( 2 ) マルクス対フォイエルバッハ
「フォイエルバッハとマルクス及びへーゲル」は、一九八三年の早稲田大学の「疎外論の現代的意義」のシンポジウムでの報告をもとにしたもので、舩山の人間学的唯物論とフォイエルバッハ・マルクス・へーゲルの関連がよく分かります。
マルクスは一八四四年の『経済学・哲学手稿』では、へーゲル弁証法を深く理解し、人問主義=自然主義、自然主義ー人間主義の立場を貫いたフォイエルバッハを高く評価していました。マルクスは(フォイエルバッハの偉業」をこう述べています。
( l )哲学(へーゲル哲学)は思惟によって遂行された宗教に他ならない。だから哲学は宗教とともに断罪されるべきであることを証明した。
(2) 「人間に対する人間の社会的な関係」を理論の根本原理にすることで、真の唯物論と実在的な諸科学とを基礎付けた。
(3)「否定の否定」に対して、自分自身を根拠にする肯定的なものを対置することによってそれをおこなった。
しかし翌年の 『フォイエルバッハ・テーゼ』では、フォイエルバッハが感性を実践として対象的活動として捉えておらず、単に直観的に客体として捉えられているにすぎないとし、また歴史・社会・政治についてあまり取り上げず、自然についてばかり多く語っていることにも不満だったのです。フォイエルバッハの非実践的な性格についてのマルクスの批判には舩山も共感を示していますが、敢えて舩山はフォイエルバッハの側に立ちます。
このマルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の立場は実践的唯物論・主体的唯物論であり、客体を感性的な意識に還元していますから、客体の実在性は止揚されています。人間学的唯物論の立場では主体が身体である以上、それに対する客体も身体を超越した他の身体あるいは諸事物の筈です。つまり主体対客体の実在同士の関係があって、その基礎の上に意識が生じるわけです。言い換えますと対象についての意識が生じるのは実在間の関係があるからだということです。
対象の意識から対象の実在を導き出すのは独断ではないかという批判がありますが、たしかに個々の対象の意識から、いつも対象の実在を導きだせるわけはありません。でもいつも夢幻であり、錯覚であるなら、人間は実在間の物質代謝を行えなくなり、すぐにも滅亡してしまいます。ですから日常的な生活実践の場面では、対象の意識から対象の実在を推論するのは決して独断論ではない筈です。
感性つまり意識内容を客体として捉えないで、主体の実践や対象的活動に還元したままでは、意識内容に埋没して主観的観念論に陥ってしまいます。意識内容を対象に成っている客体の性質として客観的に捉え返すことにより、客観的世界の法則的認識が可能になるのです。つまり感性的意識内容を客体としての事物の認識にまで高めるには、意識を超越して実在を立てる必要があるのです。外に超越して客体的事物を、内に超越して身体的主体を立てるのです。これが人間を自然を基礎に身体的な主体として立て、我と汝の係を感性的な関係として捉え返したフォイエルバッハの人間学的唯物論に戻ろうという、舩山の問題意識です。
(3)哲学の体系と構造
舩山は人間学的唯物論の哲学を展開するにあたって、人間学的唯物論に相応しい展開の方法を考えています。その場合へーゲル哲学の体系を参考にし、その人間学的唯物論に相応しい改作を行おうとしました。へーゲル哲学には狭義の体系、すなわち『エンチュクロペディー』における《論理学 →自然哲学 → 精神哲学》という体系があります。それにもう一つの体系は、「へーゲル哲学と西田哲学との一対立点」で述べられている「構造的発展におけるへーゲル哲学体系」にあたる広義の体系《『精神の現象学』→『論理学』→「実在哲学(特に「歴史哲学」)」》という体系です。これに対して人間学的唯物論においては《人間学(認識論[意織学・現象学]+実践論)→論理学(本質学)→現実学(存在論)》という体系が成立するとされています。
「へーゲルの現象学的観念論」によりますと、へーゲルの『精神の現象学』は感覚的確信から絶対知までの意識のすべ発展を展開しています。そこでは客観的な自然や社会的諸事物や歴史も全て意識の経験の学として意識に還元された「絶対的観念論」です。舩山は認識論と実践論を結合することによって、身体的存在としての人間相互の関係、身体と自然の代謝関係を基礎に置いた人間学を先ず展開します。この認識と実践の豊富な蓄積と成果を踏まえて、そこから弁証法的な論理学が本質学として展開されることになるのです。
へーゲルの場合、『精神の現象学』の成果としての絶対知は、次に論理として自己を展開します。この『論理学』が抽象的な意味で存在論なのです。その後で展開される実在哲学は 『自然哲学』にしろ『精神哲学』にしろ外化された論理の自己展開なのですから。それに対して「人間学的唯物論」の「論理学」はあくまで実在(身体や諸事物)相互間の主体的対象的構造を反映した論理の学になります。舩山はこの論理学をエンゲルスやスターリンのように[形式論理学十弁証法]ではなく、弁証法一本でいくべきだとしています。
弁証法も論理の発展段階で種類を異にしますから、弁証法一本でも決して貧相にはなりません。またエンゲルスの公式のように「量から質への転化」「対立物の統一と闘争」「対立物の相互浸透」「否定の否定」等を適当に当てはめて説明に使っていくのではありません。へーゲル論理学で、有論は移行の弁証法、本質論は反省の弁証法、概念論は発展の弁証法というように、弁証法の論理自体がダイナミックに発展していますが、この唯物論的改作が念頭にあったようです。
論理学を方法論として実在哲学(現象学的人間学・法哲学・経済哲学・歴史哲学)を展開する点はへーゲルも舩山も変わりませんが、人間学的唯物論ではこの現実学こそが存在論に当たるわけです。人間学的唯物論で政治や経済や歴史を論じる際、その主体が身体主義的人間観を前提にしていますと、せいぜい現実的諸個人どまりです。さまざまな集団・組織・企業・階級・民族・国家などが生きた主体として状況を織りなしてきたのではなかったでしょうか?私が「人間学的唯物論」の「人間観の転換」を訴えているゆえんです。
( 4 ) 西田哲学への視角
「へーゲル哲学と西田哲学との一対立点」では西田哲学に関する関心は、専ら学としての体系性をへーゲル哲学と比較するところにあります。舩山は自らの「人間学的唯物論」を体系的に展開するにあたって、日本を代表する西田哲学では学としての体系性をどう捉えていたか、確認しておきたかったのです。舩山は西田哲学について「発展における哲学の体系」の前期を「現象学的心理主義的時代」、後期を「存在論的論理学的時代」に分けます。
前期―「現象学的心理主義的時代」
「純粋経験 → 知的直観」の哲学(ロマンティシズム)の時期―『善の研究』(一九一一年)
「自覚の哲学」の時期ー『自覚に於ける直観と反省』(一九一七年)~『芸術と道徳』(一九二三年)
後期―「存在論的論理学的時代」
「場所→弁証法的一般者」の時期―「場所」(一九二六年)、「働くものから見るものへ」(一九二七年)~『哲学の根本問題・続編」(一九三四年)
「行為的直観 → 絶対矛盾的自己同一」の時期―『 哲学論文集・第一』(一九三五年) ~『哲学論文集・第三 』(一九三九年)
「ポイエシス」の時期― 『哲学論文集・第三』(一九三九年)~『哲学論文集・第五』
(一九四四年)
舩山によると「場所」において方法が確立し、その方法に基づいて体系が展開されたわけではないのです。西田哲学の全発展が立場・方法の不断の深化・発展なのです。そして前期は現象学であると同時に論理学(存在論)であり、後期は論理学(存在論)であると同時に現象学だとしています。各時期において西田哲学にも体系的な試みはありますが、立場・方法が不断に深化・発展しますので、体系としてのまとまりは弱かったのです。
西田は後期においてへーゲル哲学の影響を受け、「弁証法的一般者」「絶対矛盾的自己同一」等、西田独特の弁証法論理を展開していますが、西田はへーゲル弁証法をマルクスを介して知ったのです。つまり当時の京大の教授たちは学生の中の議論に関心を示し、常に最先端の問題意識を培っていたということです。三木清、戸坂潤、梯明秀らとの交流が西田哲学の発展に重要な役割を担ったということです。梯明秀は西田に若きマルクスの『経済学・哲学手稿』を紹介したことを大変手柄に感じていまして、晩年一九七○年代の立命館大文学部大学院の授業でも、私たちにそのことを盛んに自慢していました。
西田のこうした開明的性格は、「日本近代哲学史における西田哲学の地位」によりますと、四高の学生時代から見られるのです。西田自身の晩年の回顧でも「極めて進歩的な思想を抱いていた。」とありますが、当時彼は唯物論的無神論的見解を披瀝し、また唯心論的見解も表明していました。つまり自分のよって立つべき思想を模索していたのです。これに後にヒュームの経験論、カントの先験哲学、グリーンの倫理説、ジェームスの根本的経験論等が加わり、西田の純粋経験論の源泉になったのです。舩山は西田哲学の近代性を個別性の原理、内面性の原理をはじめて哲学的に把握した点にあるとしています。(続く)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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