*これは早稲田大学教授・高橋順一氏の3月10日の最終講義を編集したものです。そのために準備された論文『転回点―「三・一一以後」の世界と<市民社会の弁証法>の行方 ―』が下敷きになっています。今回のこの論文はもともと1983年に「インパクション」に連載したものを後に『越境する思考』(1986年 青弓社)に収録したものです。今回『転回点』論文に組み込むにあたってかなり大幅に書き直しています。著者のご了承のうえでここに掲載致します。(編集部)
講義の総タイトルは「アドルノ・マルクス・ヴァーグナー -<近代(モデルネ)>の根源史」です
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)
ルカーチやコルシュから始まりホルクハイマー、アドルノらフランクフルト学派のメンバーやアントニオ・グラムシへと至る「西欧マルクス主義」(ペリー・アンダーソン)(1)の思想的系譜においてその中心的な課題となったのは、ソ連などの既存社会主義国家や各国共産党において公認教理とされてきた正統派マルクス主義(「マルクス=レーニン主義」)が絶対視していた経済的下部構造の絶対的優位、「反映論=模写説」的世界観、前衛党の権威の至上化などに対して、哲学や文学・芸術を含む文化的上部構造の自律性や固有性の尊重、マルクス主義の形成過程における哲学的契機の重視、リベラルな市民的自由の伝統の擁護などの立場を明確なかたちで対置していくことだった。そして少数の例外はあるにしてもそうした西欧マルクス主義の課題およびその探求にとって共通の前提となったのがマルクス主義におけるヘーゲル思想の影響や意味の大きさの再認識・再評価である。西欧マルクス主義はある意味でヘーゲリアン・マルクス主義と呼ぶことも出来るだろう。この点ではアドルノも例外ではない。ここでアドルノのヘーゲル観がどのようなものであったかを見ておきたいと思う。
(1)『三つのヘーゲル研究』
アドルノのヘーゲル観を知る上でもっとも重要なテクストは、すでに本論でも引用したことのある『三つのヘーゲル研究』である。それに加えて『否定弁証法』をヘーゲル論として読むことも出来るだろう。ここでは主に『三つのヘーゲル研究』の第一論文である「〔ヘーゲル思想の〕諸側面(アスペクテ)」(2)にそくしながらアドルノのヘーゲル観を追っていきたいと思う。
この論文でアドルノは、ヘーゲルのうちに「絶対的なイデアリストは同様にまた偉大なレアリストである」(3)という事情が存在することをまず見てとろうとする。それは逆にいえば、ヘーゲルの「市民社会の矛盾の宥和不能性」(4)に対するリアルな洞察が彼の「思弁(シュペクラツォーン)」と無縁ではありえないということを意味している。リアルな現実とイデアールな思弁の結びつきこそヘーゲル思想のもっとも枢要な契機であるということである。
アドルノは、『若きヘーゲル』におけるルカーチ(5)のように、ヘーゲルのなかに「早すぎたマルクス」を見ようとするわけではない。むしろヘーゲルの思惟そのものに徹底的に内在することを通してそこに潜む思考のダイナミズムを解き放ち、それによってヘーゲルの思想の核にある真の衝迫力を取り出そうとするのである。
それを明らかにするためにアドルノはまず、カント以降のドイツ観念論の歴史的パースペクティヴ、とくにフィヒテ、シェリングに対するヘーゲルの位置を確認しようとする。
「フィヒテによってプログラム化され、ヘーゲルによってはじめて展開された『ア・プ
リオリなものはア・ポステリオリでもある』という教説は、決して向う見ずな美辞麗句
などではなく、ヘーゲルの核心をなしているのだ」(6)。
この「ア・プリオリなものはア・ポステリオリでもある」という提題(テーゼ)に内包されているのは、歴史化された世界の被媒介性の問題といってよいだろう。
カントにおける、超越論的主観性に対して現象する世界が対象的な世界それ自体にはたして妥当するかどうかを証明することは不可能であるというアポリア(7)は、たんに主観的理性の限界というだけでなく、カントにおける「私は出来る(Ich kann)」という主観の自律性が「理性の狡智(List der Vernunft)」によって「歴史の屠殺台」上でもてあそばれた結果、自律性とはまったく正反対の他律性へと転化してしまうというパラドックスへと到り着くのである。このパラドックスこそがデカルトから始まる近世観念論哲学の最大のアポリアに他ならなかった(8)。そこでは同時に、カントの主観的観念論にもっとも典型的に現われている主観と客観の二項対立的な分離という構図の致命的な限界をもさし示されている。カントの議論に従う限りは、主観が主観であることの窮極的根拠も、客観が客観であることの窮極的根拠も、さらには両者が原理的にどのように対応しているのかも、明らかにはされ得ないからである(Ⅴ章5の(3)参照)。
このことに最初に気づいたフィヒテは、こうしたカント哲学の限界をのり超えるために、同一性としての自我(主観)の措定と、それにとっての非同一性としての非我(客観)の措定とを相互に結びつけようとした。これが「事行(Tathandlung)」の論理である。このとき自我と非我のあいだに媒介関係が生じることはいうまでもない。言い換えるならば同一性と非同一性とのあいだに相互媒介関係が生まれるのである。この自-他の相互媒介がヘーゲルの思想的出発点ともなっていく。そしてこの被媒介性の契機を通してヘーゲルは同時に、歴史的世界の錯綜する現実へと足を踏み入れることにもなるのである。またそれは、若き日に詩人のヘルダーリンとともに思想的盟友だったシェリングの同一性哲学に対する批判の立脚点ともなっていく。
「むしろヘーゲルは、フィヒテおよびカントの認識論的なインパクトへ還ることによっ
て、シェリングの自然哲学が持っているドグマティズム的契機から自らの身を守ったの
である」(9)。
(2)初期ヘーゲルの模索
ところでこうしたヘーゲルの思想的位置の確定には若き日のヘーゲル自身の模索の過程が投影されている。一七七〇年にシュヴァーベン地方のシュトゥットガルトで生まれたヘーゲルは、テュービンゲン大学で神学と哲学を学んだ後、二〇代の後半をベルン、フランクフルトで過ごすが、その時期におけるヘーゲルの関心は主として神学に向けられていた。その思索の成果は『初期神学論集』(10)にまとめられているが、そこでは実定性(Positivität)へと固着してしまっているキリスト教の現状への批判が「愛」の原理に基づいて行われようとしていた。しかし一八〇一年にイェーナ大学で私講師のポストを得ると、ヘーゲルの関心は市民社会の社会哲学的考察へと移っていく。いわゆるイェーナ時代のヘーゲルの思想的模索が始まるのである(11)。
このベルン・フランクフルト時代からイェーナ時代にかけてのヘーゲルの思想的模索の過程は、「愛」による生の根源的な同一性の直観を通じて、キリスト教的なアガペーをも包含する古代ギリシアのポリス的世界の再生を目ざそうとする立場から、生の現実をそうした根源的同一性からの分裂ないしは疎外としてまず捉えた上で、そうした分裂=疎外をどう克服するのかを模索しようとする立場への移行過程として捉えることが出来るだろう。言い換えればヘーゲルの思惟の対象が、根源的同一性を直観の高みにおいて無媒介的かつ抽象的にのみ捉えようとする段階から、根源的同一性が分裂状態へと陥り、その結果同一性から非同一的なものが疎外されて同一性と非同一性のあいだで相互媒介が生じる段階へと推移していったということである。つまりヘーゲルは神学的な抽象世界から、分裂と疎外にさらされる具体的な現実世界のただ中へと踏み込んでいったのである。この現実世界が同時に歴史的世界としての市民社会をも含意していることはいうまでもない。このことによって「市民社会の矛盾の宥和不能性」の洞察が、イェーナ時代のヘーゲルの前に思考すべき大きなテーマとして新たに現われてくることになった。この推移の過程がすでに言及したようにシェリングの同一性哲学としての自然哲学との訣別を生んだことはいうまでもない
(3)作品のもとにある精神
ではヘーゲルの洞察はどのように行われていったのか。アドルノは次のようにいってい
る。
「ヘーゲルが物質的なものを言語へと結びつけたとき、根源的な、自己を分割しつつ再
統合する主観と客観の同一性についての思考は、作品のもとにある『精神』のうちにあ
るのである」(12)。
「作品(das Werk)のもとにある『精神(der Geist)』」といういい方はかつて『イェーナ実在哲学』(13)とよびならわされてきたイェーナ期の「精神哲学」草稿に基づく表現である。そこでヘーゲルはこういっている。
「自我の作品、自我は自らの行為を自我の作品において知る。すなわち自らを、すでに
自らの内部において存在であった自我として知るのである」(14)。
ここではっきり看て取れるように、イェーナ期のヘーゲルは「自我」を、自らの外部にある「作品」を通して、つまり自らの外側に出ること ―― ヘーゲルの用語でいえば「対象
化(Vergegenständlichung)」ないしは「外化(Entäußerung)」―― によって自分とは異なるもの、別なものになったもうひとりの自己を通して捉えようとしている。言い換えれば、「自我」が無媒介な同一性としてではなく、対象化=外化によって疎外された非同一的なものとの媒介を通して捉えられているのである。そして極めて重要かつ注目すべきなのは、
「自我」の根底をなすとともに「主観と客観の同一性」の基底でもあるヘーゲルの思惟の本質ともいうべき「精神」が、「自己を分割しつつ再統合する」過程を通して捉えられていることである。「精神」もまた対象化=外化という分裂と疎外の論理を通してしか把握されえないのである。
アドルノがヘーゲルのうちに、絶対的イデアリストであると同時に偉大なレアリストで
もあるという両義性を見ようとする根拠となっているのは、まさにヘーゲルが「市民社
会の矛盾の宥和不能性」を洞察しているからに他ならないからなのだが、その洞察はヘ
ーゲルが分裂と疎外にそくして現実を思考しようとする態度から生じているといってよ いだろう。ヘーゲルは矛盾の持つダイナミズムを決して回避しようとしない思想家だっ た。そしてそのことは同時に、ヘーゲルの哲学的方法である弁証法の持つ「否定的労働(die negatieve Arbeit)」としてのアクチュアリティの根拠ともなっているのである。
「弁証法は、世界を固定化された主観の極へと還元することの不可能性を説き、方法的
には主観的契機と客観的契機の持つ否定(Negation)と産出(Produktion)の入り組んだ
からみ合いを追求するにもかかわらず、ヘーゲル哲学は、精神の哲学として観念論(イデアリスムス)を堅
持してきた。この、観念論に内在する主観と客観の同一性 ―― この同一性はその単純な
形式に即せばいつの場合にも主観の優位に帰着するのだが ―― の教説だけが、観念論に
全体的なるものの力を付与する。そしてこの力は否定的労働を、個々の概念の流動化を、
そして直接的なものの反省の後にふたたび反省の止揚を行うのである」(15)。
このややこみいったいい方によってアドルノは、ヘーゲルの観念論における全体性の根拠としての「主観と客観の同一性」が、決して無媒介かつスタティックに固定化された「全体性」などではなく、同一性に対して非同一的に交差する「直接的なもの」の契機や「個々の概念の流動化」の契機を組み入れつつ、「直接的なものの反省」と「反省の止揚」を促そうとする「否定的労働」、つまり否定と産出(=肯定)の入り組んだからみ合いとしての「弁証法」のダイナミックな「力(Kraft)」の産物であることを指摘しているのだからこそアドルノによれば、ヘーゲルの観念論はその「非同一性の契機」(16)においてカントやフィヒテを凌駕するのである。
ではこのような「非同一性の契機」を通して捉えられるヘーゲルの「精神」とは何か。ここにアドルノによるヘーゲル哲学の認識の核心があるといっても過言ではないだろう。ヘーゲルは「精神哲学」草稿のなかで次のようにいっている。
「かくして精神は表象的構想力一般(vorstellende Einbildungskraft überhaupt)なの
のである。精神は自己と対立する自己である。精神自身はまずもって直観することであ
る。この自身〔自己〕を精神は自分自身に対抗させる。対象ではなく自己を対抗させる
のである。精神の直観が精神にとっての対象であり、精神のものとしての知覚の内容な
のである」(17)。
「精神」はその端緒において自己と自己の「対立」を媒介する。すなわち無媒介な自己
の同一性はそれ自体無にすぎず、自己の分裂・分割を通して自己の外側に非同一的なかたちで対象としての自己を立てることによってはじめて自己は真に実在的な存在となるのである。それは、まだ「直観」における抽象的な同一性にすぎない自己が、自らの外側に自らの「像(das Bild)」を立てるということでもある。「精神は直観において像である」(18)。この自己の像を「表象的構想力」を通して表象する=前に立てる(フォアシュテレン)(vorstellen)ことによって「精神」は実在的なものとなり、そのことによってヘーゲルのいう「即かつ対自的=向自的(an und für sich)」な、客体化された精神のあり方が可能になるのである。主観と客観の媒介された同一性=全体性としての「同一性と非同一性の同一性」の境位が、真の客観化された精神である「絶対精神」へと到達するのにはまだ幾多の段階が必要だが、少なくともその可能性の端緒だけはここで確認されているのである。精神は今や静態的な同一性の境位から対立に媒介される動態的な同一性の境位へと移行していく。
(4)『人倫の体系』
ここでアドルノが「精神」を、ヘーゲルの『エンチュクロペディ』のなかの「精神哲学」にある表現をふまえ、「本質的な意味で能動的・産出的(wesentlich activ, producierend)」(19)であるといっていることに注目しよう。このことについてアドルノは別な個所で、いくらか異なるコンテクストにそくしながらではあるが次のようにいっている。
「それゆえ真理は ―― ヘーゲルにあってそれは体系であるが ―― 、こうした根本律や
根本原理としては語られえず、相互に分離しつつ、矛盾によって産出的であるようなあ
らゆる諸命題の力動的な全体性(die dynamische Totalität)であるということが、ヘー
ゲル哲学の内容となるのである」(20)。
「精神」が「能動的・産出的」でありうるのは、その基底に矛盾の宥和不能性が存在するからである。矛盾、あるいはそれを生み出す分割・分裂・媒介、さらには疎外の動的な過程こそが精神の能動性・産出性の源泉なのである。それが「真理」の「力動的な全体性」としてここでは捉えられている。ではこうしたアドルノによるヘーゲルの「精神」の認識の核にあるものは何だろうか。
先ほど引いた「精神哲学」にやや先立って書かれた『人倫の体系』はヘーゲル哲学の展開にとってたいへん重要な意味を持つ著作だが、そこでヘーゲルは次のようにいっている。
「最初のポテンツ〔展相〕は、直観としての自然的人倫である。それは直観の持つ完全
な無区別性(Differenzlosigkeit)、あるいは直観の下への概念の包摂、つまり本源的な
自然である。しかし人倫的なものはその本質に従って即かつ対自的に(an und für sich)
に見るならば、自己への区別=差異(Differenz)の取り戻し、すなわち再構成
(Rekonstruktion)である。同一性は区別=差異から生じるのであり、その本質上否定
的なものである」(21)。
「無区別性」としての「自然的人倫」は、神学期において生の根源的同一性として把握されていたものと同じ内容であると考えてよいだろう。それはいわばア・プリオリな「永遠の今」としての同一性である。この同一性に歴史的に対応するのは、家族や氏族などの集合単位に基づく自然的共同体である。その一方、「人倫的なもの」は「自己への区別=差異の取り戻し」であり、それによって「再構成」されたものである。つまり「人倫的なもの」は、差異=非同一性を通じて再構成された被媒介的な関係性なのである。この「人倫的なもの」のあり方が指し示しているのは、自然的共同体の無媒介な同一性が「区別=差異」によって解体された後に出現する状況であり、ヘーゲルの認識の焦点はこの状況に向けられているのである。
ヘーゲルの認識によれば、自然的な共同体が区別=差異によって解体された後、個人という範疇が析出される。そしてこの個人という範疇を基礎にするかたちで、個人と個人の関係としての「人倫(Sittlichkeit)」が共同性のあり方として再構成されるのである。この区別=差異と再構成の過程としての人倫的なものの形成過程は、自然的共同体の紐帯から離脱した個人どうしの関係の集合体としての「社会(society/Gesellschaft)」という共同性の単位の起源である。人倫は、人類史における社会的なものの起源を指し示す概念なのである。ヘーゲルはまさに人倫という概念を通じて社会的なものの起源を問おうとしているのである。そしてそれについてヘーゲルはさらに次のようにいっている。
「分離〔差異の結果〕の感情が欲求(Bedürfnis)であり、分離の止揚の感情が享受
(Genuß)である」(22)。
この「欲求」と「享受」の過程は、表面的には生命体の代謝過程をモデルにしている。すなわち生命の存立条件である自然の根源的同一性からの分裂と代謝によるその分裂の解消、言い換えるならば自然からの疎外とその解消という生命の類的本質というべき過程が欲求と享受の過程のモデルになっているのである。だがヘーゲルの思惟にはそうした生命論の次元を超える射程がはらまれていることを見落としてはならない。そこで問われているのは、生命論に重ねあわされるかたちで、というよりも生命論に仮託されるかたちで展開されているヘーゲルの社会哲学的思惟の内容である。ここでは、欲求と享受の過程がヘーゲルによって社会形成の根源的な契機として徹底的に読み換えられていくのである。このヘーゲルの社会哲学的思惟によってはじめて近代市民社会の現実が哲学的思考の対象となったのだった。さらにヘーゲルの叙述をたどってみよう。
「α)絶対的に同一なもの、意識なきものの止揚、分離と感情あるいは欲求としての分
離。β)否定的なものとしての差異であるこの分離に対抗する〔もう一つの〕差異、す
なわち分離の否定(欄外書き込み:欲望、客体のイデアールな規定)。かくしてそれは
主観的なものと客観的なものの否定、つまり欲求の対象が外にあるような経験的・客観
的直観の否定であるか、ないしは努めと労働である。γ)対象であることを否定[される]
存在、ないしははじめの二つの契機〔主観的なものと客観的なもの〕の同一性。意識的
な感情、あるいは差異から生まれた感情である享受」(23)。
ここでいわれているのは、「分離」=「差異」に基づいて生まれる、その「分離」と「差異」を解消(=「享受」)したいという「欲求」と、実際に「分離の否定」というか
たちでその解消を遂行するもうひとつの「差異」としての「努めと労働」の関係である。
ここで欲求と享受の過程にはじめて労働という契機が差し挟まれるのである。この労働の契機によって欲求と享受の過程は生命論の即自的な次元を離れて、社会哲学的思惟の次元に定位されることになる。具体的には労働の契機が、根源的同一性の分離=差異を与件としつつ、人倫的なものとして再構成された同一性(同一性と非同一性の同一性)を形づくる媒体とされているのである。ともあれ私たちは、おそらく労働が哲学的思考の対象となったはじめてのケースであるここでのヘーゲルの考察に目を向けていかねばならない。
(5)「労働」の論理
欲求と享受の過程はそれ自体としては直接的・無媒介的である。それはたとえばアメーバのような単細胞生物の捕食活動にも見られる過程である。しかし労働は、この欲求と享受の直截的・無媒介的な過程を断ち切ってそこに差異を設定する。つまり労働によって、欲求を充足させる享受の繰り延べ・延期、言い換えれば欲求と享受のあいだの隔たりが生じるのである。そしてヘーゲルはこの、欲求(分離=差異)-労働(最初の分離=差異の否定としてのもうひとつの差異)-享受(以上の分離=差異の全プロセスの「否定の否定」)の過程全体のポテンツ(力能)を「実践的ポテンツ」(24)と呼んでいる。この「実践的ポテンツ」は、精神における能動的・産出的性格と同じ内容を含んでいる。両者とも、無媒介な同一性に分裂・差異を通してもたらされる矛盾を源泉としているからである。ここでヘーゲルにおける労働の把握と精神の把握の本質的な意味での共通性が浮かび上がってくる。とはいえそこにはさらに掘り下げられなければならない問題が存在する。いうまでもないが、労働に潜む享受の繰り延べ・延期という契機の問題である。なぜヘーゲルはこのようなかたちで労働の意味を認識しようとしたのか。
問題なのは、労働が欲求と享受のあいだに差し挟まれ、それによって享受の繰り延べ・延期という事態が生じたとき、延期された享受がいかなるものとしてたち現われるのかということである。欲求に直接的なかたちで結びついている享受は、つねに一回一回の個別的な具体性によって規定される享受である。だが労働という分離の否定の契機の介入によって矛盾のもたらす能動性・産出性に享受がさらされるとき、この享受の直接的かつ個別的な具体性が否定されるのである。その結果享受には「普遍の抽象」という規定性が与えられることになる。ここで重要なのは、この「抽象」がヘーゲルによって「他の対象との置換可能性」として捉えられていることである。これによって繰り延べ・延期された享受には、直接的・個別的な具体性に代わる、媒介的・普遍的な性格が付与されるのである(25)。
ここでヘーゲルが享受に関して示している認識の背後には、明らかにアダム・スミス以来イギリス古典派経済学によって見出されてきた市民社会における分業-交通のネットワークの形成という歴史的状況が潜んでいる。延期された享受は市民社会の次元にそくしていえば、分業-交通網の拡大によってもたらされる生産と消費の分離として、あるいはその結果として生じる生産、消費の一般化 ―― それは、いわゆる地産地消関係としての共同体内のアウタルキー経済の消滅を意味する ―― として捉えることが出来るだろうし、それに照応するかたちで労働においても、その能動性・産出性の契機が、生産と消費のあいだに差し挟まれる分裂=分割と再統合の過程(同一性と非同一性の同一性)を通して自らの個別性を否定されつつ、置換可能な一般性、つまり「普遍の抽象」の産出の契機へと変容されるのである。その結果労働は普遍性へと反照される一般労働のあり方へと変化する。この一般労働が後にマルクスによって「抽象的人間労働」と呼ばれた市民社会における「社会的労働(die soziale Arbeit)」を意味しているのはいうまでもない。そして労働の持つ分裂・矛盾に根ざした能動的・産出的性格、言い換えれば分裂・矛盾の現実態としての性格が精神の持つ性格と共通しているとするならば、精神もまた市民社会における一般労働=社会的労働と同様の性格を持つことになるはずである。ここにおいて精神のア・プリオリを前提とする観念論の構図が大きく転換せざるをえなくなる。精神の性格が労働という物質的・実践的範疇と結びつけられることによって、精神は観念論の構図のうちにあったときの先験性に代わって社会的性格を帯びることになるのである。アドルノがヘーゲルに見ようとした精神問題の核がここにある。そしてヘーゲルの精神が労働と結びつけられるとき、あの「絶対的なイデアリストにして偉大なレアリスト」というヘーゲルをめぐるテーゼの意味も明らかになるのである。このパラドクシカルなテーゼが意味するのは、精神と労働を共通なものとしてつなげる基底、媒介項である市民社会の矛盾の宥和不能性の洞察こそがヘーゲル思想の核心であるということである。「精神の持つ産出的契機が、個別的な、労働する個々人に代わって普遍的な主体へと反照されることで、労働は組織された社会的労働として定義される。社会的労働に固有な『合理性』、機能の秩序とは、一個の社会的関係なのである」(26)。
ここでアドルノのいう「社会的労働」が市民社会の一般労働=社会的労働を指していることはいうまでもない。そしてアドルノはそこに同時にヘーゲルの精神概念の本質をも見出そうとするのである。より正確にいえば、そうした社会的労働を生み出す一般化の力そのものが精神と呼ばれているということである。
(6)市民社会の哲学としてのヘーゲル哲学
ヘーゲルのベルン・フランクフルト時代における神学期の思考からイェーナ時代の社会
哲学的思惟への移行は、すでに見てきたように「愛」を通した直観によって把捉される根源的同一性の分裂=分割と矛盾の発生の認識、それが促す市民社会という歴史的世界への下降、そしてそこにおける自然的人倫に代わり社会を再構成する人倫的なものの探求というようにすすんできた。そこには市民社会の宥和不能な現実を直視しつつ、その止揚の方向を模索しようとするイェーナ期のヘーゲルの思想的格闘の様相が現われている。その端緒となったのが、分裂・矛盾を宿命づけられることによって獲得された精神の能動的・産出的性格を、個別的なものの普遍的なものへの反照としての一般性へとつなげることによって人倫的な全体性を再構成しようとする志向だったのだが、期せずしてそこには市民社会の労働の持つ一般性、つまり社会的労働としての性格が分業-交通のネットワークと連動しつつ市民社会の社会的・歴史的全体性を形成する過程が重ねあわされているのである。ここにおいてヘーゲルの精神概念の社会的性格がはっきりと浮かび上がってくる。アドルノはまさにここにヘーゲル思想のアクチュアリティの核心を見ようとしたといってよいだろう。
こうしたヘーゲルの視点の延長線上には、主体の自己同一性および自己保存と相関的に形成される市民社会の全体性は、じつは自己を外側に向かって対象化=外化する過程を含むがゆえに、自己に対して疎遠になった対象としての自己によって外側から主体が規定される全体性、言い換えれば物象化された全体性であるという認識が現われるはずである ―― 実際ヘーゲルの「弟子」であったマルクスはそのように認識するようになったのである ―― 。にもかかわらず市民社会を生きる主体の現実的な意識に即せば、この物象化された全体性のうちにある分裂・矛盾の契機が隠蔽されることによって、主体の同一性がア・プリオリな同一性であるかのごとく偽って表象されてしまうのである。市民社会の全体性は顛倒された全体性であり、主体の同一性は虚偽とならざるをえなくなる。市民社会のもっとも本質的なイデオロギー作用は、この虚偽の全体性と虚偽の同一性の産出による分裂・矛盾の契機の隠蔽にある。こうした隠蔽作用の結果として生まれるのが精神のア・プリオリに他ならない。
かくして精神=労働の矛盾に基づく能動的・産出的性格が「構成するもの」となり、社会はそれによって「構成されるもの」となる。全体性はこの構成するものと構成されるものの関係の総体を意味する。そしてそこには、いかなるイデオロギー作用によっても隠蔽しきれない非同一性の契機が残存し続けるのである。「しかしながら逆に社会はそれ自身においてたんなる定在(ダーザイン)でも事実性でもない。表面上はアンチテーゼ的な、ヘーゲルのいう意味での抽象的な思考にとってのみ、精神と社会の関係が、構成するものと構成されるもののあいだの超越論的論理に基づく関係になるはずである」(27)。
アドルノはこのような市民社会の全体性として現われる社会のあり方を「抗争的全体性(die antagonistische Totalität)と呼ぶ。「市民社会の矛盾の宥和不能性」の全体性における現われがこの「抗争的全体性」に他ならない。「市民社会は抗争的全体性である。市民社会は唯一自らの抗争性を通じてのみ自らを生へとつなぎとめうるのであり、その宥和は不可能である」(28)。市民社会が帯びている抗争的全体性、そしてそこに働いている物象化のメカニズムは、市民社会の存立構造の内部に、分裂・矛盾へと向かうポテンツとその隠蔽に向かうポテンツとのあいだの相互に斥けあう葛藤的な関係を生み出す。市民社会とはいわばふたつの斥力のぶつかりあう場であり、そうした斥力が重層化される場なのである。
正統派マルクス主義者はヘーゲルこそが市民社会の虚偽のイデオロギーを作った張本人であると指弾した。だがイェーナ期のヘーゲルは市民社会の「市民社会の矛盾の宥和不能性」をまず『人倫の体系』とイェーナ草稿において、さらには『精神現象学』の「自己意識」章で展開される「主と僕の弁証法」の論理において洞察しようとしたのであった。この市民社会の全体性における対立的な斥力どうしの対抗的・葛藤的な重層化を見ようとしない同一性の論理はすべて虚偽のイデオロギーといわなければならない。アドルノがヘーゲルに見ようとしたものの核心はまさにここにある。
(7)非同一的なものへ
アドルノの思考の中核をなしているのは、物象化が強いるあらゆる虚偽の全体性と同一性の形式および論理に対する仮借なき批判である。だからこそアドルノは「全体は真ならざるものである(Das Ganze ist das Unwahre)」といっているのである(29)。そしてそうした批判の武器となるのが非同一的なものの否定性の契機である。同一性の論理に基づいて全体性が真なるものとして定立される瞬間、アドルノの思考に潜む非同一的なものの契機がそこに介入し、否定性の永続運動(ペルペティーレ・モビーレ)としての「限定された否定(bestimmte Negation)」の行使を通じて定立された同一性を脱臼させ全体性を脱構築してしまうのである。思考の真理とは、かかる限定された否定の無限行使によって体現される「否定弁証法」のなかにしかない、というのがアドルノの立場である。アドルノの真理は同一性の形式のなかにではなく、非同一的なものの非真理のなかに見出されるのである。こうしたことをアドルノはまさしくヘーゲル思想の解読を通してつかんだといってよいだろう。次の文章はその証しとなる。
「ヘーゲル哲学がつきあたり、そして骨折ってまとめようとした対抗的なものの非同一
性とは真なるものではなく、真ならざるものであり、正当性に対して絶対的な敵対関係
にあるあの全体性〔抗争的全体性〕の持つ非同一性なのである」(30)。
さらに別なところでは次のようにもいっている。
「真理の即自性の側面の下でも、意識の能動性の側面の下に劣らず弁証法はプロセスな
のである。プロセスとはすなわち真理それ自身なのである」(31)。
プロセスのうちにある真理とは、弁証法的な否定の運動のうちにある真理であり、たえず分裂や矛盾にさらされている真理である。この真理は訴訟(=Prozess=プロセス=否定性が働く場)に向かって絶えず告発されており、したがって安定した同一性の尺度からいえばそれは「真ならざるもの」でしかありえない。じつは精神も主体もこうしたプロセスを決してまぬかれえないのである。なるほどヘーゲルは後に、彼の国家論や宗教論を通して「絶対精神」のもたらす宥和における対立や矛盾の消滅を語ろうとした。それが現実にはプロイセン国家をイデオロギー的に正当化する役割を果たしたと非難されもした。だがヘーゲルのなかには依然としてラディカルな批判的思考の可能性が潜在しているのである。そうしたヘーゲルのラディカルな批判的思考の要素の中心に位置するものとしてアドルノが見出したのが、すでに何度か触れた「限定された否定」という概念であった。この「限定された否定」という概念の持つ起爆力こそが、アドルノ自身に後年この概念を軸とするかたちで、彼の哲学的主著である『否定弁証法』を書かせることになる最大のきっかけとなっていくのである。ヘーゲルを俗流マルクス主義のように死せる犬としてではなく、現代においてなおアクチュアリティを失わない思想家としてあらためて読み抜くこと、それがアドルノのヘーゲル論の課題であったといってよいだろう。
(1)ペリー・アンダーソン『西欧マルクス主義』(中野実訳 新評論 1979)参照。ちなみに
「西欧マルクス主義」という言葉を最初に使ったのはフランスの哲学者メルロー=ポンティである。同「『西欧』マルクス主義」(『弁証法の冒険』滝浦静雄他訳所収 みすず書房 1972)参照。
(2)ここでは、Adorno: Drei Studien zu Hegel. Suhrkamp Taschenbuch Wissenschaft 110 1971のなかの “ Aspekte „ から拙訳によって引用する。なお同書には他に、“ Erfahrungsgehalt(経験内容)“ 、“ Skoteinos oder Wie zu lesen sei(スコテイノスもしくはどのように読まれるべきか)„ が収録されているが、とくに「冥い人」を意味する「スコテイノス」というギリシア語にヘーゲルのイメージを仮託しつつヘーゲルのテクストのあるべき読み方を論じた後者の論文は、ヘーゲルのみならずアドルノ自身のテクストがどのように読まれるべきかに関する手引きとしても重要な意味を持っている。そこでは、細部への沈潜と全体への見通しをつねに両立させ、概念と概念化しえないもののあいだの葛藤を決してすりぬけることなく言葉と論理の流れを追っていくという、ほとんど不可能といってもよいようなテクストの読み方が要求されている。
(3)Drei Studien zu Hegel . S.10
(4)a.a.O.
(5)Vgl. Georg Lukács: Der junge Hegel – Über die Beziehungen von Dialektik und Ökonomie
Suhrkamp Taschenbuch Wissenschaft. 1973(ルカーチ『若きヘーゲル』生松敬三他訳 『ルカーチ著作集』第10巻 白水社 1969)参照
(6)Drei Sudien zu Hegel. S.10
(7)廣松渉「カントと先験的認識論の遺構」(『事的世界観の前哨 物象化論の認識論的=存在論
的位相』勁草書房 1975 第一部所収)参照。廣松は、「『われわれの内にあって表象と呼ばれるところのものが対象と関係し、対象と一致するのは如何にしてであるか』というカント的問い」(同論文 『廣松渉著作集』第七巻所収 岩波書店 1997 27頁)がカントの先験的論理では解決不能になることを指摘している。
(8)ヘーゲル『歴史哲学』「序論」(上下巻 長谷川宏訳 岩波文庫 1994 上巻所収)参照。
(9)Drei Studien zu Hegel. S. 10f.
(10)ヘーゲル/ヘルマン・ノール編『初期神学論集』(二分冊 久野昭編訳 以文社 1973)
(11)ヘーゲル『イェーナ体系構想』(加藤尚武監訳 法政大学出版局 1999)参照。
(12)Drei Studien zu Hegel. S. 10
(13)本章の「1.「オュッセウス論」をめぐって」の註(7)を参看願いたい。
(14)Hegel: Jenaer Realphilosophie. S. 196 (傍点は原文ゲシュペルト体)
(15 Drei Studien zu Hegel. S. 17
(16)a.a.O.
(17)Jenaer Realphilosophie. S. 179f. (傍点は原文ゲシュペルト体)
(18)a.a.O.
(19)Drei Studien zu Hegel. S. 23
(20)Ders. S. 18
(21)Hegel ; System der Sittlichkeit. Philosophische Bibliothek 144 Felix Meiner 1967. S. 9f.(傍点は原文ゲシュペルト体)
(22)Ders. S. 10(傍点は原文ゲシュペルト体)
(23)Ders. S. 10f(傍点は原文ゲシュペルト体)
(24)Ders. S. 10
(25)Vgl. Ders. S. 13
(26)Drei Studien zu Hegel. S. 24
(27)Ders. S. 25
(28)Ders. S. 32
(29)Adorno ; Minima Moraria. In : Gesammelte Schriften. Bd. 4 Suhrkampf 2003 S. 55
(30)Drei Studien zu Hegel. S. 35
(30)Ders. S. 40
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1162:210327〕