*新海均著『満州 集団自決』 河出書房新社(1900円+税)
いまからちょうど七一年前、敗戦から一か月以上を経過した一九四五(昭和二〇)年九月一七日午前二時。満州瑞穂開拓団(全国、青森から鹿児島まで二二の県の出身者で構成)の村民一一五〇人中の四九五名が一斉に青酸カリで集団自決した。約二七万人、一一〇二団(隊)あった満蒙開拓団(青少年義勇隊)のどの開拓団よりも多くの人が、自分たちが築き上げた村で死を選んだ。
自決せずに、生き残った人たちの引揚げも苦難の連続だった。越冬は困難を極め、集団自決の翌年の昭和二一年八月時点での引揚者はわずか一一八名。村民のなんと約九割が、生きて祖国の土を踏むことはなかった。
このことを『月刊宝石』誌上で記事にしたのが一九八二年三月号だった。同行取材した私は単行本にするべきだと思い続けていた。茫々三四年の月日が流れ、漸くこれに取りかかった。奇跡的に生還した人々の肉声テープが手元に残り、事件現場に居合わせた永島マス子さんや残留孤児となった上原敬一さんなどが快く取材に応じてくれ、苛酷な惨劇を何とかまとめることができた。
一九二九(昭和四)年の世界恐慌で、米と繭を始めとした農産物の価格が暴落し、日本は大きな打撃を受けていた。その不満が、明治以降、富国強兵策を続けていた軍国主義者を増長させた。一九三一(昭和六)年の満州事変を経て、日本軍はたちまち全満州を占領。翌年には満州国が建国され、王道楽土・五族協和が謳われた。
その二年後、瑞穂村は、第三次試験移民団として、満州の大地に送り込まれ誕生した。多くの開拓団には、すでに広大な土地が国から用意されていた。関東軍とともに拓務省が、在住の中国人・朝鮮人の土地を安価で買収。大規模な土地収奪を強引に行っていたのだ。土地を奪われた中国・朝鮮人は日本人開拓民の手足となって働いた。
瑞穂村は入植=開拓から十年を迎えた昭和一九年には開拓記念祭が催され、その豊穣に酔い痴れた。宴は一週間続き、「十年間は何もしなくても食える」といわれるほど豊かな村に育っていた。穀類二二〇〇トンは一一〇二団(隊)の開拓団の中で第一位の生産量を誇り、日本酒も五万四〇〇〇リットル醸造していた。
しかし、翌昭和二〇年八月九日ソ連が対日参戦し、一五日に日本は敗戦を迎える。無敵を誇っていた関東軍は、開拓団を守ることが任務の一つであったにもかかわらず、ごく一部を除き、残された大半の民間人を見捨てて逃亡。
種を撒きに行った人々は大地に捨て置かれ、「棄民」となった。「根こそぎ動員」で青壮年が戦場に駆り出されていた村々では、老人と婦女子が残され、着のみ着のままソ連軍侵攻と現住民の憎悪の中、逃げまどった。
満州に渡った二七万人の開拓民の内、約八万人が死亡した。追い詰められていった満州開拓団の中でも、最も壮絶な瑞穂村の集団自決は何ゆえに起きたのか?
満州開拓の最初の構想を、「満州産業開発五カ年計画」によって描き、経済政策を領導したのは、「満州は私の作品」とまで豪語した岸信介(安倍晋三・現首相の祖父)である。彼が満州の昼を支配したとすると、夜を阿片と金の力で支配したのが甘粕正彦(大杉栄と伊藤野枝らの虐殺者)といわれる。その岸、甘粕とトリオと称されたのが、太平洋戦争開戦時の最高責任者・東條英機である。
教科書の歴史は為政者によって記録される表層の歴史でしかない。埋もれ行く歴史の中で生活し、殺され、あるいは生き抜いてきた人々の重い時間の中にこそ真実は眠っている。その隠された凄惨な過去を見つめ直すことで、未来を見通す一条の光がそこにあることを祈りつつ、瑞穂村に象徴される『満州集団自決』を書き続けた。
「世界一貧しい大統領」=前ウルグアイ大統領、ホセ・ムヒカの言葉が胸に刺さる。「実は私は、国家をあまり信用していないんだ。(中略)国家は必要だよ。だけど、危ない。あらゆるところに官僚が手を突っ込んでくるから。彼らは失うものが何もない。リスクも侵さない。なのに、いつも決定権を握っている。だから国民は、国家というパパに何でも指図されてはいけない。自治の力を身につけていかないと」(朝日新聞二〇一六年四月一日より抜粋)。
国家というパパの決定はいつも突然、唐突にやってくる。国策にのっとって「お国のために」満州に渡り、その果てに易々と国家に捨てられた瑞穂村のように……。
そして、今、特定秘密保護法、「武器輸出三原則」に代わる「防衛装備移転三原則」。さらに安全保障関連法案、原発再稼働……。太平洋戦争の犠牲者約三一〇万人と引き換えたはずの憲法九条すら打ち捨てられようとしている。
集団がとんでもないところに巻き込まれないように、パパの力に脅かされない自治の力を、各々が身につける必要に切に迫られているのかもしれない。
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