自然農業は人を変える―――『土に生きる』第3号を手にして(4)

著者: 野沢敏治 のざわとしはる : 千葉大学名誉教授
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 どんな運動団体にも問題はあり、その存続が危機に陥ることがある。「作って食べる会」は発足後まもなくしてその時を迎えた。露木裕喜夫と岡田米雄が会の路線をめぐって対立する。そこに他の問題も加わり、会員の間で感情的な対立もおこり、人間不信にまで至ったと言う。胸が痛くなる。運動する者が良い方向にもっていこうと熱心になると、指導権争いとなり、軋轢が起こる。それは自然法則なのか。本会でもそうであったのか、代表の戸谷委代がその責任をとって辞任する。そのいきさつは会誌では詳しくないので、本での説明に任せるが、会の運営はこれを期に草創期に特有の少数者による指導から多数者による運営へと変わっていったようである。

 表紙に雌どりと卵のカットが入る。本文は29ページで前号より少ない。目次と編集後記が各1頁ずつ付く。編集者は椿紀子と菅洋子、筆耕者は中島。発行日は1977年2月25日。「食を考える」特集号となっている。

 本文中に三芳村山名集落の戸数・耕地面積の表が入る。全戸数133戸(寺2戸、商業3戸、農業118戸)、水田約60ヘクタール、畑訳40ヘクタール、山林約100ヘクタール。前号で計算したのと同じく、1戸当たりの耕地面積の平均は全国平均の約半分と小規模である。

 1977年という年(以下は岩波『近代日本総合年表』を参照)

 発行の1977年は今から35年前になる。アメリカの航空機を購入するのに日本の首相が関わっていたというロッキード事件が日本とアメリカを揺るがしていた。首相田中角栄らが初公判に出廷している。日本の政治のトップが逮捕され、裁判で裁かれるのである。与党は金がらみの政治で汚れていた。他方、野党の社会党では、大会で江田三郎と社会主義協会派が対立する。そこで社会主義路線をめぐって争われ、江田の構造改革路線は抑えられる。

 この年の経済成長率は名目11.5パーセント、実質5.3パーセントであった。それは50年代後半から始まった高度成長が1973年の石油ショックでとん挫し、74年には戦後初のマイナス成長を経験したのをへて、75年実質2.7パーセント、76年実質4.8パーセントと低成長時代に入る。それが80年代に入っても続く。それでも欧米諸国に比べて高い成長率であり、日本は比較的好調であった。他方、77年の消費者物価指数は8.1パーセントの上昇で、インフレは続いていた。

 産業構造の変容が進んでいて、繊維産業は構造不況のまま、電気関連・造船業等は好況であった。アメリカとの間での経済摩擦も続く。カラーテレビがアメリカ市場に急伸する。アメリカが日本製炭素鋼をダンピングとみなすが、日本側が輸出価格を引き上げて事態を収める。日立造船は約50万トンもの日本最大のタンカーを製造している。他方、農業では政府は生産者米価を1万7232円と決定し、77年度産米が1310万トンとなったことに対して生産調整面積(転作)を19万2000ヘクタールにしている。豊作と減反という矛盾。

 社会的には平均寿命が男72.69歳となり、スエーデンをぬいて世界1位。女は77.95歳で両国がともに1位。カラオケがブーム。ディスカウンターが盛況。でも小中学生の自殺が増える。

 周りの変化

 この頃になると、和田博之が述べているように、有機農業をめぐる状況は当初とは変わってきた。最初はそれは「近代農法」の体制のなかで異様に見られていた。それが一般の新聞だけでなく農業新聞も公害や食物汚染を取りあげるようになる。そしてこの会が始まった2年目に、有吉佐和子の『複合汚染』が出て、これがきっかけで有機農業は大きく広がる。石油危機を契機に「作って食べる会」の会員は増えていたのだが、同書の影響で消費者会員は一挙に1100余名に増える。それほどこの本の力は大きかった。それに対して農業の専門研究者から『複合汚染』に対する「科学的」反論が出される。その議論の仕方を紹介したいが――「研究」というものを再考するのに参考になるのだが、頁の余裕がないので割愛する。同会の生産者会員は18戸に減っていたが、それでは増えた消費者会員に供給できないので協力農家を増やし、38戸で提供するようになる。

 会の運動に対しては外部から次のような批判がでた。戸谷がそれらを紹介している。一般の新聞に読者からの投書が載り、有機農産物を買うのは金持ちであって、われわれのような貧乏人ではできないと書く。実際はどうなのか。会員の主婦は大体サリーマンの妻であり、後に同会の消費者に行なわれた調査の収入項目では確かに全国平均より多かった。しかし金持ちといっても平均収入額の何倍もない。そんな差で金持ちだ貧乏人だと区別するほどに、当時の国民の生活感覚は中間階級意識であったのである。他に前田俊彦や農業評論家の批判があった。彼らの論調はこうであった。有機農業運動は自分たちさえ良いものが手に入ればそれでよいとする消費者のエゴの運動である、慣行農法をニセ農法とするのは農民差別である、有機農業運動は消費者的発想の上に立つもので農民を犠牲にするものだ、等々。彼らは戦後の「近代」農政に対して現場の農民の声を代弁していたのだが、自然と人間の関係をただす新しい動きには敏感でなかった。やがて彼らの論調は変わる。彼らは戸谷たちの反論や説明もあって、本会の意義を認めるようになる。さらには近代農業を推進してきた農林省の空気も1部変わり出す。省内で有機農業が研究されるようになる。

 自然農業は自然の力を借りる農法のことであり、……

 生産者会員は自然農法についてそれなりの工夫をした。草の中にジャガイモの種を植え、その上に堆肥を振って覆いにし、直射日光が当たるのを避ける。堆肥はすきこまれないのである。また、ベテランになるとハト麦を作ったり野菜の種を自家採種するのに畦を使う。野菜の種の自家採種は難しいのだが。その他、ブタを入れて開墾を手伝わせる。役畜も人間と同じく働くのである。その代わりにブタには餌を、それもほとんどお金を要せずに、与えるのみ。露木はそれを「自然に生まれた経済」と言う。以上のことだけでも、自然農法は慣行農法よりもずっと自然の力そのものを借りていることが分かる。

 人間は家畜の労働に対して賃銀を払うことはない。経済学の歴史の中では、俗に言われる労働価値論は輝かしい歴史をもち、人間労働を積極的に意味づけたうえでそれを伸ばさない社会制度を批判していた。それは経済理論的にも社会思想的にも進歩的であった。しかし、それは家畜の労働や土の力が農産物を作る上で大切であることを知りつつも、経済価値を生産するとは考えなかった。労働価値論は人間中心の経済論であった。

 露木が紹介しているが、ベテランによる自然農法は慣行栽培よりも品質は良く、おかずがいらない程のおいしいお米であり、2ヘクタールで100表という多収であったらしい。10アール当たり5表だから、東北や北陸に比べると多収とは言えないが、有機農業は軌道に乗ると、大体どこでも一般農法と変わらないほどの収穫量になる。

 …命が命を食することを教えるものであり

 生産者は牛に餌を与えて食べさせる。でもその牛に人間の方も食べさせてもらっている。牛から出る牛乳や肉によって、またそれらをお金に換えて必要なものを買うことによって。自然農法ではそうしみじみ思うことができる。それは自然農法では牛との関係が慣行農法よりもずっと家族的だからである。このことは牛に限らない。人間は米や野菜にも食べさせてもらっている、そう言いうる。

 人間が食べさせてもらうとは、自然農業では命あるものは命を食べることをしっかり見させてくれることをも指す。市場ではそのことはぼかされる。和田の言うように、自然農業をすることで食品に毒がなければそれでよいことにはならない。自然農業は「命あるものは、自然の仕組みの中で、許される範囲で他の命あるものを食べ」ていることをはっきり見せてくれる。「食物連鎖」は弱肉強食のイメージのタテの関係でなく、横の関係としてあると言える。「食物連鎖」をこのように感じさせ認識させるのは自然農業においてである。

 提携の信頼関係を築くことである

 自然農法は農法のことだけでない。それはそれまでの生産者・消費者の関係を変える。岡田が「現代消費者論(主婦論)」の中で論じることであるが、農民はメーカーが一方的に供給する肥料や農薬から自立し、主婦は「夫から」自立する。また両者は中間業者や市場から自立する。その両者を提携させるものは何か。それはお金ではない。岡田は両者は命を扱う点で共通だと言う。そして日本の産業を工業主導型から農業主導型に換えるべきだと論じ、それには男性でなく主婦でないとだめだと言う。

 ウーマン・リブ運動では女性が「主婦」として家庭に押し込められることに反発するが、女性解放は主婦業を見つめ、それに徹底することでもなされたののである。逆説的であるが。「生活クラブ」の活動もこの種の「女性」解放の活動であったと言える。同じことは戦後に限っただけでも、主婦は家族の健康を考えて原水爆核実験禁止を求める署名運動等に入り、そこで社会意識を育てていったことがある。

 農民が社会に目を向けるのはかつては小作争議や階級運動によってであり、農業協同組合に結集して市場交渉力を強化することによってであった。それが時代が変わる。環境を考え、農薬から家族の健康を守ることを考え、消費者との「提携」によって経営の自立をも考えるようになった。

 提携は前の号で示したように、次の3原則を守る。価格は生産者が決める。消費者はできた農産物の全量を引き取る。配送は生産者が受け持ち、配分は消費者が受け持つ。これが都市と農村を「結ぶ」のであって、その結び方が市場のようにいったん両者を断ち切ったうえで利害の相互性によって結ぶのとは違う。両者の関係はもっと直接的な「提携」なのである。

 提携は「産直」とも違う。産直は農家や農協あるいはスーパーが中間流通を省いて直接消費者とつながるのであるが、それは上の3原則のどれをも基準にしていない。産直は市場の合理化の1つであって、これは後の第6号で問題にされる。本会のあるポストが提携で不足する分を産直で補っていたからである。提携は産直と違って、戸谷が言うように「必要なものを必要なときに必要なだけ」摂る「知足」を知ることである。彼らはそれをよく「血の通った人間関係の回復」と言う。市場では違う。そこでは自分の利害を隠し、相手が語る言葉を疑っている。それが提携によって相手を疑わなくてよくなる。戸谷はそれを食べ物を通じてその「心を読みとる」ことだと言う。…やがてその信頼を破る行為が生産者から、そして消費者からもでてきて、提携はそのたびに試練にあう。

 …提携は消費者・生産者の双方を変えていく

 提携は消費者を変えていく。消費者は1週間に1度届いたものをグループで配分してから、次の週に届くまでの献立を考える。武蔵村山市の高沢昭子が面白い表現をしている。野菜と「にらめっこ」して、と。献立を考える例を川崎の山本久子からとると――「大根の葉は精進揚げと味噌汁の実に。後はかつを節を入れ、酒、醤油で味つけしていためる。暖かいご飯の菜めし、チャーハン、箸休め(――ちょっとしたおかずのことと初めて知った。野沢)にも重宝です。大根はなます、味噌汁、ふろふき、おでん、鶏肉との甘辛煮、里芋、こんにゃく、人参とごった煮と冬の間中ずい分世話になった。…」。

 最初は混乱する。生産の質も量も安定しなかったから。小松菜20杷が1度に来たことがその後の伝説となる。でも「不平は言わない」。三鷹の今井みちるは「ここでネを上げては女がすたる」とがんばる。その後も今井はなすを10袋引き受け、「5袋をよそへ分けて、2袋をさしあげて、ナスの忘れ煮(――まったく初耳だが、たぶんナスをたいた後でそれを忘れるくらいおいておくと、味が浸みておいしくなることか?。野沢)10ケ、次の日天ぷら5ケ、ぬかづけ2ケ、3日目味噌汁の実、夕食にキャセロールという具合」に処理する。

 生産者との提携は三芳との場合を参考にして他にも応用される。地域の豆腐屋に防腐剤のAF2――夏で3日ほど、冬で1週間ほどもつ――や泡消し――豆腐の煮汁の泡を速く消す効果あり――を入れないで作ってくれ、またにがり―ーにがりの塊を水に浸して成分を抽出し、それで豆乳を凝固する――を使ってくれと頼む。生産は注文制にして「豆腐の形にならなくてもそれを形が悪くても引き取る」。月1回のペースから始まって週2日までと利用者が増える。また醤油を自然塩を使ってくれと頼んで樽全量(2千本)引き取る。「商品物神」の克服はマルクス学の中だけのことではない。

 消費者は分業の境界を少し越える。武蔵野市のT生は「子連百姓記」と題して報告している。8畝(8アール)の田を借りて自分で3表半を収穫する中で変わる。たとえば、天日干しについて火力乾燥なんてとんでもないと思っていたが、自分のわずかな家族分だけでも午後3時までの秋の短い日にカマスから出しては入れることを3日間やる、それだけでも実に大変なことを知る。

 生産者も変わる

 生産グループの側も変わる。最初の頃は技術が確立していなかったために失敗の連続。ただ種をまいては収穫なしの結果の連続。

 消費者の需要に適切に応えるには「作付計画」が必要となる。そういう「合理化」は必然的なもの。

 生産者の鈴木昇が言うように、「会員全員が運転者であり、事務員であり、作業員であり、生産者である」。資金不足で専従をおけないという事情もあるが、分業は多少とも克服される。

 また、生産者も消費者から学んで家で石鹸や天然塩を使うようになる。 

 ただし、変わるといっても完全に市場から自由になるのでない。周りの農家や農協との付き合い上、1部の農産物を農協に出荷する。

 それに生産者が克服できないことがある。どうしても自然に負けてしまう。1977年は会異常な気象であった。秋の長雨が12月まで続く、冬季には異常乾燥と寒害。天候に任せるだけでは思い通りの物はできない。現在の技術では自然農業で天候をコントロールすることは難しい。加えて鳥害に会い、ヒヨドリがキャベツやホーレンソーを食い荒らす。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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