連帯・共同ニュース第139号 第140号 2011年8月3日・8月4日
<9条改憲阻止の会>
第11次支援行動報告―子供たちに水と野菜などを届けました(第139号)
■ 7月28日、29日の第11次トラック隊の報告を送ります。参加メンバーは、長船さん、塩見さん、内本です。戸田議員(大阪門真市の市会議員)と戸田さん後援会の方が宣伝カーで大阪から来られ、二日間行動を共にされました。今回の輸送物資は、御殿場小山町(おやまちょう)の湧水10リットル×100箱、千葉和郷園野菜30数箱、茅ヶ崎渡邊さん野菜7箱、スイカ10個(戸田さんが千葉で購入)ノートパソコン2台、プリンター1台でした。御殿場小山町の水は、前日夕方、江田さん、正清さん、三上さん、吉岡さんが御殿場まで汲みに行きました。渡邊さんの野菜は出発日28日早朝収穫、渋滞でトラックが大幅に遅れ昼に和郷園で車二台が合流、野菜を積み、夕方福島市到着でした。前回は金曜日に野菜を届けても休園の土日をはさむので月曜以降にしか子どもたちは食べられませんでした。今回、翌日は金曜日なので新鮮なうちに食べられる日に届けることが出来ました。
■ 保育士さん達の協力も得て、福島市南福島保育園に、野菜7箱を残して野菜と水全てを短時間に降ろしました。私たちの到着を待っていたように、一部を他の保育園用に別の車に積み込み、すぐにその車は出発しました。南福島保育園は、個人経営の無認可保育園(地域保育所)です。園長の丹治洋子さんと20分ほど話すことができました。丹治園長は、連れ合いさんの土地で保育園をされていた方が辞めたのをきっかけに保健士を辞めて保育園を始めたそうです。24年間、あくまでも自立して行政に頼らず無認可でやって来られた。園児150人、保育士32人、学童保育80人、24時間保育もされています。すごい規模です。以前、地域保育所は17園あったが、原発事故で避難・疎開した子どもがいて2園が閉鎖して、現在15園。(1園は給食なし)丹治園長は15園の地域保育所協議会の会長。丹治園長の所は子どもが減ってもまた入園するので150人は変わらないが、他の園は1割ほど園児の数は減っています。各園とも水と食べ物の放射能汚染には気を使っていて、水はそれぞれ工夫されているようです。牛乳も止めた。丹治園長の所は、サーバー、浄水器も使っています。赤ちゃんの粉ミルクはサーバー。地域保育所以外の公立保育園などは、水道水を使い「地産、地消」と言われ地元の野菜などを使っているということでした。公立に入ることが決まったお母さんがそれを知って、公立を辞めて丹治園長の所に入園しました。
こちらからの話として、水の手配を検討し水メーカーにも当たっていますが、まだ結論は出てなくて、給水車などはどうでしようか、とお聞きしました。給水車で水を運んでも、車から移し保管する容器などもなく、給水車での運搬は無理な様子でした。8月8日に地域保育所の園長会があります。その時に、一月に絶対必要な水の量とできるなら必要な量の2段階で園長さん達に聞いてもらうように話しました。野菜は、8月はどこも品薄でどのようになるかまだ分からないと、また野菜を提供された和郷園、渡邊さんに、子どもたちから絵手紙などがあるとうれしいのですが、と話し丹治園長は、快く引き受けてくださいました。
■ 夜の帷が降りる頃、次に向かったのは、子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク情報センターの市民放射能測定所です。理事長の丸森あやさんもおられましたが来客中で、生活村世話人の椎名千恵子さんにご挨拶して、先日生活村でお会いした避難所生活のお二人の女性への寄贈ノートパソコンを椎名さんに託しました。翌日南相馬市に野菜を届けるので(高速無料申請のため)、この日の宿は南相馬市の農家民宿です。1時間半かけて嵐の山越えの移動です。民宿は市からの補助金が宿に出るので、半額で宿泊できました。約束の時間を大幅に過ぎたにもかかわらず、御婦人と手伝いに来られた姪御さんと心温まるもてなしでした。貴重な津波の映像を見せて頂き、放射能について話題が尽きませんでした。翌朝は日米安保が問題だとまで口にされる雄弁な宿の旦那さんとの熱い話になりました。南相馬市の農家は米の作付けをしないで東電に補償させることにしています。自慢のイギリス製オートバイのエンジンまでかけて頂き、バイク好きの戸田議員は大変嬉しそうでした。朝6時から戸田議員を案内して、津波の被害がひどい小高区、6号線20キロ検問地点に行きました。南相馬市ボランティアセンターに残りの野菜を降ろし、市役所に向い、戸田さんは不在の市長の秘書室に名刺を置いてきました。
■ 2時間かけて磐梯に移動です。水も空気も磐梯は涼やかでした。リゾートイン磐梯で、長船さんはプリンターの設置、塩見さんは第三セクターの管理者とホテルの係員と面談、私は前回トラック隊が会われたOさんと話しました。各地の原発で30年働き、今の状態を何とかしたい、行動隊に参加したいと言われています。なぜ原発で働き始めたか、今の家族の状況などをお聞きしました。リゾートイン磐梯は前回130人いたそうですが、今は半分以下に減っています。8月に閉鎖、延びてもスキーシーズンが始まる11月には全員出なければいけないということです。Oさんは最後まで残る、追い出されたら20キロ圏内の自宅に歩いてでも帰るとおっしゃっていました。600円台の時給のバイト、月収13万円の求人表が、虚しく掲示板に張られています。
■ 東京に着いたのが夜9時でしたが、壱岐から久々に来られた斎藤さんの懇親会が四谷の事務所で開かれていましたので、長船さんと私は報告も兼ねて事務所で皆さんと合流しました。駆け足の二日間でしたが、物資を無事届けることができ、丹治園長さんとも話ができ、新たな出会いもありました。子どもたちを放射能から守るために避難、疎開、保養を進める福島ネットの方々、そして子どもたちを守るために大変な努力を親御さんと協働してなされている保育園の方々との繋がりを強くしていきたいと感じました。市民会議の会議と阻止の会の合宿で今後の進め方を議論し、位置づけをはっきりさせて、財政も含め、方針を詰めていきたいと思います。今回、物資を提供していただいた方々、集めていただいた方々、ご協力いただいた全ての皆さんに心からお礼を申し上げます。参加者のみなさんお疲れでした。(文責 内本)
大震災緊急支援活動のこれまでと今後について(第140号)
■ 揺れが長く続くのでテレビをつけたというのが最初の行動だった。急いで、連れ合いや息子に電話をしたが通じなかった。この大震災に対して取った人々の行動は様々であったろうが、僕は極平凡なものだった。しかし、その衝撃は大きかった。どんな大事件でも時間が経ればその衝撃は薄らいで行くものだが、この大震災は違うように思える。遅れる復旧や復興作業の現状もあれば、依然として進行中の原発震災もある。歴史、あるいは時間の速さが事件を風化させ、相対化させる中で、大震災や原発震災はそれを押しとどめているところがあるように思う。これがこの事件の歴史的意味であり、この深さなのかも知れない。考えても、考えても分からないと呻くしかないところがあり、考え尽くすしか道はないと思っている。僕はこの事件の衝撃の中で、いろいろのことを考え幾つかの行動をしてきた。その一つが東日本大震災緊急支援市民会議を立ちあげての行動であった。これは国会前の座り込み行動に使う車(トラック)を使っての支援だ。
■ このニュースでお知らせしてきたように第11次までの緊急支援行動であり、それは福島を中心に、水や野菜などを提供することであった。石巻に出掛けて行った第4次を除けば原発震災の福島を支援行動のメインにしてきた。そして水や野菜の提供から、情報機器や周辺機器もそれに加えられた。繰り返される支援行動の中で、当初はともかく現地をみよう、出掛けよう、行動しながら考えようというのが実情であった。その模索の中から放射能汚染の現状もそれに対処しようとする人々の姿も少しずつみえてきた。福島第一原発の暴発を阻止することと、放射能汚染から人々を守ることは党派を超えてやらなければならないことである。この放射能汚染から人々を守る政府や行政の行動は立ち遅れ、後追いばかりの印象である。稲わらと肉牛問題もそうであるが、どれほどの放射腺が放出されているのかの認識から、その防止対策まで総合的な対策があるとは思えない。原発推進派は依然として自己を軽いもの見せようようとして、放射腺との闘いを陰に陽に妨害している。放射線との闘いは人類史的闘いであり、福島の原発が世界に向かって提示していることだ。だが現状は福島の地域住民による様々の闘いが模索されて状況である。 特に子供を放射能汚染から守る様々な行動が注目される。僕らの11次にわたる行動は秋から子供放射能から守る闘いに連携する方向に軸を移行させる。僕らが出来ることは限界があり、他のボランティア団体にも働きかけ対応したい。別紙の第二次カンパをお願いする。(文責 三上治)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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