脱原発へ転換のとき

NHKドキュメンタリー『原発導入のシナリオ』(1994年)http://video.google.com/videoplay?docid=-584388328765617134&hl=ja#によれば、1954年の春から55年の夏ごろにかけてわずか1年あまりの短い期間に、核=原子力に対する日本社会の反応は劇的に変化したことがわかる。54年3月1日、第5福竜丸がビキニ環礁で行われた米国の水爆実験の「死の灰」をかぶり被曝するという事件が起きた。これを契機に、日本国内では激しい反核・反米の世論が高まった。ところがそれからわずか1年2カ月後の55年5月13日、来日中の米国「原子力平和利用使節団」を招いて日比谷公会堂で開かれた「原子力平和利用大講演会」は押すな押すなの大盛況で、会場に入りきれない聴衆は会場外に設置されたテレビに映し出される講演会を熱心に見守ったという。核=原子力推進派からは「核アレルギー」と揶揄されるほど強かった日本社会の反核感情は、今や「平和利用」の美名の下での核(原子力)利用を熱烈に受け入れるまでに大転換したのである。もともと「核」も「原子力」も英語では「nuclear」という同じ言葉であり、実態としてもウランやプルトニウムの核分裂反応を利用する点で同じであり、それによって超危険な核分裂生成物を不可避的に生み出す点でも同じである。それを日本人は、軍事用は「核」、“平和利用”の場合は「原子力」と言葉を替えることによって、あたかも全く別物であるかのような偽装をしてまで受け入れたのである。
この間、何があったのかは、上記ドキュメンタリーが詳細に伝えているが、読売新聞と日本テレビは55年の1月から5カ月間にわたって原子力の平和利用キャンペーンを繰り広げ、その総仕上げとして5月9日からジョン・ホプキンスを団長とするアメリカの「原子力平和利用使節団」を招いたのである。ちなみにジョン・ホプキンスは原子力潜水艦の開発メーカー、ジェネラル・ダイナミックス社の社長である。
日本社会のこうした世論の変化を見た日本政府は、同月19日には米国の濃縮ウランの受け入れを決議し、6月21日には日米原子力協定が仮調印された。翌年には総理府に原子力委員会が設置され、茨城県東海村に日本原子力研究所(原研)が設立され、翌57年には原研の原子炉が日本で初めて臨界に達した。日本原子力発電(原電)の東海発電所が日本初の営業運転を開始したのはそれから9年後の1966年7月であり、以後、今日まで50基を超える原発が日本の海岸沿いに次々と建設されてきたことは周知のとおりである。読売新聞・日本テレビによる「平和利用キャンペーン」という名の国民洗脳工作の裏側には、米国情報局の対日心理戦略があり、さらにその背景には、米国がソ連との冷戦戦略の一環として進める核の「平和利用」キャンペーンがあったのだ。そして、米国の「原子力平和利用キャンペーン」は、対米従属と反共主義を推進する日本の権力層の利害と合致し、それをいち早く察知した読売新聞社主・正力松太郎とその懐刀・柴田秀利(日本テレビ重役)が日本の政財界に核=原子力技術の日本導入を強力に働きかけたことが、上記のような大転換につながったのである。
 『全面的冷戦』の著者ケネス・オスグッドも、「1954年から55年にかけての核に対する意見の変化はめざましいものだった。情報局の集中的なキャンペーンにより、核ヒステリーはほとんど消滅し、1956年初には原子力平和利用を広く受け入れるように日本の世論が変わった。……(その結果)アメリカに対する日本の世論は著しく改善し、日本政府の親米政策に対する圧力をある程度弱めることになった」と述べている(浅井基文「「原子力平和利用」神話」http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2011/388.html参照)。

 しかし、原子力推進派がその後日本国民に説き続けてきた数々の神話――「原発は安全です」「原発はコストが安い」「原発はクリーン・エネルギーです」等々――はすべて大嘘であることが今回、明らかになった。日本人は今度こそ虚妄の夢から目を覚まし、54-55年の時以上の大転換を行うべきである。「ペルセウス(注:メドゥーサを退治したギリシア神話の英雄)は怪物を追跡するために隠れ帽子を用いた」が、「われわれは、怪物の実存を否認してしまうためにこの帽子で目も耳も隠してしまうのである」とマルクスは述べた(『資本論1』新日本出版社、11頁)が、もはやこんな帽子は脱ぎ捨てるときである。目や耳を隠しても「怪物」がなくなるわけではない。しかもこの怪物(原発)はそれ自体が危険であるだけではない。その排泄物=「死の灰」(放射性廃棄物)は100万年にもわたって管理を続けないと危険性がなくならないと言われているが、100万年後の世界を想像できる人間などどこにもいないし、人類が生きているかどうかすらもわからない。ましてや日本などという国家が存在しているはずもなく、現在「日本列島」と呼ばれている島が存在するかどうかもわからない。人間の管理能力を完全に超えているのである。
 「“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!” これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである」とマルクスは述べた(『資本論2』新日本出版社、464頁)が、原子力産業ほどこのスローガンを偏愛している勢力もいないだろう。こんな連中の大嘘宣伝に乗せられて、地球を汚染し続けるようなことはすみやかにやめるべきであろう。

「3.11」(注)以後、日本人はもはや以前の世界には戻れなくなった、という感想を多くの人から聞いたし、私自身もそのように感じていた。しかしその意味は、「3.11」以前は放射能汚染のない安全な世界であった、という意味では全くない。原発の周辺は低レベルとはいえ常に放射能で汚染されていたし、福島第一原発事故はいつ起きても不思議ではなかったし、今現在も第2、第3のフクシマ事故が起きるかもしれないのである。故・高木仁三郎氏や広瀬隆氏や小出裕章氏のように、何十年も前からそのことを警告し続けてきた少数の人々も存在したが、政府もマスコミも原子力産業も聞く耳を持たず、私を含む多くの国民もそうした警告を軽視したり忘却したりして、紐の切れかかったダモクレスの剣の下で惰眠をむさぼっていたばかりか子どもたちを遊ばせていたのである。しかし、遅ればせながら、今回の大事故によって、ようやく多くの国民はそのことに気付いたはずである。気付いた以上、原発の危険性に目を閉ざし続けることは許されない。「3.11」以前の世界に戻ることはもはや許されないのである。日本人は、今こそ脱原発社会に向けて大転換をすべきである。

(注)「3.11」という日付は、太平洋に面した東北・北関東に未曾有の大惨事をもたらした東日本大“津波”震災と、福島第一原発事故という2つの異なる出来事を刻印した言葉である。後者は前者を引き金としているとはいえ、これら2つの出来事は全く異なる意味とそれぞれ独自の重みを持っている。それゆえ、「3.11」という言葉で後者の出来事のみを指すことには、大きな躊躇いと心苦しさを感じずにはいられない。しかし、前者の被災者でない私には、今なお前者の出来事については語る言葉を持ち得ない。それゆえ、ここでは便宜上、「3.11」という言葉で後者の事象のみを語ることをお許し頂きたい。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔opinion0460 :110513〕