規則正しい生活ねぇ

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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遠くから掃除機の音がするからもう十二時もまわったんだろう。でもメシにはまだ一時間以上ある。薄目は開けたが、あわてて起きることもない。蒲団に入ったのは六時まえだから、まだ寝たりない。もうひと眠りできないかと目をつぶってはみても、どこか覚めているのかもう寝れない。さりとて寒さもあって、さっと起きるという気にもなれない。

 

よく寝てすっきりした頭で目をさまして、今日はあれもやってこれもやってと起きられることはめったにない。つい数年前までなら、週に何日かはそんな朝を迎えられたのにと思うと、年をとったのかなとちょっと寂しくなる。でも改めて考えれば、そんな朝は月に何日か、もしかしたら年に何日もなかったんじゃないか、それも随分昔のことだったのを、ついこの間のことと思い違いをしているような気もする。

 

二時ごろになって簡単に朝食?をとって、さあ今日も一日あれこれとPCを立ち上げてルーチンワークになってしまった作業を始める。夕食までの五六時間ネットで新聞を読んでは、気になる情報はないかと、あちこちのサイトをのぞいていく。疲れたら、図書館で借りてきた本を読んで、思い立ったら原稿を書いて、またネットに戻ってをくり返している。寝不足でどうもぼんやりしてしょうがないと思えば、ちょっと後ろめたい気もするが、軽く寝てしまう。

会社務めをしていたきには考えられなかった、この好きな時に好きなことをできる、この時間を自由に使えるありがたさはなにものにも代えがたい。

 

小学校にあがったころから耳にタコができるほど「規則正しい生活」と聞かされてきた。今になって思えば、それが時間の自由を拘束される始まりで、「規則正しい生活」にどれほどの意味があるのかという疑問を持ちはじめるきっかけだった。自分でいたいと思う人にとってはただの強制にしかならないんじゃないか、とぼんやり思いはじめていた。

いい例が夏休みのラジオ体操で、せっかくの夏休みにまで早起きして、ラジオ体操なんか冗談じゃない。一度もでたことがない。ささいなことでしかないが、小学生にとっては勇気のいることで、出ないことに誇りすら感じていた。

 

中学校にあがるころには、先生の言うことなんかはいはいときいていたら、そのうち規則正しくではいられない状況に対処する、もともとはあるはずの能力さえ委縮してしまうのではないかと、説明のつかない生理的な嫌悪感に悩まされはじめた。年上に対する仄かなあこがれから秋には二年生とちょっとしたゴタゴタに発展して、気が向かなければ自主休校して釣りにいっていた学年きっての問題児だった。

そんな手に負えない問題児の視点が決して間違ってはいなかったことを、韓国の大型旅客船セウォル号の事故が証明してみせてくれた。もう七年も前になるが、二〇一四年四月一六日九時ころ事故で浸水が始まった。そのとき自分の判断でさっさと避難すればいいものを、優等生集団の高校生は船内放送に従って避難指示を待っていた。それが被害を大きなものにした。自分の目でみて、自分の頭で考えて、自分の責任で行動して、その責任をとるという社会人としてありようを軽視した型にはまった「規則正しい生活」指導が招いた悲劇だった。

 

朝は、学校や会社があるから決まった時間に決まったことをしていたが、三十過ぎからは仕事は自分の裁量で進めることが多くなった。昼飯も仕事終わりも時々の都合次第で、いつになるのか分からない。海外との電話がながびいて、昼飯時も逃がしてしまうこともある。たまに七時過ぎにさっさと帰るもこともあったが、ほとんどが退社してしまう八時すぎからが、誰にもじゃまされることなく集中できる時間だった。きりのいいところまでとやっていれば十時を回ってしまう。十一時もすぎにしまえば、酔っ払いで混んだ電車に乗るのもイヤだしで、あと一時間もがんばって、タクシーでなんて日もあった。

 

時差があっても、ヨーロッパはまだ勤務時間のオーバーラップがあるからいい。ところがアメリカの東海岸相手だと午前と午後がひっくり返ったようなもので、定時の勤務時間は重ならない。どっちかが相手に合わせないと直接の話にはならない。

やっと家に帰ってきて、さっとシャワーを浴びてから電話で小一時間やり合うなんてことも多い。それでも翌日は、出勤時間前に事務所にいないと部隊の士気にかかわる。いざ仕事が始まってしまえば、眠気をもようすなんて悠長なことをいっていられる立場でもない。そのまま昨日と同じような一日がつづく。

 

多い時には毎月、少なくても二ヵ月に一回はアメリカかヨーロッパにでかけなければならない。いつも不規則な生活をおくっていることもあって、時差という時差を感じたことがなかった。役職上はビジネスクラスに乗れるが、あまりに出張が多すぎて予算が足りない。ヨーロッパなら十時間、アメリカの地方都市だと十四五時間以上、エコノミーディスカウントで、着いた時から即仕事。さっさとかたずけて、次にまわらなきゃならない。自分の仕事をしているという自負と張りがあるから続けられるが、そんな生活を何年もしていると、「規則正しい」生活は、うん、できればいいんですけどねぇと人ごとのようにしかみれなくなってしまう。

 

朝から晩まで規則正しくでなければ、気持ちが落ち着かないというのか、能力を発揮できないようじゃ、変化のはやいアメリカの会社でハプニングが常態化したところでは務まらない。

そもそも決まった時間から決まった時間まで、決まったことを決まったやり方で決まったようにやってれば事足りる「規則正しい」人生なんてあるのか。ある人という人もいるだろけど、そんな人生あきちゃわないんかねという気もちのほうが強い。

2021/1/13

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10726:210411〕