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林完枝氏の論文『「翻訳者の使命」について』(註1)の抜刷がいま私の手元にある。秀逸な論考との評を聞き及んで知人を通じて手に入れたのだ。林氏の論文はベンヤミンの「翻訳者の使命」という文章の読解をその出発点として、諸時代諸言語の翻訳の様々な事例を考察することによりベンヤミンの思想の到達点を検証しようと試みた作品というふうに私には受け取れた。林氏自身の翻訳経験をも踏まえて翻訳者の使命というベンヤミンのコンセプトを探究しようとする研究姿勢とその成果を示した林氏の論文から私はおおいに啓発されたのである。ただ翻訳経験をまったく持たない私などが、さて林氏のこの論文についてなにごとか述べる資格をもっているかどうかはたいへん怪しいのである。がしかし翻って考えるに、翻訳者の使命の第一義は翻訳を提供することにあるだろう。そうであるならば、日本語に翻訳されたベンヤミンを読みそれについて考え、そしてさらになにごとか述べることは、ベンヤミンの「翻訳者の使命」という作品について考察することになるはずであるし、ひいては間接的ながらも林氏の研究について論じることに繋がるのではないかと思い至った。
※註1:明治学院大学言語文化研究所『言語文化』(第三十六号、二〇一九年)
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私の探究はまず林氏の論文とベンヤミンの「翻訳者の使命」を読むことから始まった。ベンヤミンの当該論文はベンヤミンによるボードレール「パリ風景」の翻訳に付した序文であることを知ったので、つぎに彼のボードレール論を読んだ。(1)「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(野村修編訳『ボードレール、他五篇』岩波文庫)(2)「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(出口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』河出文庫)。この二編を読んで、けっきょくのところベンヤミンは、ボードレールを読み抜き読み破ることからその思想を確立したのではないかという直観を私は得た。この直観はハンナ・アレントの「ヴァルター・ベンヤミン」(『暗い時代の人々』)を読んでその正しさをほぼ確かめられたと思っている。ベンヤミンは思想家であり批評家であるかもしれないが、けっして翻訳を専門とする人ではなかった。アレントは述べている。
≪詩人について語るのは厄介な仕事である。詩人とは引用されるために存在するのであって、語られるためにではない。(阿部斉訳 H・アレント『暗い時代の人々』河出書房新社256P)≫。 ベンヤミンにとっては、≪最大の誇りが、「大部分引用句から成る作品を書くこと——想像し得る限りの気ちがいじみた寄木細工の手法——」(同、196P)≫であった。
ベンヤミンのふたつのボードレール論「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」は引用の量がものすごく多い。ボードレールの引用が多いだけではない。聞いたこともない数知れぬ無名の学者・文学者・思想家・ジャーナリスト・雑誌記事・新聞記事、その他諸々の引用がボードレールの引用文を取り囲み、その中に侵入し、シャッフルされて、ついには巨大な引用のモザイクとなって仕立て上げられているのである。それらの引用された言葉たちは奇妙に懐かしい親密で魅力的な表情をたたえている。ひとことで言って「声」を発しているのである。言葉が生きた声となって復活する。これはひとつの魔術である。ベンヤミンの詩的散文はそれを読み進める私たちの心を打つ。ベンヤミンの文章の秘密をなお詳説せんとするならば、世界が一斉に声となって叫びを上げる、そういう現場に私たちを一気に連れ去って行く事件性にある、その奇跡性にあるのだと言えよう。ベンヤミンはあたかもメシアとなって作品の陰に隠れている。そして廃墟に見捨てられた物としての言葉を生きた声として復活させる。これはひとつの秘儀の実践である。ベンヤミンはこの秘儀をボードレールに沈潜することから学んだのだ。
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肝心のベンヤミンからの引用がまだだった。ベンヤミンのボードレール論の冒頭を引用してみる。この冒頭の文章はベンヤミンの方法と思想を他のどこよりも雄弁に物語っている。
≪ボードレールは、抒情詩を読むことが困難だと感じる読者を念頭においていた。『悪の華』の序詩は、このような読者に向けられている。彼らの意志の力など、ということはおそらく集中力にしても、たかが知れている。彼らには感覚的な楽しみのほうがいいのだ。彼らは、関心とか受容能力を失わせてしまう憂鬱(スプリーン)に慣れ親しんでいるからだ。このような読者、つまりもっとも恩知らずな読者をよりどころとする抒情詩人に出くわすと、いぶかしく感じてしまう。もちろん、すぐに思いつく説明も一つある。ボードレールは理解されたかったのだ。自分に似ている人たちに彼の本を捧げているのだから。読者に宛てて書かれた詩は、次のあいさつの言葉で締めくくられている。
偽善の読者よ、 私の同類、 私の兄弟よー
このことは、次のように言い換えて表現してみると、さらに実り多いものとなる。つまり、ボードレールは、読者にすぐさま受け入れられ成功する見込みが最初からほとんどない本を書いたのだ。彼は、巻頭の詩が描いているようなタイプの読者を念頭においていた。これが先を見越した計算であったということは、後になってわかった。彼が考えていたような読者は、後世によって彼に与えられることになったのだ。≫
(ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」山口裕之編・訳『ベンヤミン・アンソロジー』206P)
ベンヤミンはここでボードレールの詩をたった一行引用しただけなのだが、その一行の引用によってボードレールの本質を語り尽くしていると思う。引用を続けよう。
≪『悪の華』の名声は絶えず広がっていった。もつとも好意的でない読者を念頭におき、また、当初は好意的な読者をそれほど多く見出すことができなかったこの書物は、何十年かたつうちに古典的な書物となった。そしてまた、もっとも出版部数の多い書物ともなったのである。≫(同上、207P)
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ベンヤミンの「翻訳者の使命」は、ボードレールの『悪の華』の中の「パリ風景」をベンヤミン自身が翻訳し、その序文として書かれたものであることは上にも述べた。「パリ風景」の項目は『悪の華』の初版にはなく、再版に於いてはじめて登場する。『悪の華』の再版は1861年の刊行であり、全126篇の詩が収められている。その内「パリ風景」の項は18篇含まれている。「パリ風景」の冒頭を飾る詩は「風景」と題されている。この「風景」は「パリ風景」18篇のモティーフを凝縮している。そしてベンヤミンの見るところ「パリ風景」はボードレールの全詩のモティーフを凝縮しているのである。ベンヤミンは「パリ風景」を翻訳した。「パリ風景」を翻訳しその翻訳の序文として「翻訳者の使命」を書いたのだ。断っておくがここに述べた説明は私の推測を含んでいる。言葉を代えて言えば仮説を述べているに過ぎない。
さて、「パリ風景」の冒頭を飾る詩「風景」は、福永武彦によって、みごとな日本語に翻訳されて「後熱」を発している。引用しておこう。
「風景」
ボードレール作 福永武彦訳
僕自身の牧歌を清らかに制作するために、
占星術師のように空に近く身を横たえ、
鐘楼のすぐ隣で、夢想に耽りながら、
風の運んだ崇厳な鐘の讃歌を僕は聴きたい。
両手に顎をのせ、屋根裏部屋の高みから、
僕は眺めよう、歌ったりお喋りしたりする工場を、
都会の帆柱である煙突とか鐘楼とかを、
そして永遠を夢みさせる大きな空を。
(略)
僕はいくたびの春、夏、秋を見るだろう、
そして冬が、単調な雪に包まれて訪れる時に、
僕はいたるところの鎧戸をしめカーテンをおろすだろう、
夜のなかに僕の妖精の宮殿を築くために。
その時僕は夢みるだろう、青ざめた地平線を、
庭園を、大理石の白い水盤に啜り泣く噴水を、
接吻を、朝なタなに囀る小鳥たちを、
そして「牧歌」が歌うすべての子供らしいものを。
「革命騒ぎ」も、僕の窓硝子の向うで空しく荒れ狂って、
僕の頭を一寸たりと机から持ち上げさせることはあるまい、
なぜなら、僕の意志をもって「春」を喚び起すという、
心の中からーつの太陽を引き出すという、そしてまた、
燃え上る思想をもって暖かい雰囲気をつくり出すという、
この悦楽のなかに、僕はいつまでも涵(ひた)っていたいのだから。
(福永武彦訳「風景」『ボードレール全集』1・人文書院刊・180P)
ちなみに、『パリ風景』の中において、「風景」の次に収められている詩篇は「太陽」である。「心の中から一つの太陽を引き出すという、そしてまた、 燃え上る思想をもって暖かい雰囲気をつくり出すという、この悦楽」という表現は、「太陽」の詩篇の魅惑的な予告となっている。「近代」を完璧に描き出した書物。それがボードレールの『悪の華』であった。ボードレールは1867年に没している。その年は明治維新の前年であった。ベンヤミンの没した年は1940年。それは日本が米英に宣戦し真珠湾攻撃を決行した前の年である。フランスの近代と日本の近代には「時差」がある。この時差を測る作業に於いてベンヤミンの仕事は必須の検討材料であろう。「近代とは何か」という問題を再考する際において、橋川文三とヴァルター・ベンヤミンは世界史的視野の元に読み較べなければならない思想家であると私は考えている。
※
早すぎることを恐れることなく、ベンヤミンの正体を述べておこう。大胆に結論を述べてみよう。ボードレールを模倣して、ボードレールに倣(なら)って、ベンヤミンもまた占星術師となったのである。(完)
初出:ブログ「宇波彰現代哲学研究所」より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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