脱原発 - ドイツ的決断の背景について <2>ドイツ的反応の背景

著者: 小林敏明 こばやしとしあき : ライプツィヒ大学教授
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. ドイツ的反応の背景

 こうした事態を目の当たりにするとき、いったいなぜドイツではそのような思い切った転換が可能となったのかという疑問が出てくることだろう。そこで私見をまじえながら、その背景のいくつかを追ってみることにしたい。

 さきにも述べたように、この政策転換にあたって決定的なポイントとなったのは、福島ショックをきっかけにして現政権を担う保守党が急旋回したことである。まず、その点から入ってみよう。現在のドイツの首相はアンゲラ・メルケルというCDUの女性党首だが、この人の個人的経歴も無視できない。彼女はもともとは西側のハンブルク生まれだが、ほぼ誕生と同時にルター派の神学者であった父親が家族を連れて東側に移っており、実質的には東で育った人物である。大学は私が現在勤めているライプツィヒ大学の卒業で専攻は物理学、その後ベルリンの科学アカデミーに移り量子化学の分野でドクターを取得しているが、ちょうどこの時期にチェルノブイリの惨劇を経験している。一九八九年に壁が破れて存続のあやしくなったアカデミーを辞めて政治活動に入ると、東側での女性青年層の得票策を練っていた時の首相コールに認められて、一九九一年一躍女性青少年担当相に大抜擢され、九四年からは環境相を務め、その間に原発問題も担当している。その後並みいるCDU党首候補をつぎつぎと追いやって、二〇〇〇年にCDU党首、二〇〇五年から首相の座についている。こうした経歴が今回の彼女の決断に影響しなかったとは考えられない。

 このメルケルの決断を直接支えたのはメルケル・コネクションの一人といわれる連邦環境相のレトゲンだが、それにくわえて大きなターニング・ポイントとなったのがバイエルン州である。ミュンヘンを中心とするバイエルンはCDUの姉妹党CSUが代々政権を担当している圧倒的に保守色の強いところで原発も五基を抱えているのだが、ここの若い環境相ゼーダーが今回はいち早く脱原発を訴え、地元をまとめたことも大きい。こうした流れを察知したのが現在CDU、CSUと連立政府を組んでいるネオリベラルの小政党FDPである。FDPはそれまで原発推進政策を掲げていたのだが、このところ各地の選挙では敗北を続け、ついに党首ヴェスターヴェレの交代という事態に直面していたところに福島ショックが重なって、あわてて脱原発に鞍替えしたという印象である。各党に共通して見られるのは、この数年の間に世代交代が急速に進み、党の中軸を担いはじめた若い世代の多くには保守革新を問わず、脱原発派が少なくないということである。覚めた見方をするならば、東独出身の女性で途中加盟組という保守系の政党では不利な条件を背負ったメルケル首相が思い切った政策をとることができた背景には、こうした世代交代の流れに乗っている面もある。いずれにせよ、こうしたメルケルに引っ張られた保守系の急激な脱原発の動きがなかったならば、おそらく今度のような思い切った転換は不可能であっただろう。保守層自体がそういう状況なので産業界も声高に原発推進をいうことができないでいるのが現状といえる。

 では、この保守政党をも動かすことになった転換の背景には何があるのだろう。まず、ごく日常的な事柄だが無視できない要因として、この国の自然愛好の伝統ということがある。天気の良い休日になれば公園や野原を散歩し、水を見つければすぐにでも飛び込んで泳ぎたがる人たちや、サイクリング、ピクニック、キャンピング、トレッキングなどに興じる人々の数の多さはおそらく日本では想像がつかないかもしれない。簡単にいってしまえば、とにかく歩いて泳ぐのが好きな人がやたら多いのである。だからどんな街にもあちこちに公園や緑地が見られる。ドイツを訪れたことのある人には、この国が想像以上に緑が多いのに驚かれた人も少なくないだろう。また全国的に広がった自由教育で有名なシュタイナー学校をはじめとして、学校教育のなかで環境保護問題が日常的に取り上げられているのもこの国の特徴であろう。歴史的に見ると、こういうごく日常の事柄の背景にはキリスト教やドイツ・ロマンティクがはぐくんだ自然崇拝や自然愛好のメンタリティも働いているのかもしれないが、ここではそのことは省くことにしよう。それにしても自然愛好ということではそれほど引け劣るとも思えない日本人が原発に対してあれだけ鈍感だということのほうが、むしろ不思議なことかもしれない(こういうことをいうと、一知半解のドイツ学者かインテリあたりが、ナチ・イデオロギーにも自然愛好があったというような訳知り顔の「批判」をしそうだが、こういう思いつきは、このあとで述べるような戦後ドイツのエコロジー運動が、そういうことも知ったうえで独自の運動を展開してきたことに対する無知を暴露するようなものであることを一言つけくわえておく)。

    とはいえ、いま述べてきたような日常の話は遠因であり、こういうことだけで今回の政策転換の背景を語ることができないのは自明である。最大の要因はなんといってもこの国が数十年にわたってはぐくんできた反核、脱原発の運動である。反核と脱原発はいちおう別々の課題だが、ドイツという国においては切り離せない問題であった。それは国が東西に分割され、その冷戦の切っ先に立たされていたからである。壁をはさんで両側にミサイルが対峙しあった緊張のなかでその核兵器とともに原発が置かれた状況を想像してみればすぐわかることだろう。軍事戦略の面から見れば、原発というのは敵の時限爆弾を自陣に抱えているようなものである。この緊張感や危機意識はやはり東側と接していたオーストリアなどでも強かったのではないかと推測される。アルプスの水力に恵まれているとはいえ、オーストリアが今日まで原発をもたなかったのには、そのような事情も働いたと思われる。またさきごろEUで圏内の原発はテロ攻撃などに対しても大丈夫という妥協取引気味の合意声明を出すということがあったが、実際にはドイツでのストレス・テストは逆にこれらの事態に対する安全保障はまったくないという結論に達している(ちなみに、八〇年前に稼働した原子炉は飛行機の墜落を設計上想定していない。またそれ以降に稼働した原子炉はジェット戦闘機の墜落を設計上想定しているが、旅客機など大型機の墜落は想定していない)。いずれにせよ、こういうことが問題になるというのも、冷戦以来原発が潜在的な武器でもあることを自覚しているということにほかならない。それが9・11以降さらに問題となったのはいうまでもない。

  ドイツの反原発の運動は六〇年代から始まっている。原発の建設構想が発表されるや、その立地予定地で住民の反対運動が起こったのは日本も同じだが、この個別の運動が全国的な規模に広がり、大きなうねりを形成していったのは通称「緑の党」の結成とその進出によるところが大きいことはよく知られている。この党は正式には「Die Grünen緑の人々」と名乗っているように、既成の政党とは一線を画した政党形成を目的として発足したグループである。共通の中心テーマは環境保護であるが、結成時には六〇年代の学生運動経験者たちが中心的役割をはたしたこともあり、政治的には社民党とも東の共産党とも距離をとって、フェミニズム、反戦、反差別などをも中心的政策課題に取り入れたリベラル左派のグループである。今日では壁の崩壊直後の旧東側にできたグループと一緒になって「Bündnis 90/Die Grünen」を名乗り、傾向としては中産階層とインテリ、文化人、女性、学生などを支持母体にしている。

 一九八〇年、環境保護運動のグループが全国レベルで「緑の党」を正式に結成して以来、各地の地方議会で議員が生まれ、八三年にははじめて五%条項のハードルを越えて連邦議会に議員を送ることになる。やがてヘッセン州で社民党と連立政権を組んだりした後、一九九八年の連邦議会選挙の後には社民党と連立政府をつくり、外相フィッシャーはじめ三人の閣僚を出すにいたったが、その過程で「リアロ」と呼ばれる現実路線派がイニシアチブをにぎって今日にいたっている。フィッシャーに代表されるように、政策理念の実現のためには既成政党との妥協も辞さないという路線である。脱原発の運動はこうした緑の党の伸長変容のプロセスと並行している。

  この「緑の党」の結成時がちょうど東西に新たにミサイルが設置され、ヨーロッパ中に反核運動が広がった時期と重なる。日本では、これは東側のプロパガンダだとして「異論」を唱えた思想家もいるが、私にはヨーロッパの実情に疎い島国インテリのスタンド・プレーとしか映らない。原発がこの時期に大きな問題となった理由として、この政治的緊張をぬきにして語ることができないのは、さきに述べたとおりだが、そのような運動が盛り上がっていったときに起こったのが一九八六年のチェルノブイリであった。大気の動きからドイツもまた少なからぬ汚染の恐怖にさらされたことが運動をさらに刺激したのはいうまでもない(現実にドイツ南部はバイエルン州を中心に放射性物質が飛散し、バイエルン州の森林では現在もセシウムによる汚染が見られる)。こういう話をしても地理的に遠すぎてピンと来ない人は、今かりに北朝鮮で原発事故が起こったとしたら韓国や日本の人々がどのような反応をするかを想像してみればよい。テポドンの発射実験であれだけ戦々恐々となったのはだれだったか。今度の福島の事故で韓国が敏感な反応を示したのもある意味では当然といえる。

  こうした政治的緊張と「緑の党」の進出、それにチェルノブイリという新たな状況下で、それ以前からヴァッカースドルフ再処理場やブロックドルフ原発などをめぐって高揚しはじめていた各地の脱原発運動に拍車がかかることになる。ここでは数ある現地闘争のうち、その一例だけをあげておこう。八〇年代の初めにニーダーザクセン州のゴアレーベンの地下岩塩層に高レベル放射性廃棄物専用の中間貯蔵場が造られ、九〇年代から定期的にフランスの再処理工場で排出された廃棄物が輸送されてきているのだが、この輸送の「Xデー」には「castor (=cask for storage and transport of radioactive material)」と呼ばれる特別輸送容器を乗せた列車のとおる沿線や線路に反対派が押し寄せて、デモや座り込みをして抵抗をくりかえし、毎回警察の実力排除がおこなわれている。くわえてここには最終処分地の調査施設も置かれており、事態をいっそう厄介にしている。そのため、ここの反対運動はまもなく三〇年ほどになろうとしているが、依然として治まることなく持続されており、政府も最近になってこのゴアレーベン(およびその他の候補地域)の地層が最終処分地の候補として適しているかどうかをあらためて調査することを再論議せざるをえなくなっているのが現状である。とはいえどこにも最終処分場を受け入れる場所が見つからないかぎり、このゴアレーベンの調査施設が事実上はなしくずしに「最終化」される可能性もあって、問題は政府の脱原発宣言後もくすぶりつづけるだろう(このゴアレーベンの話を耳にするたびに気になるのはあまりにも無抵抗な六ヶ所村や青森県のことである)。

 八〇年以降脱原発の歴史や原発批判の言説も積み重ねられてきてきた。エコロジー運動の歴史をまとめたヨアヒム・ラートカウの新著『Die Ära der Ökologie(エコロジーの時代)』(二〇一一年)などはその代表的なものといえる。むろん原発だから放射能汚染に対する直接的な不安や恐怖だけでも充分反対の理由になるのだが、原発の危険性がただそれだけにとどまらないことを訴えたものとして早くに有名になったのが一九七七年に出版されたロバート・ユンクの『Der Atom=Staat(原子国家)』である(日本では一九七九年に山口祐弘氏によって『原子力帝国』と題されて翻訳出版されているが、いまは出版社がなくなって絶版中、一刻も早い再版が待たれる)。ユンクは反原発の先駆的な理論家として一九八六年にはオルターナティヴ・ノーベル賞も受賞している。この本には早々と、いま日本でよく読まれているという故平井憲夫氏の講演記録「原発がどんなものか知ってほしい」に述べられているようなことも書かれていて大変興味深いが、このなかでユンクがとくに強調しているのは、原発という存在が必然的に生み出してしまう管理の強化という問題である。原発はいうまでもなく非常に危険度の高い機械装置である。それだけ高度な知識や技術が必要となってくるが、そのことはその特殊知識や技術をもちあわせたごく一部の人間(いわゆる「原発村」)による占有とそれに基づく国民管理を結果する。その安全性を求めれば求めるほど秘密性も高まり、それに比例して一般の人々に対する管理、監視、洗脳、強制が強化されることになるということである。ユンクはこれを具体的な事例に基いて論証しており、非常に説得的である。こうしてつくりだされる非人間的人間をユンクは「ホモ・アトミックス」と呼ぶ。これは技術そのものが内在的に生み出してしまう人間の危機であり、これはひとたび原発が造られ稼動するや引き返すことのできない宿命的危機であるとされる。

  この論理の大半は、東電というあまりにも杜撰な会社の「想定外」の失態ぶりを除けば、今日のフクシマ後の日本の状況にも当てはまっているように思える。まず情報が電力会社と行政府によってコントロールされていること、情報が公開されてももはや一般の人間にはその意味が理解できないこと、そういう事態はさながらユンクの予想した原発管理社会(のほころび)を見せつけられているようである。この間のマスメディアの脱原発運動に対する意図的な無視やタブー化なども、いまやマスメディアもまたその管理体制の一機関として作動していることを如実に示している。

初出:「atプラス09号思想と活動」(太田出版)より許可を得て転載

http://www.ohtabooks.com/publish/2011/08/09181230.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study410:110901〕