東日本大震災以降、絆という言葉が世の中で一つのキーワードとなった。大震災によって我々は、人と人との絆は勿論、人と動物との絆、人と自然との絆など、絆の大切さ、絆あり方の重要性を、改めて深く考えさせる契機を与えられた。
絆――それは細い糸のようなものではなく、一つの場である。「関係」を成り立たせている場である。人が居て初めて場が成立するのではない。場があって初めて「関係」は成立するのである。そして場は、人間によって初めて思惟され得るものでもある。動物は場に溶け込んでいるが故に、それを思惟することはない。人間こそが場を問うことができる存在者である。動物は場に溶け込み、またその背後の「全体的生命」あるいは「生命そのもの」からの強力な意志のようなものに突き動かされている。動物がいかに「個」を持っているとしても、それはやはり「全体的生命」からの力の陰に隠れている。
人間は「生命そのもの」からの「語りかけ」に呼応する。「語りかけ」を了解し、尚且つ自らの意志をもって動く。この「語りかけ」に対して人間が傾聴する場は、「生命そのもの」と人間を結合させる、いわば〈絆〉である。
「絆」と〈絆〉を、ここでは区別したい。「絆」が人間と他の存在者との「関係」を成り立たせる場であるのに対し、〈絆〉は、「生命そのもの」と人間との「関係」を成り立たせる場であると定義する。「絆」と〈絆〉は、その位相(次元)を異にする。勿論、どちらが上位という訳ではない。しかし、〈絆〉の方は、「絆」をもあらしめる、より根源的な場である。
まずは「絆」から見ていきたい。
「絆」は、横の「関係」をあらしめる。つまり人間と他の存在者との、自己と他者(対象)との、「関係」である。両者は互いに「語りかけ」合う。その際、両者は「適当な距離」を保っている。我々は通常、対象(他者)といわば「適当な距離」を保っている。対象と何かしらの「関係」を持つことが可能な近さにいながらも、それは完全にその対象と一体化してしまう程、近いというわけではない。また主体が対象に働きかけても、全く反応を示してくれないときや、対象が全くどうにも主体の思い通りにいかないとき、主体は対象から離れ、独立あるいは孤立していると感じる。しかし独立し対象と離れているとはいえ、その対象に働きかけることができるだけの近さにいる。これがいわば「適当な距離」であり、この微妙な距離を保つことが、世間では「正常」・「健全」と言われる。
しかし、これがあまりにも「正常」・「健全」、つまり「当たり前」になりすぎた場合、この「適当な距離」における「関係」を成り立たせている場=「絆」は見えなくなってしまう。眼鏡を掛けている人が普段、全く掛けていることを忘れるように。その有難さ、大切さは忘却されてしまうのである。そのような「適当な距離」における「関係」の場に強烈に気付かされるのは、人と眼鏡(対象)との「絆」に亀裂が入った時である。
大震災によって、「適当な距離」は「適当」ではなくなったのだ。これまで「当たり前」だった「関係」は「地」として風景に沈んでいた。それがこの度、「図」として浮かびあがって来たのである。
大震災が、我々の間に「適当な距離」があったことを気付かせた。そして我々は、これがいかに重要なものであったのかを改めて思い知ったのだ。「当たり前」だった近所づきあい、「当たり前」だった親戚づきあい、「当たり前」だったペットとの関係――、いや、「当たり前」すぎて逆に、それらは「希薄」にすらなっていたであろう。
「絆」を「当たり前」にしないことは不可能であろうか。月日が経てば、「絆」は再び「地」に隠れてしまうのであろうか。確かに、人間は「ひび」を修復しようとする。「破れ」を放っておくことはできない。「故障」した場は、居心地が悪いものである。人間はこの「故障」を必ず修復しようとする。そして再び「地」に帰そうとする。しかし、この「ひび」が、「破れ」が、「故障」が、大事な事柄を気付かせてくれた事実は決して忘れない。人間が「思惟する存在者」である限り。
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