2011年9月17日 連帯・共同ニュース第154号第
■ 2011.09.19には東京・明治公園での5万人集会とデモを始め全国で脱原発のアクションが展開される。明治公園での行動は政党・知識人・市民がさまざまな思惑を超えて集まるものであり、脱原発をめざす人々が大同に就くことを意味する。これにはあの福島第一原発震災が未だに収束せず放射能汚染も進行している事態がある。この不安の中で人々の脱原発の運動の高まりがある。脱原発の国民的意識と行動は裾野を広げているのだ。9月19日はこれを象徴し、今後も引き続き脱原発の意識と行動の広がりの節目になることが期待されている。だが、他方で裾野を広げている脱原発の意識や行動に不安が浸透してもいる。これは脱原発の行動の集中点が見えないということである。言い換えれば脱原発という運動が原発推進の動きを追いこんでいく道が明瞭にならないことである。集中点と現実的な深まりを欠けば拡散して行くという危機ヲ内包する。多分、この間に脱原発の様々の行動に参加した人が自問していたことと思われる。危機感も含めて行動の中で、あるいは深夜に自宅の机の前でそういう問いかけをしてきたのではないか。
■ この運動の集中点と深まりが見えにくいという第一の要因は原発推進の側である政府や権力の動きが見えにくいことにある。内閣は菅内閣から野田内閣に変わったが政府の原発に対する基本構想が明瞭にならない。これは彼らの構想《エネルギー政策も含めた原発政策》が定まれないのか、国民の意識や行動を見ていて表に出ることを避けているかである。こうした中でヒントは見だせる。経産省と原子力ムラの動きである。菅前首相が退任後インタビューで明らかにしていたように経産省と原子力ムラは原発再稼働→原発保持を戦略として定め、その展開を密かに狙っているのだ。玄海原発の再稼働をめぐる政府内の対立や経産省の動きはそれを物語っている。僕らが注目しなければならないのは原発推進という原子力行政の担い手は経産省であり、原子力ムラであり、政府はその承認をしてきただけであることだ。この構造は依然として変わらずにあることを見なければならない。彼らは官僚集団として密室的に陰で、だが実質的推進体としてある。彼らの原発戦略は変わっていないのであり、ここに僕らの脱原発の戦略も立てられなければならない。原発再稼働阻止→廃炉を掲げ経産省や原子力ムラの動きと対峙することだ。情報と同じように政府や権力側の動くは見えにくい、これに運動の集中点と深まりのためにこれを鮮明にしていかなければならない、経産省前の座り込み闘争を広げ脱原発の広場にせよ。(文責 三上治)