就職して五年目に日本にはいてもいなくてもいい人材としてニューヨークにある子会社に飛ばされた。住まい探しも面倒なので、ロスアンゼルス支店に転勤になった先輩が住んでいた下宿を居抜きで引き継いだ。
先輩駐在員の名前は「良二」。良二がRyojiになって、頭文字がRだということでRobertに、大家にはBob(ボブ)と呼ばれていた。George(ジョージ)があるんだからリョージの発音が難しいわけでもないだろうしと思うのだがフツーのアメリカ人は通じない。新しい下宿人の名前の頭文字がYだったため、適当なニックネームが思い浮かばない。前にいたのがBob、今度きたのはTomでいいやって軽い調子で、大家にはトムと呼ばれるようになった。言いやすい、聞きやすいニックネームで通じれば、分かればいいという世界。これもさまざまな人たちが緩やかに一つの文化に収束してゆく知恵なのだろう。
フルネームを言ったところで覚えようとしないというより聞こうとしない。たいした家系でもないが親から引き継いだ苗字、折角親が付けてくれた名前。できる限り本名で押通したがこっちではトム、あっちではフランク。。。おいおいと思いながらも、そんなことで突っ張ってもしょうがない。なんと呼ばれようが自分は自分と自分に言い聞かせるしかない。
あれからニ十余年、あと半年もすれば上海オリンピックというときに上海で開かれた米国系コングロマリットのアジア地域のミーティングに出かけた。米国本社から社長以下主要マネージャ、インドまでのアジア各地の支社の主なマネージャが顔を揃えていた。オリンピックムードで街が盛り上がっているところに好調な売上を続けている中国支社の鼻息は荒い。ミーティング前夜の夕食会でホスト役の中国支社長と彼の海外向けスタッフが各国から集まってきた人たちに笑顔を振りまいていた。この類のミーティングは開催場所やミーティングの主旨が多少違っても年に何回か開かれる。特別なものでもなんでもないと思うのだが、消費文化が急に花開いた上海の若い女性社員には放ってはおけないものなのだろう。この晴れの日?のために競って新調したのではないかとすら思える衣装で存在を主張していた。
広い会場で偶然その場所に居合わせた人に社交辞令の挨拶ととりとめのない話をしながら、メールや電話で頻繁にやり取りしてきた上海の社員を探していた。そこに探している社員の英語名(Scarlet)を何度か呼ぶ声が聞こえてきた。呼んでいる人が向いている方をみたら、年の頃は三十中頃に見える、真っ赤なドレスで着飾ったScarletがいた。呼んでいたのは支社長のOscarだった。二人一緒ならちょうどいい。二人とは顔をつないでおく必要がある。OscarがScarletを呼んだ用事が済んだ時を見計らって自己紹介に続いて日本の状態を軽く伝えたら、待ってましたとばかりに会う外国人みんなにしている中国の自慢話を聞かされた。中国人二人と日本人のやり取りなので、三者の共通語である英語での話になる。話の輪の中に中国語を解さない人がいて、その人を話の輪のなかに入れておく必要があれば、共通語である英語で話すしかない。英語での意思疎通が負担になるようでは情報交換の場に入れない。
ここでちょっと情景を思い浮かべて頂きたい。その場所からしてどう見ても典型的な中国人にしか見えない人たちが本名を語らずに英語の名前で呼び合っている。Scarletと呼び、Yes、Oscarと応える。衣装のせいもあってどこかの高校の文化祭で見る三文英語劇のように見える。英語の不得手な従業員もいるのだろう。あちこちで外国人から距離をおいて小集団で中国人同士は中国語で話をしている。そこからは英語の名前が聞こえてこない。当たりまえだろう。ところが、海外と頻繁にやり取りをする立場にいる人たちは、確認はしていないが、全員が積極的にと見える態度で日常的に英語名を語っている。
親が一所懸命、子供の将来まで考えてつけてくれた名前をなぜ使おうとしないのか?どこか音が似ているのか、意味が似ているのは知らないが、自分を表している名前を使わずに、嬉々として英語名を使う。本名が外国人にとっては発音しにくかったり覚えにくかったりという理由もあるだろう。しかし、発音しにくいとか覚えにくいとかという便宜的な理由から外国人の母国語での適当な名前を使うのは、教条的な言い方になるかもしれないが、言語における帝国主義ではないのか。
彼らとは仕事の関係での表面的な付き合いしかないので、断定は控えなければならない。そうは思うのだが知り得た彼らの言動からは自らの誇るべき中華思想を蔑ろにするちゃちで卑俗なエリート意識を感じる。“欧米系の外資で英語で仕事をしている。そうじゃない人たちより社会的ステータスも上だし、待遇もいいし、。。。”とでも思って、まるで人目に付くところにロゴのついたブランド品を見せびらかすのと似たような感じで周囲にそれを気づいてもらうためにお互いに英語名で呼び合っているのではないかとすら思えてくる。
目先の便益を優先するあまり、己の存在の証である名前まで相手に合わせて使い分ける生き方を求めてするところに本来の良識はあり得ない。そんな卑近な生き方をよしとするのであれば、国家だの、愛国心だのを論じる資格もない。
日本にも戦後から今日に至るまで、というより何時の時代にもどこにも、似たような精神構造の人たちがいる。それによって異文化の同化もあるし社会も変わってゆく。悪いことばかりではないと思うが、己の存在、その存在を規定している文化まで考えると多少なりとも引っかかりを感じる。そんな引っかかり、考えることもないのがフツーなのか。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集