裁判員制度が始まる前から危惧されていたこの制度の問題点が次々に露呈してきている。裁判員に選ばれた一般市民にとってこの制度が持つ問題点の一端については別稿(「裁判員裁判と死刑」「裁判員制度と良心的拒否」)で論じたが、それ以上にこの制度が持つ最大の問題点は、拙速な裁判によって、被告人・弁護側の防御権・弁護権が厳しく制限され、被告人にとって有利な事情が斟酌されず、結果として被告人が「公平な裁判を受ける権利」(憲法37条)を侵害される恐れが極めて強いことである。そしてそうした恐れが現実化しつつある。
昨日(11月25日)、仙台地裁が下した宮城県石巻市男女3人殺傷事件では、殺害された被害者が2人であり、被告人が少年である事件において、死刑判決が下された。殺された被害者が2名の場合、これまでの判例では死刑と無期懲役に分かれることが多く、裁判員裁判でも、耳かき店員ら殺害事件(東京地裁)では無期懲役、麻雀店経営者ら殺害事件(横浜地裁)では死刑と判決が分かれた。後者の事件は殺害方法がとりわけ残虐であったことが大きく報道されたケースであったが、裁判長が被告人に対して控訴を勧めるという異例の意見を述べたことは、この事件においても、裁判員の中に死刑判決に反対や抵抗を示した人がいたことを示唆していよう。
しかし今回のケースは少年事件であり、少年法が適用される。日本国憲法は、13条(個人の尊重・幸福追求権)、25条(生存権)、26条(教育を受ける権利)などを通じて、すべての子供の成長発達権を保障しており、それを受けて制定(改正)された1948年少年法は、第1条で「少年の健全な育成」を法の目的として掲げている。少年法は2000年に事実認定手続きの適正化や被害者への配慮の充実などを目的として大改正されたが、それでも少年法の基本理念が保護主義であるという点については専門家の間で異論がなく、その実質的内容としては、「非行を犯した少年が人格の尊厳を認められながら、非行性の解消について援助を受ける権利を有すること」などと説かれている。この権利に対応して、国は、非行を行った少年に対し、その少年が非行を克服して成長発達を遂げるのに必要なあらゆる援助を与える義務を負っているのである。また、発達途上にある少年は、未成熟であるがゆえに可塑性(更生可能性)も大きく、生育環境に起因する非行性向に対しては、自ら生育環境を選べなかった以上、その責任も軽減されると考えられるうえ、「少年の健全育成」という少年法の理念に基づき、その生活環境を改善するよう援助することによって、非行性向を克服して成長発達を遂げることも可能だと想定されているのである。少年法はまた、犯行時18歳未満だった者に対する死刑を禁じている。
さて、今回の判決は、「被告の罪責は誠に重大で、有利な事情を最大限考慮しても、極刑をもって臨むほかない」と結論づけたわけだが、どのように「有利な事情を最大限考慮」したのだろうか。判決は被告の更生可能性について以下のように指摘する。「被告は09年に保護観察処分を受けたにもかかわらず犯行に及んでおり、犯罪性向には根深いものがある」。「被告には他人の痛みや苦しみに対する共感が全く欠けており、その異常性やゆがんだ人間性は顕著だ」。「一応の反省はしている」が、「被告が述べる反省の言葉は表面的であり」、「犯行の重大性を十分に認識しているとは到底いえず、反省には深みがないといわざるを得ない」などと断罪したうえで「被告の更生可能性は著しく低いと評価せざるを得ない」と結論づけたのである。
私は学生時代、刑事政策のゼミで少年院を訪問したことがあるが、そこの院長が、「ここに入っている子どもたちは皆、家庭環境に問題を抱えている子ばかりなのです」と語っていたのが印象に残っている。一般的に、暴力的な家庭で育った子供が自らも暴力をふるうようになるケースは多いと思われるが、自らの家庭環境を選べる子どもはいないのである。この事件の被告人は5歳のときに両親が離婚して母親に引き取られたが、母親には機嫌が悪いと叩かれ、拳で何度も顔を殴られたこともあるという。その後、再婚相手とも別れた母親は新たな交際相手に暴力を振るわれ、アルコール依存となって入退院を繰り返すうち、被告人は小5のときに祖母に預けられたが、自ら暴力を振るうようになったのは高校に入学した2007年頃からで、「暴力を振るうとスッキリする」と友人に言われたのがきっかけだったという。つまりそれ以前は暴力を振るっていなかったわけだが、判決では「犯罪性向には根深いものがある」と決め付けられ、「他人の痛みや苦しみに対する共感が全く欠けており、その異常性やゆがんだ人間性は顕著だ」とまで断罪されている。しかし、こうした不幸な成育歴についても、5日間の公判の中で、30分程度の読み上げに終わったという。少年事件においては、どのような家庭環境で育ったかということを理解することはとりわけ重要なはずだが、今回の裁判では、家庭裁判所調査官が社会学的・心理学的な視点から成育歴を調査した社会記録のごく一部分が、法廷で取り調べられただけである。
判決は、被告が犯行当時18歳7カ月だったことについて、「死刑を回避すべき決定的な事情とまではいえず、ことさらに重視することはできない」と述べてほとんど重視せず、「不幸な家庭環境など生い立ちが犯行の遠因であるとしても、犯行の残虐さや結果の重大性に照らせば、量刑上考慮することは相当ではない」と切って捨てたのである。これが「有利な事情を最大限考慮」したうえでの判決だというのである。判決には「被告人の生い立ちの苦しみに対する共感が全く欠けており」、「少年法の理念を十分に認識しているとは到底いえず、判決には深みがないといわざるを得ない」のではなかろうか。驚いたことに、判決後、記者会見に臨んだ裁判員の一人は、「永山基準の中で最も重視した要素は何か」という質問に対して、「基準より、被告や被害者の思いを重視した。自分がそれぞれの立場になったらどう思うか、その思いを重視した」と答え、「被告が少年だったことは、どう影響したか」という問いに対しては、「私個人は14歳だろうが、15歳だろうが、人の命を奪ったという重い罪には、大人と同じ刑で判断すべきだと思い、そう心がけた」と答えている。法律や判例を無視して、自分の個人的な感情・思いだけで評議に加わったというのである。これは法に基づく裁判という法治主義の大原則を踏みにじるもので、憲法37条に違反することは明白である。もちろんこれは、この裁判員や今回の裁判員裁判だけの問題なのではない。裁判員制度そのものから不可避的に生じる問題なのである。