竹村喜一郎氏(筑波大学名誉教授)の訃報に接して

10月2日の朝、友人のH君から電話があり、竹村喜一郎氏が9月17日に亡くなっていたということを聞いた。

あまりに突然のことで、頭の中が整理できないまま、とりあえず私が知っている僅かな共通の友人たちにメールで連絡した。また一人身近な友人があの世に去っていった、という何とも虚しい感覚だけが残った。

竹村が入院してリハビリに励んでいるということは、息子さんからの年賀欠礼の(?)ハガキで知ってはいた。それにしてもあまりに急すぎると思った。

この日の午後、彼のご子息(尚隆氏)からの訃報のハガキが届いた。何人かの友人たちからもメールでの返事が返ってきた。連れ合いに「弔文」を書いてちきゅう座に載せるべきだ、と言われたが何を書いていいか判然としないまま過ごす。

昨夜はそういう状態で、お酒を飲み、YouTubeで動画(1960年代後半ごろの東映やくざ映画)を観ながら、あの頃を思い出した。

竹村との最初の出会いは、彼の記憶では全共闘が東大安田砦(安田講堂)に立て籠もった時だったという。その時、砦の中であったのが最初だといわれたが、私には確かな記憶はない。何か、やせて背の高い男と話をしたという記憶は漠然とながらあるが、それが竹村だとは断言できない。

次に出会ったのは、私が東京南部にあった職場を辞めて、小平へ引っ越したころ、やはり友人の慫慂で「ヘーゲル研究会」(現、「日本ヘーゲル学会」)に入会した時期である。

入会のための電話は、当時大学院生だった滝口清栄氏(後に法政大学教員)につながり、その後、本郷の「学士会館」で行われた「ヘーゲル研究会」に誘われた。

確かその時のテーマは、「ヘーゲルとフランス革命」に関するものだったように記憶している。論者は、上妻精、生方卓、そして竹村喜一郎だった(実際にはそれ以外の方々もいたように思うが憶えていない)。

研究会終了後に、滝口氏に「長いこと遠ざかっていたので、改めてヘーゲルを勉強したいのだが、どなたか適任者をご紹介願いたい」と申し出た。その時滝口氏が連れてきたのが竹村だった。

私の印象では、謹厳実直そうな、われわれ「活動家上がり」には近寄りがたい雰囲気の学者先生(当時彼は筑波大学助教授)だ、というもので、それ以外のことはまるで思い出しもしなかった。

そののち、彼と親しく酒を酌み交わす仲になった時、彼の方から、先の「安田砦」での出会いを聞かされて、「覚えていないの?」と訝しがられた。

因みに、彼はその時「安田砦=解放講堂」に防衛隊の一人として立て籠もり、一階の入り口を一人で死守し、最初に逮捕されている。東大生の時は、「解放講堂」陥落直前の最後の名アジテーションをやった三井一征君と同級生だったという。

ム所を出て、しばらく『現代の眼』という雑誌社に勤めていたが、その後大学院に入りなおして、筑波大学に就職することになったようだ。

竹村との思い出は、毎月一回(あるいはもっと頻繁だったかもしれない)の「ヘーゲルの読書会」(『精神現象学』『大論理学』『法哲学』を一緒に読んだ)、箱根での合宿、ドイツでの思い出(彼が交換教授として、ベルリンで一年間過ごした時、われわれ夫婦も呼ばれて10日間程度お世話になった)、そして無数の飲み会、等々。

今、竹村を偲びながらここではあえて彼の謹厳実直さとは裏腹な面のいくつかを書いて追悼したいと思う。

竹村の講義は、お世辞にもうまいとは言えなかった。彼の誠実な人柄と、テーマがヘーゲルだったせいがあることは否めない。しかし、ひとたびお酒が入るとたちまちがらりと変わるのだ。「あんな奴ぶっ殺せ」から「学生運動もしないで学生なんて言えるか」と、すさまじい勢いで吠えまくる。専門のヘーゲルに関しては、「ヘーゲルの面白さは、その時代に制約された思想というところにあるのではなく、未来に向けた可能性の中にある」「ヘーゲルが一番書きたかったのは、『法哲学』だったと思う」…。

私自身、よく彼を冷かして、「あんたは講義をする前に少しアルコールを入れたほうが良いのでは」と言ったものだ。

しかし、ヘーゲル哲学をいまだに追いかけている私としては、やはり竹村が一番魅力的なヘーゲル学者だったと、いまさらながら痛感している。彼はヘーゲルを、どこまでも社会変革をテーマとする哲学者として追いかけていたと思う。現状肯定ではなく未来の哲学者として。

もっとも、廣松渉さんに言わせると、「竹村の奴は、ヘーゲルはすでに『相対性理論』まで持っていたかの様に言っているが、それはありえない」ということにもなりうるが。

廣松さんとのことで思い出すのは、竹村が『現代の眼』の編集をやっていた時代に、廣松さんに頼んで連載してもらったのが、のちに廣松の『資本論の哲学』になったそうで、竹村の自慢の一つだった。

もう一つだけお酒にまつわる話を書いてひとまずこの稿に区切りをつけたい。

実は彼が大学の図書館で倒れて救急車で運ばれたと連絡を受けた後、さて何をお見舞いに送ろうかと思案しながら、本箱の下を探っていたら、とっくに飲み尽くしていたと思っていたドイツから担いできた、チュービンゲンの赤ワイン『ヘーゲル』(実際にそういう名前のワインがある)が一本だけ出てきたのである。まあ、赤ワインはポリフェノールが多いそうだから、血圧などにも良いのではないかと考えて、それをお見舞いとして送った。

間もなく彼から電話がかかってきた。「もういつ死んでもよいと思ったからあれを一晩で一人で空けた」という。ドイツのワインは、大体が一リットル瓶である。ちょっと無茶ではないか、と言ったのだが、案の定、その後「大腸がん」で入院している。

竹村にもわれわれ同様にかなり「おっちょこちょい」なところがあったようだ。

まだまだ書き残したことは多い。また時々は思い出しながら思い出を書き続けたいと思う。

今、一番心残りなのは、竹村、滝口清栄、そして私の共編となる予定の著書が、いまだに出版されていないことだ。若者の活字離れと、このところの出版事情の劣悪さなどが相まって、原稿が完成してからすでに十数年たっているが、出版の目途が立っていない。

竹村に対する私の義理からいっても、何とかしなければと思っている。

生前の感謝とともに、竹村喜一郎のご冥福を心から祈りたい。

2024年10月3日 合澤 清