がロシア外交雑誌に寄稿した論文がそれだ。編集陣にはラブロフ外相らが名を連ね、事実上ロシア政府の見解と受け止められた。論文は歴史教科書や靖国問題をめぐる日中関係悪化に関する別の論文と同時掲載で「日本がナチス・ドイツの同盟国としてヒトラーの対ソ戦を支援したことを忘れてはならない」と指摘し「日本はアジア、太平洋地域での軍国主義侵略をごまかそうとしている」と日本の領土返還要求を厳しく批判した。「歴史」「中国」というカードは当時からロシアの手中にあった。
この時、既にプーチン政権は北方領土問題は1956年の日ソ共同宣言に基づき2島返還で決着との姿勢を打ち出しており、05年の11月に訪日したプーチン大統領も、その線を崩そうとはしなかった。しかし、戦前のいきさつがどうであれ、戦後に両国で批准された公式文書である日ソ共同宣言が存在し、ロシアがそれに依拠する基本線を崩さない限り、ガルージン論文もまた正規の交渉を有利に運ぶための「場外乱闘」の性格を帯びていた。
▽独創的アプローチ
その後、ロシアでは2008年にメドベージェフ大統領が登場した。大統領は09年2月にサハリン州のユジノサハリンスクで麻生首相と会談、外務省の説明によれば、麻生首相は「メドベージェフ大統領が事務方に指示した型にはまらない独創的なアプローチによる最終解決を目指していきたい」と語ったという。これを受けて日本の報道機関は「独創的手法で領土交渉を加速」等の見出しで、あたかもロシア側が新たな提案を準備しているかのようなトーンで報じた。ところが、この報道は誤りだった。外務省の記者団への説明に重大なうそが含まれていたからだ。
ロシア側関係者によれば、大統領は「独創的アプローチに応ずる用意がある」と述べたというのだ。つまり、日本側がこれまでの考え方にとらわれない「独創的なアプローチ」を示せば、ロシアとしても応じる用意があるという意味だったのだ。これを日本の外交官は、独創的アプローチをとる主体をロシアにすり替えてしまった。ベールイ駐日大使は「ロシア側が独創的アプローチの義務を負ったわけではない」と穏やかに日本の報道を否定したが焼け石に水だった。大統領は日本側のコートにボールを打ち返したつもりだったのに、打つ手がない外務省が勝手に、ボールはロシア側のコートにあることにしてしまったわけだ。
これは日露の両国民をあざむく行為である。サハリン州は日本がサンフランシスコ条約で放棄した地だが、どの国に所属するかは現在に至るも未定との公式立場を崩していない。ロシアへの帰属を日本がまだ認めていない地へ首相が乗り込み、ロシアの大統領と首脳会談を行えば、ロシアへの帰属を事実上承認することになり、北方領土交渉にも影響するという懸念が指摘されていた。それを無視する形で強行した首脳会談で何も成果がなかったということになれば、首相の面目がつぶれ、外務省のロシア課は責任を問われる。そこで外務官僚は「独創的アプローチ」という「おみやげ」を用意したのだった。
もともと、ロシア側に「独創的アプローチ」の用意などはなかった。プーチン前大統領が打ち出した日ソ共同宣言に基づく2島返還という線から、当時も今も一歩も動いてはいない。これに対して日本は「4島一括」の主権承認を求めている。ロシアにしてみれば、2島返還という譲歩を申し出ているのに、日本は冷戦期の強硬な立場を基本的に崩していないということになる。ロシア側が交渉進展の前提として「日本は極端な立場から踏み出す必要がある」と繰り返し、日本側に伝統的な「4島一括」にこだわらない「独創的アプローチ」を求めたのは、このような経緯があるからだった。
ところが日本外務省は、ロシア側がもちかけた共同宣言を基礎とする交渉の提案の前で、立ちすくんでいるのが実情だ。その理由を理解するためには、冷戦後の領土交渉の経過を振り返っておく必要がある。
▽日ソ共同宣言
1991年4月、ソ連のゴルバチョフ大統領が訪日した。海部首相との会談は計6回、12時間以上にわたった。海部首相は日ソ共同宣言の確認を執拗に迫ったが、ゴルバチョフは応じなかった。会談を総括する「日ソ共同声明」には「1956年以来長年にわたって2国間交渉を通じて蓄積されたすべての肯定的要素を活用しつつ」との表現が盛り込まれたが、ゴルバチョフ大統領は、これは共同宣言を確認したものではないと明言した。
ゴルバチョフが訪日した1991年末にソ連は崩壊した。ソ連を継承した新生ロシアとの領土交渉で一つの頂点となったのは1993年の「東京宣言」である。この宣言では、帰属交渉の対象として4島の名前を明記、「過去の遺産の克服」「法と正義」を解決の基礎とうたった。こうした抽象的な文言の背後には、スターリンによる北方領土の不法占拠の否定、日ソ共同宣言の有効性が意識されていた。共産党支配を否定してソ連を崩壊に導いたエリツィン政権は、スターリン主義とソ連体制に対して否定的な考え方が強く、北方領土問題もスターリン時代の誤りの是正ととらえる傾向があった。しかし、エリツィン体制の基盤はまだぜい弱で、国民感情を鋭く刺激する領土問題で大胆な解決に踏み込むことはできなかった。
次のヤマ場は1998年。「ボリス」「リュウ」と呼び合う個人的な関係を通じて領土問題打開を図った橋本龍太郎とエリツィンによる伊豆半島・川奈での首脳会談だ。ここで日本は従来の戦略を転換して、日ソ共同宣言の確認を求めず、「島の返還」ではなく「国境線の画定」という概念を前面に打ち出した「川奈提案」を持ち出した。外務省はこの提案の内容を公表していないが、報道機関に一部をリークしている。
エリツィンはこの時、川奈提案に関心を示したが、日ロ双方で政治情勢が緊迫、健康が悪化したエリツィンの政治的求心力は衰え、橋本もこの年7月の参院選大敗で退陣した。日本外務省は今でも川奈提案の復活を完全にはあきらめていないようだ。
エリツィンから大統領の座を事実上禅譲されたプーチンの時代になると、領土問題のキーワードは再び日ソ共同宣言に戻る。ゴルバチョフ以来、どのように日本ががんばっても認めようとしなかった日ソ共同宣言を、プーチンは意外にあっさり認めた。しかし、この宣言は2島の返還しか明記していない。それでは困るという日本側の働き掛けで生まれたのが、共同宣言に基づく歯舞、色丹の返還の在り方と、国後、択捉の主権の問題を同時並行的に協議するという方式だった。
▽背信
この同時並行方式を推進したのが、自民党の実力者として外務省に強い影響力があった鈴木宗男氏、外務省の東郷和彦欧州局長、佐藤優分析官らだった。だが、外務省内部やOBの中には、日ソ共同宣言を交渉の基礎とすれば、2島返還による決着を狙うロシアの思うつぼと考え、あくまで東京宣言を基礎に4島一括の原則を崩してはならないと主張する「東京宣言派」とも呼ぶべき勢力がいて、同時並行協議の実現を妨害した。鈴木宗男氏、佐藤優氏は検察に逮捕され、後ろ盾を失った東郷氏は外務省を追われた。
ゴルバチョフ大統領の訪日時に海部首相が執拗に食い下がって確認を求めた日ソ共同宣言は、川奈提案までは日露領土交渉の基本線だった。だが、エリツィン時代が終わりプーチン時代が訪れ、再び日ソ共同宣言が今度はロシア側から交渉のテーブルに乗せられた時、日本外務省は内部抗争とも言うべき激しい組織混乱の後遺症で、この宣言に立ち戻れなくなってしまった。日ソ共同宣言を肯定もできず否定もできず、領土をめぐる日本外交はなすすべもなく今に至っている。国民や北方領土の元島民に対する背信というべきであろう。(了)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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