皇室問題を考える
奇妙な援護論
秋篠宮の悠仁親王の筑波大への推薦入学決定の報道があった直後、雑誌編集者の元木昌彦氏はウエブサイトなどで「親王が東大を目指していたとの見方は誤りで、筑付(高校)に入った時点で筑波大へ進学することが自然だったはずだ」と述べ、東大進学計画を報じていた週刊誌などの報道姿勢を批判している。
しかし筑波大進学は次善の策だったのではないか、また筑波大の推薦条件を本当に満たしていたのかなど、疑問を呈する向きもあり、批判が収まる様子はない。そもそも元木氏の議論は以下のように、最低限の取材もせずに書かれた奇妙なものである。
第一に、親王は高校在学中、東京農大や玉川大など、複数の大学を見学に訪れている。筑波大付属に入った時点で筑波大への進学が既定路線になっていたという論は、はなから成り立たない。
第二に、元木氏は筑波大にも私立大学の付属高校と同様の内部進学制度に似たものがあると思い違いしているようだ。国立大は法人化により運営の自由度が高まり、一部の大学では付属高校からの内部進学制度を作ったものもあるが筑波大にはない。新構想の大学として開設された筑波大は、当初から全国のすべての高校から生徒の推薦を受け付ける入試を実施してきた。そのためには全国数千の高校の学力水準に関する詳細なデータを用意し、スポーツや学術などの業績の評価基準も用意してきた。そこに付属高校が特別扱いされることはない。
第三に、筑波大付属の生徒たちの間で、筑波大は必ずしも希望する大学とされていないことである。筑波大付属は小学校で2クラス、中学校で2クラス、高校で2クラスをそれぞれ募集し、最終的に6クラスになる。小中で入学した生徒は高校段階までに学力差が開くが、高校入学者はより均質で高いという傾向がある。いずれの段階で入学した生徒の間でも、筑波大を第一希望として入学してくる生徒は少ない。とくに高校からの進学者は、自由な校風と共学であることなどに魅力を感じて受験する学力最上位層の生徒たちである。
そのトップクラスの生徒たちは最有力国立大を目指す。ちなみに23年度卒業生の進学先は以下の通り。(( )内は現役合格者数)。東京大学29(22)、京都大学6(5)、一橋大学6(6)、東京工業大学5(3)、北海道大学1(1)、東北大学4(3)、筑波大学6(6)などである。有力私大では早大106(83)、慶應大72(58)など。
親王が入学段階から筑波大への進学を順当な選択と考えていたという話は成り立たないのである。やはり秋篠宮は親王の進学先として東大を想定しながらも、用意した条件がまとまらず、途中で筑波大に軌道修正したとみるべきではないか。以下、その推測の根拠を示す。
神童化作戦? 不自然な振り付け
悠仁親王の教育については、幼少期から不自然な部分が多く、国民の目にも「作られている」という印象を与えている。とくに、高校二年次にトンボの研究で学術誌に論文が掲載され、三年次には国際学会で研究発表をしているのだが、どこまでが本人の実力によるものであるのか疑問が呈されている。
研究者が成長していく過程を簡潔に確認しておく。大学四年生となると研究室に配属され、海外の定期刊行物などにも触れて先端的研究を知る。修士課程に進み、研究を深めながら口頭あるいはポスターの形で学会発表し、先行研究者などからのアドバイスや意見を受ける。発表した内容を学術論文としてまとめて学術誌に投稿する。ここでは外国語(英語)の要約を付け加えることが要求される。
投稿論文は厳しい査読を受け、よほど完成度が高く独自性がなければ容易には採用されない。研究職を目指す博士課程の学生たちは論文執筆に命を削るような努力をする。論文の採択は大学などの研究機関に採用される可能性が生まれるほど重要なポイントとなる。
親王の場合、学会での口頭発表を経ず、高校二年で執筆した投稿が学術誌に採択されている。しかも筆頭執筆者つまり主要研究者の位置づけである。高校三年には国際学会でポスター発表をしている。ポスター発表では掲示場所で来場者と質疑応答することになる。しかし、この発表では共同執筆者の二番目となっていて、大会初日に来場しながら当日中に帰京して、翌日に掲示された際には筆頭執筆者が来場者と交流していた。つまり親王は、形式的には「研究業績」をあげているのだが、研究大会に来場した研究者やマスメディアなどの前で研究内容について語るなど、肝心な場面での姿がないのである。
いずれにしても親王の「業績」は、修士課程から博士課程程度段階の能力を17歳で獲得していることを示すことになり、本人の実力によるものだとすれば、「神童」と言わねばならない。ところがここにも不都合な事実がある。中学二年の時に作文コンクールに応募して佳作となった小笠原諸島への旅行を題材とした文章には、旅行ガイドブックからの無断借用(剽窃)が指摘されるという問題を起こしている。自分の文章と他人の文章とを区別せずに扱うような人物が2,3年後に高度な学術論文を執筆できると考えるには無理がある。
東大の推薦入試の合格条件には、1月実施の大学入学共通テストで10科目800点以上の得点が要求されている。学術誌への論文採択、国際学会での研究発表と、東大の推薦入学の条件の一部は整ったものの、共通テストでの高得点は見込めなかったのであろう。筑波大の当該学類の推薦入試は共通テストの条件がない。そのため最終的に軌道修正したと考えられるのだ。
今後の皇室と天皇
明仁上皇は在位中、日本軍が第二次大戦で侵略し多大な被害を与えた国々との和解と犠牲者の追悼、さらに国内の自然災害などの被災者の慰問に精力を注いできた。父である昭和天皇がなしえなかった課題である。中国への公式訪問、沖縄や南太平洋の孤島での戦争犠牲者追悼などに取り組んできた。大戦の反省という諸課題に取り組みつつ、国民に寄り添う姿勢を示した天皇として、明仁上皇は記憶されるであろう。
今上天皇である徳仁陛下は即位後にコロナ禍が発生したこともあり、まだ新しい天皇像を示すに至っていないが、雅子妃と愛子内親王との穏やかな家庭生活と被災地などへの慰問活動などを通して国民との間の距離を縮めつつある。愛子内親王は大学では日本の古典を学ぶことに集中してきた。その学びを通じて、日本の歴史と文化への深い洞察を得るとともに、これからの皇室が果たすべき役割を自覚することにもつながっているはずだ。
一方の秋篠宮家は、長男悠仁親王を将来、学者天皇にするべく育てようとしてきたのではないか。それは戦後の「学者天皇」に衣裳替えした昭和天皇の姿に倣ったものであろう。ただ、その目標設定が適切だったのか、また目標達成の手段つまり学校選択や研究実績作りが適当であったのか、さまざまな疑問を生じてしまった。
最近の世論調査では、将来、皇位を継ぐのは愛子内親王が適当だとする意見が多数を占めている。逆に言えば悠仁親王が皇位を継ぐには何かが不足しているという印象を持たれている。時代のそれぞれの空気によって皇位継承が左右されるのは適当ではないが、憲法上の「国民統合」という天皇の役割を考えれば、より多くの国民に受け入れられる方に即位していただくのが適切ではないかと考える。
初出:「リベラル21」2025.01.06より許可を得て転載
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