経営トップの任期は二期四年

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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経営トップの任期は状況次第で、一概に長いほうが短いほうがとは言いきれない。ただ、短すぎるより長すぎるほうの弊害のほうが大きいと思っている。

議論し尽くされた感があって、いまさら長短を云々してもと思っているところに、立派な経営コンサルタントのご高説が目にとまった。分かり易い例もあげての所説によれば、任期が短すぎるから中長期の経営戦略がしっかりせず、日本の競争力の低下を招いているそうだ。

まあ金を払ってくれる現経営陣に都合のいいことを言わなければ、メシを食っていけない経営コンサルタントという立場もあってのことだが、経営コンサルタントなんてのは、そんな三味線引きに耳を傾ける経営陣がいるから成り立っている商売だということを念頭において聞いた方がいい。

 

「『経営者の任期』ということについて、常々考えさせられることがあります。あくまで私見ですが、日本企業の競争力低下の原因の1つに、役員を含む社長の任期が短いことがあるのではないかと考えています」

長い任期で上手くいっている会社や組織もあるだろうし、短くきって市場の変化に迅速に対応して成果を上げてきた会社もあるだろう。成果という果実を生み出してきた要因を経営トップの任期の長短にもとめて、例をさがせばいくらでもみつかるだろう。簡単明瞭な結論を求める経営陣にむけて、短いほうが長いほうがという口上、コンサルとしは美味しいビジネスでつい持論を展開したくなるのもわかる。任期は状況次第で長いほうがいいこともあるのを承知の上で、長いほうの問題をちょっと整理しておく。

 

任期の長短の話に入る前に、社会と組織と人の性のようなものをいくつか確認しておく。そもそも状況次第でしかないのに、この視点なしで任期云々を言い出すと、ああだのこうだの言い合った挙句が、やっぱり状況次第ですよねという、時間のムダの典型になってしまう。

 

先ず第一に「君子は豹変す」

手垢がつきすぎた感がある言葉だが、言っていることを社会に投影してみると、いくつかの実態が見えてくる。豹変する人は結構いるが、無定見、あるいは個人の権力を誇示せんがためのことで、今までのありようと整合性のつけようのない変更を繰りかえすだけがほとんどだろう。

小説や映画の世界でもあるまいし、よほどの運に恵まれた人でもないかぎり「君子」に出会うことはない。普通の人が普通の生活や仕事で出会えるのは、精々茶坊主に持ち上げられた裸の王様のような御仁が、ご自身を君子だと勘違いしている、あるいはさせられているだけだろう。「社長」と「先生」は人を持ち上げるときの最も安直な枕詞だとわかっていても、のせられてしまうのが人間の性だろう。

次に「健全な批判にさらされない権力は腐敗する」

経営トップになって、いくらもしないうちに茶坊主に囲まれていることに気付く人がどれほどいるのか。蜜に群がるアリのように阿る人たちを整理して振り払える人はなかなかいない。同じように箴言してくる人たちを重用できる人も限られている。

 

最後に経営トップに課せられたいくつもある責務のなかで、これを外せば任に能わずというものがいくつかある。社長でも部長でも、マネージャでもいいが、組織を牽引しなければならない立場になったら、組織を構成する人たちが能力を培い、実力を発揮し得る環境を提供するのが最優先の任務だという意識がかかせない。仕事をするのは個々の担当者、その担当者が任務を果たし得る組織と文化をつくらなければならない。命令や恐怖では人は動かない。やりたくてやる仕事とやってられるか思いながらするのでは結果に大きな違いがでる。

次に欠かせないのは、自分たちの十年前、五年前、三年前を振り返って、自分たちの三年後、五年後、十年後のありようを描く姿勢と能力が問われる。変化の激しい時代だからこそ、自分たちの当面のそして将来のありようを描いて、現在のありようとの「差」を明確にしなればらない。この差を縮める方法なり手段が戦略になる。社会や市場における、顧客や同業他社との違いも含めて自分たちのありようをはっきり理解しえない、規定しえないところから戦略と呼べるものはでてこない。差を明確にできないまま言っている戦略なんてのは、正真正銘のゴタクにすぎない。

 

先にあげた「君子は豹変す」を斜め下からみれば、任期の長短の影響を想像できる。「差」は常に変わり続ける。社会も変れれば、市場も同業も顧客も変る。変った「差」を縮めるには先に掲げた戦略を変更、あるいは訂正しなければならないこともある。任期が長くなればなるほど、組織は先に掲げた戦略のもとでいい立場にいられる人たちが、そのいい立場を既得権益として固持しようと、それも個々の人、個々の集団、組織を上げての抵抗勢力となってしまう可能性が高い。君子に遠く及ばない巷の経営トップが豹変もどきをしようにも、しようがないという現状を自らが作り上げてしまったことに気付く可能性すらなくなってしまう。

 

後任を育てて、切りのいいところで重い責務を引き渡す。次の世代を育てられなくて、なんの経営トップなのか?これは役員にも部長にも課長にも言える。マネージメントする立場になったら後進の育成を日々の課題としなければならない。たとえ予想をはるかにうわまわる実績を上げたとしても、育った後進に道を譲らなければならない。譲られた後進は君子としてではなく、普通の経営トップとして前任者が豹変しなければできなかったことを普通のこととしてできる。

任期が長くなればなるほど、今までやってきたことの延長線でしか市場も自分たちも見られなくなるし、やってきたことの流れに流されるのを防ぎきれない。豹変する君子でもあるまいし、天動説を唱えつづけてきた人が、ある日「お告げ」でも受けたかのように地動説を言い出せるか?それを聞いた茶坊主どもが、従業員がどうとらえるのか。一度でいから茶坊主相手に実験をしてみたいという思いまである。

いままで散々「がんばれ、がんばれ」といって無理に無理を重ねてきた人が、ある日経営トップとして次のように言い出したら、誰がそれを信じるのか?

「社員が普通に仕事をすれば、普通以上の成果を生み出せる組織と体制を提供するのが経営陣の責任だ。私生活まで犠牲にした無理をする時代じゃない」

たとえ正論であっても、それを実現する手段を整える算段もない話は混乱を招くだけでしかない。遂行しえない戦略はないほうがいい。

 

水が滞れば腐る。人が居続ければ組織が硬直化する。常に違う環境への対応という疾風にさらされて人も組織も育つ。変り続ける社会と市場のなかで、変わることもなく昨日があったように今日がある、明日は今日の延長線が当たり前になった人や組織は遠かならず衰退する。

後進への引継ぎも考えずに引き受けるような経営トップはいらない。できる社長の任期は二期四年。できないヤツが現状に固執する。

2023/1/24

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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