米国病?を病んだ現代日本(その2)

「自由の国」アメリカとは、英国植民地からの自由・独立のことにすぎない。

 この国の官僚主義政権が発表する言葉はなべて、
つねに現実から回避・逃亡しようとするという意味で病理的である。
自分たち指導部にとって厄介で、困難な現実を歪曲し矮小化することで、
国民にとっての生き難い困難という現実から眼をそらし背を向けて逃亡しようとする意味で
退行欲求をあらわしている。
それは官僚というものの習性というより本態というべきものである。
この病理の言葉にかかわっていては感染させられるだけであろう。
まずは相手にしないに越したことはない。
つまり、政治には「まったくの不信と警戒」だけをもっていろ、ということである。
わたしたちは、生き難い困難という現実から、たたかいぬいていくほかない。・・

さて前回から、
グローバル・マネー自由資本主義という名の覇権主義を世界中におしつけてくる
その「米国のものの考え方の起源」をとらえるために、
「超・格差社会アメリカの真実」(小林由美)をテキストに
その建国前夜からの歴史をたどっていこうとしています。

「アメリカの最初の奴隷は、借金が返せないため投獄され、強制労働させられた人々で、

バージニアのプランテーション開発」に投入されたが、やがて「アフリカから奴隷狩り輸入が始まると、
地理的に近いアメリカ南部から流入し、その最大の奴隷市となったのがニューオリンズだった。」
南部では
「奴隷を労働力にしたプランテーション(綿花)が最大の産業に発達し、プランテーション成金層を形成した。
米国『建国の父』として名を残すジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソンも」

プランテーション奴隷資本を基盤にした南部のエリートだった。・・・

やがて、
「アメリカ植民地の支配層とイギリス本国が衝突するきっかけになったのは、
英国が、アメリカ・インディアンと同盟したフランスとの戦争(フレンチ・インディアン戦争・英仏七年戦争)で
膨大な戦費を費やし、その戦費を回収するために植民地に印紙税等を課した」ことにあった。
また
「当時の英国は産業革命が始まって生産力が増大し、その売り先をアメリカ市場にももとめていた。
国王が貿易を独占し、関税を課していたことに不満を持つJ・ハンコックを筆頭とする植民地アメリカの貿易商は、
活発な密貿易を営んでいたが、本格的な取締りにあって、はげしく対立するようになった。」
というように英国の懐事情が「臣民」であったアメリカ植民地のエリートたちを離反させていった。

おわかりのように「アメリカ独立戦争」そのもには賞賛されるべき理念(「自由平等」)などはどこにもない。
その結果として、
「明確な敗者は、英国からの派遣支配層」であり、かれらが残していった資産は
植民地で一旗挙げようとした独立派の手中に納まることになる。
要するに、まったくの富と権力の奪取というリアルなたたかいにすぎなかった。
英国商船の略奪を公認されたニューイングランドの「海賊資本家」のなかでも随一のロバート・モリスは、
「米・仏軍の資材調達、戦争債権の払い戻しに奔走し、植民地のトップ・ファイナンシャーにのしあがった」し、
フランス人船乗りからのしあがったステファン・ジラールもしかり。

「こうして独立戦争が終わってみると、アメリカにおける経済地図はガラリと変わっていた。
それまで隆盛を誇っていた南部に代わり、英国資産が最も多く残され、圧倒的多数の海賊船を擁し、
かつ戦争債権の40%を大幅ディスカウントで買っていた北部のニューイングランドが、

最も豊かな地域に変身していた」のである。・・・

言うまでもなく
「植民地側の最大の敗者は、戦争に駆りだされた一般市民や農民、そして奴隷だった。」・・・

「次に悲惨な目にあったのは、バージニア以南の地主層である。
英国は綿花や砂糖を筆頭に農産物の最大の輸出市場で、かつプランテーション開発の最大の資金源だった。
南部はその両方を同時に失った」のである。
その上に追い討ちをかけて、
独立後の「戦争債権を払い戻すための資金は、ウィスキーやタバコの物品税と関税が中心になり、
結局南部の農民が戦費の大半を負担することになった」こと。

さらに「その資金の半分近くが、ニューイングランドの債権投機筋の手中に納まった」こと。
「独立戦争による南部の経済力の衰えは、かれらの政治力も弱め、その後
輸入関税や奴隷資産の扱いをめぐって北東部の新興工業勢力と対立し、
やがて、南北戦争へとつながっていく。」・・・

「1776年、独立宣言が署名された年に、英国ではアダム・スミスの『国富論』が発刊された。
この本でスミスは重要なことを二点指摘した。
第一に、キリスト教が人間の物質欲を「根源悪」とおしえていたことを、スミスは
個人の過度な欲張りに歯止めをかける社会の力を前提として、
人々の欲求にこたえ、社会の幸福に寄与し得るとして、物質欲を根源悪から解放した
こと。
第二に、当時の重商主義下の独占免許制を排除して自由競争(レッシェフェール)させることが、
市場の「見えざる手」をとおして社会に有益な結果をもたらすと指摘したこと。」–

これは当時の哲学および経済思想としてある意味では画期的なものにちがいなかった。

当然、独立を勝ちとった
「アメリカの支配層はこれを市場資本主義の基本理念として心底から賞賛した。」
ただし、かれらはスミスの思想を換骨奪胎して、
じぶんたちに都合のいい「アメリカ式自由競争市場主義」を定着させていった。

すなわち、そこでは「「独占の排除」が無視され、
自由競争という眼くらましの自由という記号の部分だけが採用されたこと。
さらに前提である
個人の過度な欲張りを抑制するものとしての「社会の圧力」が、「アメリカには存在しなかった」ことである。

しかしそれにしても、
それこそが現在のグローバル・マネー至上主義にそのまま通底していることにおどろかされる。・・・
独立後しばらくすると、連邦政府と各州の自治権をめぐる対立から、支配層のあいだに亀裂が入ってくる。
「1829年には庶民出身で、かつ南西部フロンティア出身の最初の大統領(七代目)が誕生する。」
「選挙権の拡大(土地を持たない自由人にも)は貧しい開拓移民の急増を反映していた。」

またそのころに、
「エリー運河の開通によって、五大湖周辺の輸送力が飛躍的に増大し、
穀倉地帯から農作物が沿岸都市に運ばれ、沿岸都市で生産された工業製品は内陸に運ばれ、
急増する移民は低賃金労働力として工場に吸収されて、北東部工業地帯が急速に形成されていった。」

この北東部の発展は、
「運河建設を推進して、海から陸に上がった海賊資本家」を、
ニューヨーク一帯の不動産を買い占めるアメリカ最大の資産家に押しあげたいわれている。
「こうしてニューイングランドからニューヨークを中心に蓄積された海賊資本は、
急速に工業資本や金融資本へと変身をとげ」る一方で、
都市部や工業地帯には低賃金労働者層が形成されていった。」

とはいうものの、
「工業労働者はまだ人口の4%にすぎず、アメリカはまだ、アメリカン・インディアンを西部へ追いやって
開拓フロンティアを拡大することに忙しかった。」・・・

連邦アメリカは、
南部に400万の黒人奴隷と北東部に「賃金奴隷(paid slavery)」の工場労働者を吸収しつつ、
アメリカ大陸を西へ西へと侵攻占領していったということである。

(次回につづきます。)

ブログ・心理カウンセラーがゆく!http://blog.goo.ne.jp/5tetsuより 転載.

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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