前回の拙稿「裁判員裁判と死刑」における私の主張、すなわち、「死刑制度に反対であるとか、人を裁きたくないなどの理由で、どうしても裁判員になりたくない人は……合法・非合法のあらゆる手段を使って、裁判員に選ばれるのを回避すればいい」という意見については、様々な批判・異論・疑問もあるだろうと思われる。そのうち、ありうべき誤解を解いておくため、少しく私の考えを敷衍したい。
まず、死刑制度に反対の人がみな裁判員になることを回避したら、裁判員裁判の裁判員は死刑存置論者のみで構成されてしまうことになり、これは「市民の多様な意見を裁判に反映させる」という裁判員制度の趣旨に反するだけでなく、特定の意見を予め裁判員裁判から排除することで、公正さの欠けた裁判員構成になってしまう、という批判が考えられる。特に死刑廃止論の立場から、そのような法廷は予め死刑廃止論者を排除した不公正な裁判である、との批判が出されるかもしれない。(余談ながら、死刑廃止論者にとっては、自らが死刑判決に加担するのは避けたいところだろうが、そうすると間接的に死刑判決の増加に加担することになってしまうというジレンマに立たされるだろう。)しかしこれは誤解である。私は、死刑制度に反対の人はみな「裁判員に選ばれるのを回避」すべきだとは思っていないし、そういう主張もしていない。死刑制度に反対の人が裁判員候補に選ばれた場合に採るべき道は大きく分けて二つある。一つは裁判員に選ばれることを回避せず、裁判員に選ばれた場合には評議の場において被告人の死刑に反対する意見を述べるという道である。もちろん、評決は裁判官・裁判員の多数決で決まるので、自らが裁判員を務めた裁判で死刑判決が出される恐れを覚悟しなくてはならない。匿名の裁判員裁判(裁判員は匿名であるが、それ自体、裁判の公開を定めた憲法37条、82条に違反しないか疑義がある)で死刑判決が出た場合、死刑に反対した裁判員も「死刑判決」という結果に対する「連帯責任」を負わされ、なおかつ裁判員法の定める「評議の秘密」によって一切の弁明を封じられることになる。もうひとつが裁判員に選ばれることを極力回避するという道であり、「どうしても裁判員になりたくない人」に前回私が勧めた方法である。死刑に反対したいのであれば、前者の道こそ正道である、という議論もありえよう。実際、私自身、死刑廃止論者ではあるが、仮に裁判員候補に選ばれた場合は、前者の道を選ぶつもりである。しかしながら、死刑廃止論者であれば、前者の道を選ぶべきだ、ということにはならない。現在の裁判員制度のように憲法上も疑義がある問題だらけの制度に加担したくないという個人の「良心の自由」は尊重されるべきだからである。裁判員法は「良心の自由」に基づく辞退を認めていないが、「良心の自由」は「国の最高法規」である憲法上の権利であり、憲法の「条規に反する法律……の全部又は一部は、その効力を有しない」(憲法98条)はずである。しかし、私が「非合法の手段」を使ってでも回避すればいい、と述べたことを問題視する向きもあるかもしれない。もっとも、私が例示したような方法は、合法すれすれのものであって、明白に違法と言えるかどうかは疑問である。ただし、私が勧めたような、裁判員を務めた後で「評議の秘密」を公表することは明白な裁判員法違反であるから、処罰を受ける覚悟が必要であるが、そのような処罰の違憲性を訴えて裁判で争うことは可能だろう。
最後に触れた問題はさておき、自らの良心に基づいて裁判員に選ばれるのを回避するという消極的な抵抗方法は、「良心的兵役拒否」になぞらえて「良心的裁判員拒否」と呼ぶことができるかもしれない。ただし、「良心的兵役拒否」という場合、制度化(合法化)されたそれと、そうでないものとが存在していることに注意しなければならないが、ここで問題としているのは非制度的なそれである。今日、欧米諸国の多くでは良心的兵役拒否が制度化されており、そこでは一定の「良心」に基づく兵役拒否が代替業務に就くことを条件として認められている。もっとも、兵役拒否の根拠となり得る「良心」の内容については、国や制度によって異なるため、合法的な良心的兵役拒否制度を持つ国においても、依然として非合法の(非制度的)良心的兵役拒否は存在しうる。日本の裁判員制度は「良心に基づく拒否(辞退)」を認めていないので、「良心的裁判員拒否」とはもちろん非制度的なものである。もっとも、何らかの一貫した思想・信条ではなく、ただ単に裁判員になるのが嫌でそれを忌避するのは、徴兵忌避になぞらえて裁判員忌避と呼ぶこともできよう。ジョン・ロールズは、良心的兵役拒否を、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの行った納税拒否や、エホバの証人による国旗敬礼の拒否などとともに、「直接的な法的指示や行政的命令に従わないこと」を意味する「良心的拒否(conscientious refusal)」という包括的概念に含めて論じているので、「良心的裁判員拒否」をその一種として位置づけることも可能だろう。一方、ロールズは、隠れて行われた逃亡奴隷法に対する違反のようなものを「良心的忌避(conscientious evasion)」と呼んで「良心的拒否」とは区別している。ロールズは他方で、良心的拒否・良心的忌避が、共同体の確信を引き合いに出さず、その意味でパブリック・フォーラムにおける行為ではなく、一般的に政治的原理に基づくものではない、等の点において狭い意味の市民的不服従とは区別しているが、実際の状況においては、両者を厳密に区別できないということも認めている。ロールズはまた、伝統的な広い意味の市民的不服従を「少なくとも秘密裏にではなく、力の使用を伴うことなく、良心に基づく理由によって法に服従しないこと」と述べているので、それは(良心的忌避を除く)良心的拒否の定義でもあるように思われる。つまり、良心的拒否は狭義の市民的不服従の上位概念であって、良心的拒否のうち、政治的原理に基づき、多数派の正義感に訴えるため公然と行われるものを(狭義の)市民的不服従と呼んでいるように思われる。
そうすると、私が前回最後に提起したような、裁判員裁判の問題点を明らかにするために、あえて裁判員法の規定に違反して(処罰を覚悟のうえで)「評議の秘密」を公開するという行為は、ロールズの枠組を使えば、公然性や政治的理由という点で、良心的拒否の中でも狭義の市民的不服従に該当すると言えるだろう。
<参考文献>
John Rawls, A Theory of Justice, revised edition. The Belknap Press of Harvard U.P. 1999