肥田舜太郎(被曝医師)さん証言

著者: 諸留能興 モロトメヨシオキ : パレスチナに平和を京都の会
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**転送/転載/拡散歓迎**
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 さる2012[H24]年1月27日、自由報道協会および日本記者クラブにおいて、呼びかけ人:肥田舜太郎、大石又七、矢ヶ崎克馬、松井英介、沢田昭二、高橋博子、岩田渉の諸氏(順不同)による、「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の設立記者会見が行われました。
 ここで発表された「日本政府への提言」がホームページに公開されました。
非常に大切な、的を得た指摘です。是非お読み下さい。この提言についてのコメントは
次回にします。
 
記者会見のリンク先とあわせてお知らせいたします。
 「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の「日本政府への提言」及び
同会への会員入会ご希望の方は以下の
■内部被曝研のホームページ
http://www.acsir.org/
から閲覧と申し込みができます。
 
「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の設立記者会見の様子は
以下のURLで閲覧できます。
■自由報道協会記者会見
http://www.ustream.tv/recorded/20030116
■肥田舜太郎医師の会見(自由報道協会記者会見より)
http://www.youtube.com/watch?v=E3hbk39TjHM&feature=player_embedded#t=11s
■日本記者クラブ記者会見(重要な見解が整理されて述べられています。)
http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2012/01/r00023779/ 
 
 なかでも、日本記者クラブでの「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の設立記者会見の席上での、呼びかけ人の一人の肥田舜太郎医師の発言は、大変重要な指摘があります。
また、非常に深い感銘を受ける力強い内容です。
 東電、政府、自治体、科学者、医者、司法界、マスコミなどの言う
「放射能安全基準値」が、如何に非科学的なものでしかなく、
低線量被曝を意図的に考慮しない政治的な、
「放射能被曝我慢強制値」でしかないかを、
低線量被曝量の危険性を肥田舜太郎医師も、切々と訴えておられます。
以下、その全文を掲載します。
 
—-以下、肥田舜太郎医師の呼びかけ発言—–
※以下の文中の[◆註]は諸留が適宜付しました。
※この肥田舜太郎医師の会見の映像は上記URLからも視聴できますが
パソコンを使ってのDVDでの視聴もできます。
DVDご希望の方は諸留までご連絡下さい。
——以下、肥田舜太郎医師のアッピール—-
 
 私は1917年生まれです。28歳の時に、広島陸軍病院で軍医として勤務していました。原爆が投下された8月6日の前夜はたまたま病院に泊まっていたのですが、深夜の午前2時半頃に、かって一度だけ診察したことのある農家の子どもが、心臓弁膜症で発作を起こしたので診察に来て欲しい、ということだったので、緊急往診に連れ出されました。
 
 当時、将校は勤務の無い夜間とか、命令などの何も無い時は自由ですから、診療活動は出来ます。ただ、報酬は貰ってはいけないということだったんですね。そういうことで、原爆の落ちた朝、6キロ離れた戸坂(へさか)村[◆註:1]へ行っていて、病院を離れていたために助かりました。
 
[◆註:1]
爆心地から東北方向へ約6キロにあった広島県安芸郡の村。1955(昭和30)年4月10日に広島市に編入合併し消滅。[註:オワリ]

 病院は爆心地から350メートルという至近距離にあったため、瞬間的に病院は無くなりました。病院の中にいた597名は3名を残して即死したようです。私が戸坂村で被曝した時の様子などをお話ししていると時間も無くなりますので割愛します。
 
 私がこの戸坂村にいて、午後になってから広島から逃げてきた大量の被爆者が、その小さな戸坂村にどんどんどんどん入り込んだんですね。でも、被爆者たちが村に入ってきても村の内もやはり爆風でほとんど壊されていて、入れるような家もない。沢山収容できる小学校も、二棟あった校舎も全壊してどこにも収容できる所がない。結局、広島から逃げて来た人たちは前身火傷の、皮膚がズルズルに焼けただれた大変な重症者たちは、結局、道路と、学校のグランドと、それから村の空き地ですね、そういう地べたに皆、寝転がったんですよね。
 
 で、そういうような重傷の被爆者たちを私たちがどうしても治療しなくちゃならなくなったんですよね。その日の夕方、たまたま偶然、4人の軍医が集まりました。その夜の戸坂村の記録によると、6000人の患者が村に入ったんですよね。しかし、治療する道具は何にも無い、薬も何にも無いという状態で、見る見る皆が死んでいくという状態に我々医者は立たされました。
 
 その日3日間、結局、薬も無し何にも無しという状態で、我々はただ手をこまねいて死んでいくのを見るだけ、と言われても仕方がないような状態でした。
 
 4日目の朝、「それまで死んだ人は全部火傷で死んだのだ」と、我々は常識的にそう思っていました。ところが、4日目の朝から、火傷でない状態で死ぬ人が現れ始めました。その日は朝から、村の記録によると2万7000名という被爆者が村に入ったのですね。診療するほうは、前の晩に九州と四国から軍の命令で応援が来ました。医者の数は確か27名になったと思うんですが、何しろ治療しなければならない相手が、2万7000名という膨大な患者数ですから、どうしようもないんですよね。

 でも、どういう症状が出始めたかっていうと、まず、40度の熱が出る。40度という高熱は内科の医者でも、あんまり診たことが無いほどの高熱なんですね。マラリヤで死ぬ時と、肺炎の末期と、チフスの時に出るだけなんですよ。それで「何でこんな高熱が出るんだ?」って思って被爆者を診ると、まず目と鼻と口から血が出ます。目から出る血というのは、医者でも見たことが無いんですよね。鼻や口から出血するのはそれまでにも何度か見たことがありますが。

 でも、目の、ここの、アカンベーをした時の、ここから血が出る、というような患者は医者でも見たことがないんですよね。そのうちに、熱が有りますから、当然扁桃腺を診るんですよね。扁桃腺が腫れれば高い熱が出ますからね。そう思って、非常に苦労して被爆者の口の中を診ますと、医者が自分の顔を被爆者の口に近づけて持って行けないほど、もの凄く臭いんですよね。これは、単に口臭があるというような匂いなんかではなくって、腐敗している匂いなんですね。人間がまだ生きているのに、何で口の中が腐っていくのかが解らない。
 
 そのうちに、火傷をしていない綺麗な肌はまだ残っているんですよね。その綺麗な肌に紫色の斑点が出るんですね。丁度、鉛筆のお尻に紫色のインクを付けて、こうやってポンポンポン・・っていうように皮膚に押し当てると紫色の痣のような色が付きますよね、丁度そういうように紫色の斑点が出てくるのですね。でも、それも何故なのかが解らないんですね。
 
 最後に、これも不思議なんですけれど、筵の上に寝ている患者がですね、あと大体数時間しか生きていないっていうようなそういう人間が、何気なく自分の頭をこうやって、頭髪を後の方に手で撫で上げるんですよね。するとそうやって触った自分の手のひらに毛がすうーって、こう取れるんですよね。あの・・・脱毛、脱毛って・・よく被爆者の事が書かれていますよね。

 でも、脱毛っていうのとは違うんですよね。触ると取れるんですよね。これは僕らしか見たことが無いんですよね。その後、世界中のどこを見ても、こんな現象は有りません。あの時だけだったんですよね。で、それは後で解ったんですよね。だいぶ10年ぐらい経って、20年くらい経ってから、なぜそういうことが起こるのかっていうことが、アメリカから伝わってきました。

 それは毛の根本っていうのは毛根細胞っていいますよね。こうやって手で髪の毛をプツンと抜くと、手で触ると毛の付け根に肉が付いていますよね。この肉が毛根細胞って言うんですよね。これが頭の頭皮の肌にくっついているんですね。この毛根細胞というのは人間の体の中にある細胞のうちでも一番勢いの良い、生命力のある、どんどん伸びる、分裂する細胞なんですよね。こういう細胞分裂が活発な細胞が、一番先に放射線にやられるらしいんですよね。
 
 で、爆発した原爆の相当強烈な放射線がまず頭上を照射する。で、その放射線で毛根細胞が全部即死したんですね。結局、頭皮の地肌から離れた毛が毛穴につっ立っていた。そんなこと知らないから患者はこうやって手で頭を撫でると、すーっと毛が取れちゃう。これがあの時の脱毛なんですね。

 で、そう言う見たことの無い症状が出ると、大体1時間から2時間ぐらいで全部死んでいくんですね。で、30名、50名の被爆者が、こう地べたに寝てるんですけど、そういう所で誰か一人が死ぬと僕らが呼ばれて行って、その死んだ人の所に行くんですね。するとその死んだ人の周りで寝てる患者が、そういう丁度毛が抜けて、また死んで行くところにぶつかるんですよね。

 だから僕らの経験でいくと、あのピカドンに遭った人は、こういう症状で死ぬんだなぁ・・っていうことが、理屈じゃなくですね、数多くそういうことを目撃した経験から教えられたんですよね。これが、後から付けられた「急性放射能症」。つまり原爆の放射線でやられた最初の急性症状で、2万7000人の人が、どんどんどんどん死んだんですね。
 
 その次に僕らがビックリしたのは、本人が「軍医殿、わしゃぁ、ピカには遭っておりまへんで・・!」って言うのがいるんですよ。「どうした?」って聞くと、「その日は広島にはいなかった!」って言うんですよね。「原爆投下された8月6の日二日後に自分は広島に帰って、自分の子どもが帰って来ないのがいるから、焼け跡を探して歩いた」って言うんですよね。「大体二日くらい歩いたら、どうも体の調子がおかしくなって、それで診てもらおうとおもってここへ来たんだ」って言うんですよね。

 僕らの持っている医学の知識でいくら診てもですね、具合が悪いってところが見つけられないんですよね。当時の事だから、難しい検査なんてものは出来ません。でも常識的にこれはおかしいと・・。で、そう言っているうちに、変な症状が出て死んでいっちゃうんですよね。この人は一体何で死んだのか?っと・・・。ピカにも遭っていないと。こりゃ何だ?・・って言うのが自分の放射線病との出会った最初ですわ。

 それから、今言う、いわゆる「内部被曝」。当日広島市内にはいなかったのに、1週間・・そうですねぇ・・法律の上では数日以内に広島市内に入ったというのが被爆者と認められているんですが、この連中の中から僕らの診ていない病気がうんと出てきたんですね。
 
 つまり、今現在は、内部被曝という言葉があるけれど、当時は僕らは「入市被曝」って呼んでいました。本人は原爆が炸裂した当日には広島にはいなくて、後から町へ入ちゃって、こうなった・・と。で、その原因が、全然僕には解らなかったです。
 
 その後、30年、そういう患者をずーっと診続けて、1975年にアメリカに私行きました。第一回の原水爆実験禁止の国民代表団として国連に要請に行ったんです。その代表の中に入れてもらって国連へ行った時に、アメリカの医者で、たった一人、内部被曝の患者ばかりを診て、ちゃんと理論を作って、アメリカ政府に対決している博士がいたんですよね。ピッツバーグ大学のアーネストス・スタングラス[◆註:2]という医者です。まだ生きています。僕より2つほど歳下ですけど。

[◆註:2]Earnest J.Sternglass
 1923年ドイツのベルリン生まれ。アメリカのピッツバーグ大学医学部放射線科名誉教授。専門は放射線物理。スタングラス博士の「低レベル放射線の人体影響」に対する研究は、広島原爆による放射線影響を過小評価した論文がきっかけとなった。博士はアメリカにおける核実験からの死の灰により、幼児の過剰死が起こっていることをいち早く発表した。その後、原子炉周辺でも同様に過剰死や健康障害が起こっていることを発見した。
 これらの綿密な分析に基づいた名著『Secret Fallout』(邦題『赤ん坊をおそう放射能』)を著した。アメリカの著名な統計学者ジェイ.M.グールドと非営利団体「放射線と公衆衛生プロジェクト(RPHP)」も設立。更に研究を通じ、一見健康な人の間でも、学力低下や、免疫力低下、感染症へのかかりやすさ等、社会全体としての質の劣化が生じているという理論を展開している。[註:オワリ]
 
 このスタングラスが僕に会った時にですね、僕が「広島から来た」って言ったら、「お前は何でアメリカに来たのか?」って彼が言うから、「原爆に遭わなかった人間が解らない症状で死んで行くので、これを教えてもらいたいから来たのだ・・」って私が言うと、「あぁ、お前の見たそれは、放射線が体の中に入った時に起こる病気だ。アメリカにもおなじような患者がいっぱいいる」って、そう言うんですよね。「それは核実験で被曝したアメリカ軍の兵隊が皆、全国的に発症して出ている。俺がそのことで本を書いたから、その本をお前にやる」、って言うんで、その時に私は初めて低線量被曝量内部被曝の理屈を、そのアーネストス・タングラスという先生から教わったんですね。
 
 それで日本に帰ってきて、その本を日本語に翻訳して、お金がありませんし、本屋はそんな本なんか出版してくれるようなところなんかも無かったのですが、時事新報社っていうところが、その本のことを気に入ってくれて、本として出版してくれました。でも、この本が、日本で出た低線量放射線の内部被曝の初めての本[◆註:3]ですけれど、ほとんど誰も読んでないと思います。

[◆註:3]『死に過ぎた赤ん坊—低レベル放射線の恐怖』(Low Level Radiation,肥田舜太郎訳,1978年,時事通信社)。この増補版に『赤ん坊をおそう放射能—ヒロシマからスリーマイルまで』(Secret Fallout:Low-Lexel Radiation from Hiroshima to Three Mile Island,反原発科学者連合訳,1982年,新泉社),『Before the Big Ban』(Four walls Eight Windows,New York,1997)の著もある。
 
 ラルフ・グロイブとアーネスト・スターングラスの著『人間と環境への低レベル放射能の脅威―福島原発放射能汚染を考えるために―』肥田舜太郎・竹野内真理共訳[あけび書房/2011年6月25日初版]は、
3.11福島原発事故原因の評価から、被爆国日本にある原発の矛盾、今後の賠償問題、モニタリングポストやホールボディーカウンタの限界、内部被曝と外部被曝の違い、「安全基準値」批判、「ペトカウ効果」とは何かなど・・・低線量被曝をめぐる重要な指摘など綿密な調査研究書。[註:オワリ]
 
 まぁ、そんな事が縁で、私は放射線医学をやってきたんですが。私が一番言いたい問題は、ヒロシマ・ナガサキを経験した日本が、なんで53基もの原発を日本に作ったのか?ということです。これは外国の人の疑問なんですよ。「何でそんな事をしたのか・・?」って。
 
 原因はひとつなんですよ。1945[H20]年の9月1日にダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に着きました。で、最初に対日占領方針を発表したんですよね。彼、マッカーサーがずるいことに、文書では出さずに、全部口頭でその占領方針を言ったんですよね。で、日本政府の要人が通訳者と速記者も連れて、マッカーサーが口頭で言った事を全部筆記して、そして当時の厚生大臣が広島にいる僕らのような医者たちのところに通知してきた。

 その中味のうちで関係の無い事は僕は知りませんけど、「原爆によって広島・長崎の市民、兵隊が沢山被曝した。中には死んだ者も沢山おる。それから現在、怪我をし病気をし入院して寝ている者もおる。しかし、彼らが今被っている被害は、アメリカの軍の軍事機密である。これについては本人は勿論、それを見た者も、聞いた者も、絶対に口外してはならん。これに逆らう者は厳罰に処す」と・・。
 
 それから「日本の医師、医学者は当然こういう被曝した人間から診療を求められる。その場合は医者としての義務として診療はしても宜しい。ただ、その結果を詳細に書いて複数の医師同士で研究をしたり、論文で学会に出したり、日本の医学界が放射線の被害について研究、調査することは一切いけない。これに違反した者は厳罰に処す・・・」と。

 これがマッカーサーのやった事なんです。で、その指令が出たもんで、被爆者は全部、黙りました。それに逆らった時のアメリカ占領軍や日本政府からの処罰が、おっかないですからね。それと、まず真っ先に、広島大学と長崎大学が黙ってしまったんですね。あとは、開業医の層がね、患者が来て「先生、実は私は広島で被曝しましてね・・」ってこう言いかけるとですね、それを聞いた開業医の方から「あぁ・・その話は言わんで下さい!私が聞いた事が解ると、私がGHQ[Genelal Head of Quaters 連合国軍総司令部の略号]から睨まれますから・・」っていう、そういう形で、被爆者は医師からも相手にされなくなったんです。

 中には良心的に診た医者もいるけれども、当時の医学は放射線の診断は全く出来なかったんですね。どこが、どう悪いのか、当時の医学的知識も情報も何んにも無いんですね。ですから、私は外人が良く質問するように「何故日本が、原爆の被害というあの経験をしながら、政府も専門家の、なぜ原子炉をそんなにたくさん作ったのか?」という疑問に多逸しての答えは、今述べたことしか無いんですよね。

 それがそのまんま、アメリカの対日占領政策が終わってアメリカが日本から帰った後も、日本が独立しても、日米安保条約を結ばされて、アメリカの核兵器に不利になることは一切やってはいけないという、内規みたいなもので日本は縛られてきている。だから、福島でああいうことが起こっても、あの放射線被害について本当に心配している人間は、今のこの日本にもいないんですよ。

 「安全だ!安全だ!」っていうことは皆、言います。どうしたら良いか、ってことは、本人が出来もしないような「遠くへ逃げろ!」と。「食べる物は放射能で汚染してない物を食べろ!」と、みんなこの二つを言う。現地の人で、それが出来る人は、福島県の人口の一割もいませんよ。もし福島県のすべての県民皆が移ったら、行く所なんか日本にはありませんよ。そういう狭い国の中へ、あれだけの原発を作るっていう大間違いを、日本の国民が選んでやってきちゃったんですよ。

 それは、放射線の被害をなんにも教えられていない。ヒロシマ・ナガサキ、って言うと、「あぁ、あのケロイドが出来て、すごい火傷をしたあれね!」って・・いう具合に、目に見える被害しか知らない。放射線の被害については誰も知らないんですよね。
 
 だから私は、これから日本国民はもう一度勉強し直して、放射線被害というものが、下手をすると人類が滅んでしまい兼ねない、恐ろしい敵である。治療の方法も無ければ、防護の方法も無い、そういう恐ろしい敵であるということを、もっともっと皆で勉強して、これを機会に放射線というもにに対して縁を切る、そういう国にならなけれればいけないって、私はそう思っています。

 今、私はは、方々から頼まれて講演に行きます。何を頼まれるか?って言うと、「どうしたらいいか教えろ!」って聞かれるんですね。そんなこと僕に解る訳でない。「でも先生は被爆者もたくさん診てきたから、何かきっと良い智慧があるに違いないから教えて欲しい」って、よくそういう質問をされるんですね。

 ひとつ、あります。それは、私は日本被団協に縁を持つようになって、組織の中のたった一人の医者なんですkら、被爆者に病気を発病させないで、最後までガンにならないで、放射線に勝って長生きする方法、これを皆で勉強しよう・・・って、そういう思いで30数年間、ずっとやって来ました。で、その結果、皆で到達した結論って言うのは、要するに自分が最高の健康の状態を保ちながら、放射線による病気の発病を予防するということ、病気を起こさないで長生きする、って言うこと以外に手は無いんですね。

 お医者さんに行っても放射能による病気に効く薬は何にもないんですよね。困難でも、それをやろうじゃないか、ってことですよね。それは何をやったらいいだろうか?私はいろいろ考えてですね、4億年前に、この地球の上に人間が生まれたんだそうですけど。その頃の生まれたばかりの人間は、自然界にある放射線と紫外線で、どんどん殺されていったという。
 
 しかしその放射線と紫外線殺で、されても殺されても、人間はそれでも生まれてきてですね、それと対決して、免疫を作って対決して、こうやって現在までいのちを繋いで続いてきた。それには何千万年という時間がかかっている。そんなに長い時間の間、人間は太陽と一緒に起き、太陽と一緒に寝た。生き残るにはこれしか他に手が無かった。明かりも無ければ、熱も無い、エネルギー何にも持たず、それで生き延びてきたんですね。だからその時の状態、太陽と一緒に起き、太陽と一緒に寝るという、その生活が基本になって人間の免疫を作っている。

 だから我々の持っているこの僅かな貴重な免疫を磨り減らさない為には、今述べたようなその生活に努めて近い生活をすることが、大事だろうと・・言うことで、朝寝、夜更かしは止める。朝起き、早寝で生活する。健康に悪いと言われることは一切やらない。タバコはやめる。食べ過ぎもやめる。食事の際には30回噛め、って言うなら30回噛みましょう。・・っていうようなことを何十万人という被爆者たちが一生懸命に実行して、やってきたんですよ。

 だから、今21万人と言う被爆者が、歳をとってはいるけれでも生き延びています。これは自然に生きたのではなくって、被爆者が努力して、放射線と闘って長生きしてきたんですよね。今、こうやって講演しながら、これを私は教えて歩いているんですよね。そんな事でも頼りにしてくれます。私しか、そんな話をする人は他にはいないんですよね。だから、もっともっと被爆者が生きてきて、闘ってきた歴史、それをもっと皆で勉強して下さい。彼らは放射線と闘った先輩なんですよね。

 自分で自分のいのちを守ってきたんですよね。だから、医学が進歩して治療法が解るまでは、当面は、先輩の言うことを勉強しながら、日本は、政府は政府なりに国民の健康を守って、これ以上、放射線の被害を増やさない、というこの事に努めるべきです。そう思って私は95歳になっても、今、全国を歩いて、ほとんどど連日、講演をして歩いてます。これは私しか出来ないから私がやるしか仕方がないんです。明日死んでも、明後日死んでも、やっぱりやるべきだと思ってやっています。

 でも、たった一人の人間がやることには、限度がありますよ。なんぼやったって、とても一億の人間に、ものを解らせる訳にはいかないんですよね。だから頼りになるのは皆さんなんですよ。マスコミが本当の放射線被害というものを、本当に掴んで頂いて、政治的な立場なんかじゃなくって、人間のいのちを守る立場から、これを国民に広げて頂きたい。本当にそう思っています。
 
終わります。
(拍手)

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