( 5 ) 西田哲学の評価を巡って
「西田哲学は生きているか?」の中で、戦争中西田哲学がブームになった頃、三木清が「もし西田哲学がほんとうに理解されているならば、そのときはこのような政治的思想的状況が生ずるはずがない」と語ったことが紹介されています。船山はちゃんと断っていますが、三木は西田哲学に状況打開の力を期待したのではないのです。西田哲学が理解できる程の頭があれば、こんな愚劣な状況にはなっていなかったというアイロニーなのです。
敗戦後、西田哲学は戦争に果たした役割を追及されました。しかし政治的批判はともかく、その哲学的批判は正鵠であったとは言えないと舩山は述べています。そこで「戦前 → 戦中の「左翼 」哲学者たちが観た西田哲学」で西田の存命中に左翼からどんな批判がなされていたのか検討されています。
三木は西田哲学の学的性格を捉えて、西洋的普遍的世界的性格を強調しました。戸坂も東洋的・封建的要素が多分にあるが、本質的にはブルジョワ・アカデミズム哲学と規定しています。東洋的・封建的だとしたのは汎神論的神学だと決めつけた山崎謙です。甘粕石介は神秘主義だとしながら、それが今日のブルジョワ哲学の特徴だとしています。ところが戦後とは対照的に左翼哲学者のだれも西田哲学をファシズム哲学とは見なしていなかったのです。
左翼哲学者は、西田の弁証法に対する捉え方の欠陥を批判しました。しかし舩山はそれに対してこの論文では論評していません。もちろん人間学的唯物論からは、一般者の白己限定や述語論理的な西田の弁証法理解は相容れないと思われます。西田哲学を積極的に評価し、発展させようとしたのは三木と梯だけでした。三木の『歴史哲学』 および『構想力の論理』は西田哲学の三木的展開であり、梯は「西田哲学を讃ふ」で西田哲学の唯物論的改作を試みているのです。西田哲学を冷静に批判しながら、その積極面を評価し、発展させる試みは、日本近代哲学史の総括の中で今でも最重要の課題だといえるでしょう。
( 6 ) 田辺元への思い
舩山の名著『日本哲学者の弁証法』がこぶし文庫に収録されました。京都学派の独創的な弁証法導入の試みがいきいきと描かれて、とても印象的です。特に京大での舩山の指導教官であった田辺元の「媒介の弁証法」の解説は出色です。
近頃は、弁証法はギリシャ哲学の他は、へーゲル哲学と唯物弁証法に限られがちです。そしてマルクス主義の凋落で弁証法もいささか鮮度が落ちて、敬遠され気味です。そんなときこの名著の再刊は、主体的創造的に生かせば弁証法も捨てたものではないと、弁証法が活力を取り戻すきっかけを与えてくれそうな気がします。
「田辺先生の想い出と田辺哲学にかんする感想」によりますと、田辺は三木、戸坂、本多謙三、舩山ら左派学生に好意的でした。唯物論研究会ができた頃、梯、舩山らが世話人の「哲学科学の会」にも出席し、集中攻撃されて舩山は気の毒に思っています。舩山が唯物論研究会の活動に本腰を入れる為に上京しようとした日に田辺にその旨を告げると、田辺の方から握手を求められた事がとても懐かしい想い出なのです、舩山にとって。
田辺は弁証法にははじめ否定的でしたが、若手の議論に刺激されて、へーゲルの観念弁証法とマルクスの唯物弁証法の統一としての「絶対弁証法」、弁証法的なるものと弁証法を超えるものとの弁証法的統一としての「絶対弁証法」を唱えたのです。これに対して舩山は 『唯物論研究』第四号に「「絶対弁証法」の観念論的性格ー田辺元博士著『哲学通論』の批判」を掲載し、唯物論者としての立場から厳しく批判しました。
舩山は上京後、唯物論研究会を中心に一年半ほどめざましく活動しましたが、その後検挙され、転向後田辺や三木の世話で岩波文庫からフォイエルバッハの 『キリスト教の本質』の翻訳を出して食いつないだのです。三木は昭和研究会に加わり、「協同主義」を唱えて、アジア諸民族との共栄の論理を探っていました。舩山もこれに加わったのです。この傾向は国粋主義や排外的民族主義とは対立しました。田辺は「種の論理と世界図式」(一九三五年)や[歴史的現実 』 (一九四○年)では民族主義的傾向が露骨だったのです。それで船山は、いよいよ距離を感じたのです。
( 7 ) 三木清から引き継いだもの
三木は船山より十歳年上でした。彼は欧州に留学して左翼思想に触れ、帰国後「人間学のマルクス的形態」(一九二七年)を著しました。「三木さんについて想うこと」で当時哲学かマルクス主義かの選択に悩んでいた舩山にとって、「運命の人(師)」になったとされています。つまりマルクス主義にも哲学があることを示してくれたのです。
「三木清と戸坂潤ー両先輩の想い出ー」によりますと、一時三木が新興利学社やプロレタリア科学研究所を本拠に活躍し、ジャーナリズムからも寵児扱いされて左翼論壇をリードしかねない勢いになりますが、共産党シンパサイザァー事件で捕まっている間に左翼から攻撃されて、左翼との関係を断ちます。かわりに戸坂が上京して唯物論研究会を創設します。そしてやがて舩山も実践にあこがれて上京することになるのです。
三木は「昭和研究会」を通して、「支那事変」後の「東亜新秩序」や「新体制運動」に理論的に参画しようとします。舩山も、転向後この協同主義哲学の動きに本気で加わります。つまり野蛮な日本軍国主義の侵略の動きを、東亜協同体建設の方向へ少しでも舵を変えようと努力したのです。
遺憾ながら結果的には、野蛮な侵略を粉飾、美化することにしかならなかったとしても、主観的には日本知識人の良心の証のつもりだったのです。実際三木は軍国主義的な日本や軍部に対しても遠慮会釈なく、欠陥を突き、批判的態度を貫いたのです。
戸坂はあくまで体制に否定的であるとして検挙・起訴・有罪となりましたが、三木は体制に進んで協力したにもかかわらず、再び検挙されてしまったのです。それは不用意にも、警視庁から脱走した共産党員の高倉テルを一晩匿い、自分のネーム入りのワイシャツを貸して自分が捕まるきっかけをつくってしまったからでした。そして悲惨にも戸坂は敗戦の年の八月九日に、三木は敗戦後一カ月以上たった、九月二六日に獄死したのです。当時同じ獄に居た寺尾五郎の回想によりますと、三木の場合、高名な学者が怯えるのを看守たちが面白がって余計にいたぶり倒し、身体中膿みだらけになったのを不衛生のまま放置された結果、悶え死んだということです。
舩山は三木の死に相当責任を感じているようです。当時だれも敗戦になっても、治安維持法で収監された人達を救出しようと動かなかったのです。救出の為に動くことを考えることすらできなかったのです。敗戦の虚脱感から自分が何かをできるという気持ちにすらなれなかったということでしょう。
舩山の戦後の最も中心にした課題は、「人間学的唯物論」の確立でした。それはマルクスからフォイエルバッハへ戻ることで唯物論を確立することですが、実は「人間学的唯物論」こそ三木から船山が継承しようとしたものでもあったのです。三木は存在をすべて客観の側に追いやり、主観を意識に還元する近代の認識論を批判し、認識の主観を交渉的存在として捉えていたのです。ちなみに三木は「真理は心理学でも生理学でもなくて人間学である」というフォイエルバッハの言葉を好んで引用していました。三木を獄死させてしまった以上、三木のこの志をあくまで引き継ぐ責任があると、舩山は彼の人生の「ひとすじの道」をこの言葉の為に捧げたのです。
*1999年3月刊『舩山信一著作集 第五巻―西田・ヘーゲル・マルクス』の「解説」より
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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