英語使い

工作機械の設計から米国でフィールドサービスまでしてきた経験を買われて、米国の大手制御機器メーカに招聘された。現行製品の市場投入作業を進める傍ら、裏方としてCNCの新機種の開発プロジェクトを支えていた。米国の工作機械業界が日系メーカに駆逐され、世界の主要CNCメーカは日系勢とドイツのメーカに限られていた。日本のトップメーカとドイツのメーカが一時期協業関係にあったこともあり、それぞれの製品に違いはあるもののよく似ていた。

 

米国に駐在していたとき何度か米国製CNCを操作したが、日本製CNCとの違いに戸惑った。それでもちょっと使っていれば慣れる。慣れはするのだが、日本製CNCを使ってCNCとは何なのかを習得したものには、米国製CNCはなんとも使いにくいものだった。

 

現行製品の一つにイタリアの合弁会社が開発したCNCがあった。日米のCNCならメーカの違いがあっても驚くようなことはない。制御対象が工作機械に限定されているからハードウェアもソフトウェアも、使い勝手も似たり寄ったりで大きな違いはない。多少の戸惑いがあっても慣れの問題でしかない。ところがイタリアのCNC、日米のCNCとはあまりに違いすぎて、オペレータインタフェースを見ても、厚い技術資料を見ても、どこをどのようにしていいのか見当がつかない。こんなCNCもあるのかという製品だった。

 

乗用車を思い浮かべて頂ければいい。メーカが違えば、さまざまな点で違いがある。それでも運転席に座れば丸いハンドルが目の前に、足元にはアクセルペダルとブレーキペダルがある。基本的には似たようなもので、ほとんどの人はユーザーズマニュアルなど目を通すことなく乗り始めてしまう。これ何?と思ったときになって、はじめてユーザーズマニュアルを取り出す。

 

専任のアプリケーションエンジニアは、前職までCNCを全く使ったことがなかった。そのため、彼にとってはイタリアのCNCが全てだった。英語のマニュアルを見ながら、来る日も来る日も彼の玩具と化したCNCを弄り回していた。弄り回してCNCのシステムとしての全貌は把握してきていたが、制御対象の工作機械がないから、できるのは机上のシミュレーションまでだった。工場や機械を置ける作業場を持たない外資の日本支社の限界があった。

 

親会社が買う機械にそのCNCを搭載しろという要求で、名古屋地区にある大手工作機械メーカが一台買ってくれた。買われてしまうと(というのも変な言い方だが)、日本語のマニュアルを一式提供しなければならない。改めてマニュアルを読んでみたが、四五十ページ読んでも、どこをどうすればいいのか見当もつかない。

 

あまりにも個性の強い製品で、十年以上工作機械メーカで禄を食んだものが、日米のCNCに関する知識をもってしても分からない。コンピュータ屋が制御対象である工作機械をろくに知らずに、机上のロジックで開発したとしか思えない。その上、技術資料もマニュアルもイタリア語から英語への直訳で、語彙もCNCといよりコンピュータそのもので何がなんだか分からない。

 

懇意にしていた外注の翻訳屋のレベルでは手には負えない。メカトロに精通した、多分東京でもその翻訳者ほどの人はいないと尊敬していた翻訳者に仕事を依頼した。翻訳を始める前に半日かけてアプリケーションエンジニアに製品の説明とデモをしてもらった。

 

数週間して、翻訳者がちょっと相談したいとのことで来社された。「五十ページくらいまで翻訳を進めたが、何を言っているのか想像もつかない。xxx(愚生)さん、これ翻訳できます?」と聞かれた。こっちもメカトロ関係ではちょっとした元プロの翻訳屋。聞かれて正直に答えた。「できません。yyy(翻訳者)さんならできるかと思ってお願いしたんですけど、無理ですか?」、「ちょっと分かり難いマニュアルでも四五十ページ翻訳してゆくと、その世界が見えてきてなんとかなるんですけど、このマニュアルは翻訳できません。今までやったところまでの費用はいりません。今回の仕事は辞退させてください。」

 

しょうがない、名古屋で主に工作機械関係のマニュアルの翻訳をしているところに頼むしかない。使いたくはなかったが、あの翻訳者なら何が書いてあるのかよく分からなくても、それなりに適当な日本語にやっつけられる。翻訳屋の世界には「英語使い」が多いが、そこらの英語使いとは違う。いい意味での英語使いと言ってもちょっと失礼になる実力のある翻訳者だった。工作機械に精通しているから、それなりの質の翻訳を上げてくる。期待通り、読めばなんとなく分かったような気にさせてくれる日本語訳がでてきた。

 

翻訳の外注先としてまともな翻訳者や翻訳会社に限定してきたが、“使える“「英語使い」もときには必要なことがあることを知った。

 

技術翻訳の世界で「英語使い」は、技術的な知識に欠けるだけでなく、多くは興味もない、それでも英語から日本語へでも、日本語から英語へでも字面で何でも翻訳できてしまうというのか、してしまう人たちを評するときに使われる。「英語使い」は、あいつは仕事ができない、いい加減な仕事しかできないヤツという蔑みになる。まっとうな翻訳者には、翻訳先の言語-日本語でも英語でも自分で何を言っているのか分からなくても翻訳“できる”人たちを翻訳者と呼ぶことに抵抗がある。ここで“技術”をとって技術に関係しない分野や領域に一般化したとしても、同じことが言えるだろう。

 

まっとうな(と自分では思っている)世界とその近くの世界にいた者として、巷の人たちが「英語使い」をどう思っているのか気になる。英語を解さない人たちには、その程度でも英語に堪能な人たちに見えるのか?「英語使い」はそれなりに評価される人たちになるのか?

 

外資にいると技術に限らず実務に疎く、日本語でも英語でも何もろくに分からずに、その都度その都度、文字通り適当に通訳して格好だけはつける術に長けたというか、それしかいないマネージャが幅を利かせているのに驚くことがある。

 

英語でも日本語でも何を言っているのか分からずに社長同士の会話を通訳して、会議室を出たとたんに、「zzzと言ってたけど、zzzって何を言ってたんだろう?」と尋ねられると、何と答えたものかと、こっちが思案に暮れる。まさか後になってzzzは何だったんですかと確認する訳にもゆかない。まして、それが顧客の社長だったら、。。。

 

問題が拗れてしまって電話会議では二進も三進もゆかなくなった。米国本社まで顧客の役員をお連れして、米国本社と日本支社の三者でどうか解決するか話し合った。話し合った結果を議事録としてきちんと“日本語”で書いてきたマネージャがいた。ご本人、ごちゃごちゃになってしまったのをオレが解決してきたと、鼻息も荒い。

 

もらった議事録、さらっと目を通す限りではフツーの日本語、ちゃんと書けているように見える。しかし、いくら読んでも、何に関して誰が何をするのか、その理由も手段も何も分からない。書いたマネージャに問い合わせたら「分かりっこないやろ」と激怒された。実に立派な半面教師だった。

 

その程度の「英語使い」の人材しか雇えない、人材を評価する能力しかない外資、日本で将来があるとも思えない。そんなところで、何をどうしたところで何がどうなる訳でもない。ただトラブルと反面教師のおかげで、要らぬことまで勉強させて頂いた。

 

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集