西欧文明人の慢心としての空爆

著者: 岩田昌征 いわたまさゆき : 千葉大学名誉教授
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前回に「ちきゅう座」に載せた私論「NATO大空爆記念日」にドイツの『ディー・ツァイト』紙の編集長テオ・ゾンマーのコソヴォ戦争論を紹介しておいた。そこで彼は次のように語っていた。

――当時のNATO事務総長ソラーナの言葉を借りれば、コソボ戦争は「ヨーロッパについての二つのビジョン」の間の戦いであった。ミロシェヴィチのビジョンは、「人種的に純粋な国々で構成されるヨーロッパであり、ナショナリズムのヨーロッパであり、そして独裁主義と排外主義のヨーロッパ」である。これに対するビジョン、すなわちNATO同盟諸国のビジョンは、「統合されたヨーロッパであり、民主主義と人種的多元主義のヨーロッパ」である。

『ディー・ツァイト』紙編集長やNATO事務総長によるセルビア大統領ミロシェヴィチに対する上記の如きウルトラ民族主義者非難がどれほど事実に照らせば的確であるかを見る為に、ミロシェヴィチによる諸演説の中で最もセルビア民族主義度の高い演説を取り上げてみよう。旧ユーゴスラヴィア、すなわちユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国が解体する直前、1989年6月28日に挙行された「1389年 コソヴォが原の戦い」600周年の100万人大集会でミロシェヴィチが行った15分ほどの演説である。それは、民族主義か否か、と問うならば、たしかに民族主義的である。しかしながら、その当時テオ・ゾンマーがその独立を断固として支援して来たクロアチア共和国のトゥジマン大統領のユーゴスラヴィア解体志向のクロアチア民族主義に比すれば、ミロシェヴィチの民族主義度は低い。しかし、ここではトゥジマンの書物からの引用はしない。

ミロシェヴィチがハーグで獄死した直後に出版された彼の演説集『20世紀史への貢献』(Slobodan Milošević、Prilog Istoriji Dvadesetog Veka、Treći milenijum、Beograd、2008)所収の「ガジメスタン演説 1989年6月28日」から関連二個所を訳出する。

セルビアにセルビア人だけが住んでいたことは決してなかった。今日、以前よりもずっと多くの他民族、少数民族の市民達が住んでいる。それはセルビアによってハンディキャップではない。本心から私はそれがセルビアの優位性だと信じる。この意味で現代世界の殆どすべての国々、特に、先進諸国の民族構成は変化している。ますます多くの様々な民族の、異なる宗教や人種の市民達が成功裡に一緒に生活している。進歩的で公正な社会としての社会主義は人々が民族的に宗教的に分割されるのをとりわけ許してはならない。社会主義において許され得る、また許すべきである唯一の差異は、働く者と働かない者、尊敬できる人と尊敬できない人とのそれである。それ故に、セルビアに生きるすべての者は、自分の共和国において他者と他民族を尊重しつつ、誠実に労働して生きる。

つまる所、我国全体がこのような原理上に整序されねばならない。ユーゴスラヴィアは多民族共同体であり、そこに生活する諸民族すべての完全同権性の条件下でのみ存続できる。(p.24)

 

コソヴォの戦いはもう一つ大きな意味を有している。それは英雄性のシンボルである。歌謡、舞踊、文学、そして歴史のテーマとなっている。

コソヴォの英雄性は600年間我々の創造性を鼓舞し、我々の誇りを養ってきた。我々が偉大な、勇敢な、誇りある軍であって、大損害を受けても敗北しなかった稀なる軍であった事を忘れるのを許さない。6世紀後、今日、我々は再び戦いの中にあり、また戦いの前にある。それは武器の戦いではない。かかる戦いがいまだ排除されていないにしてもだ。どのような戦いであれ、決意、勇気、そして犠牲なしに勝ち取ることは出来ない。すなわち、往昔 コソヴォが原にあったそれらの美徳なしには。

我々の主要な戦いは、今日、経済的、政治的、文化的、そして一般に社会的繁栄の実現を目指す。21世紀に人々が生活するであろう文明により速くより首尾良く接近する為にである。そんな戦いの為に英雄性が必要である。勿論、何が別のそれだが。しかし、それなしにはこの世で真剣で偉大なことは決して達成できないようなあの大胆さは永遠に必要だ。(p.26)

テオ・ゾンマーやソラーナの立言をミロシェヴィチ演説に対比してみると、私達極東文武大国の住民にとって、西欧文明人が西欧外の政治家の思索を真面目に分析検討すること如何に少ないか、それは一目瞭然だ。北米西欧文明の慢心である。

 

平成29年4月1日(土)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/

〔opinion6598:170403〕