解体したテクスト空間の向こう側にあるもの

書評:伊吹浩一著『はじまりの哲学―アルチュセールとラカン』

 二カ月程前、ハンセン病文学の反ヒューマニズム性についてのテクストを書いた。ハンセン病文学は、「人間」というタームによる概念化を強制する支配イデオロギーに激しく抵抗したゆえに、強力な表現力と発言力を持った。それがこのテクストの主題であった。「人間」、「国家」、「イデオロギー」、「自由」、「人民」といった大文字で書かれるターム。こうした大文字のタームはそうした言葉が繰り返される度に、プラスティック・ワードとなっていくのではないか。そうした言葉によって表現されたステレオタイプ化した意味を解体構築していくためにはどうすればよいのか。私はこうした問の下にこのテクストを書き、今も同様の問を繰り返しているが、はっきりとした答えはまだ見つかっていない。

 これから批評する本の書評家として私が適任者であるなどと言うことはまったくできない。そのことを私は十分に承知している。アルチュセール思想については門外漢であるし、ラカン理論については少しだけ齧った程度だ。ある市民団体の代表者Aさんに自分の代わりにこの本の書評を書いてくれと頼まれたからと言って、私がこの批評文を書くべきではなかったと今も強く後悔している。だが引き受けてしまった以上、そこには責任がつきまとってくる。たとえそれが如何に脆弱なものであっても。それゆえ、この論評は的確なものでも、適切なものでも、発展的なものでもない。このような批評文を読む前に実際にこれから語ろうとする本を手に取って読む方がはるかによいことである。このことを先ずは述べておかなければならない。

 この本、伊吹浩一の『はじまりの哲学―アルチュセールとラカン』(以後、サブタイトルは省略する) は、私にとってはかなり読み辛いテクストであった。私が普段使わないタームが数多く散りばめられているだけでなく、先程も語ったように私の専門分野から遥かに遠い論述がなされているためである。それゆえ、可能ならばこの本について論評するという作業は避けたかった。しかしながら、Aさんにこの本を頂き、その時に書評も頼まれ、軽い気持ちで引き受けてしまったのだ。断った方がよかった。仕事も溜まっており、ある研究会での発表のためのレジュメも作らなければならない。それに加えて、この気が重い作業。それでも私は『はじまりの哲学』を手に取って、読み始めることにした。

 だが、私は最初から難問に突き当たった。この著作を論評するにあたって、何を導き糸として考察していけばよいのか、それを決定しなければならなかったが、その導き糸を上手く見つけ出すことができなかったのだ。それには理由がある。ある人がこの本を「アジビラのような本」と評していたように、統一された論文という視点から見れば、このテクストは失敗した著作であると述べ得るからだ。アルチュセールとラカンの繋がりと乖離という点から見ても、二人のそれぞれの思想的深化という点から見ても、現代思想全体へのアプローチという点から見ても、この著作には十分に展開された考察がなく、歪に様々な説を接合しているからだ。「アジビラ」という評価はこうした問題点を鋭く突いた表現である。では、この本について語ることには意味はないであろうか。いや、確かに存在していると思うゆえに、今、私はこの批評を書いている。

 あるテクストを語る時、一般的にはそのテクストを完成したものとして語る場合が多い。特に、論文形式で書かれたものならばそうである。そのテクストを書いた作者の論証が正しいかどうか、厳密であるかどうかが問われる。それは正当な読み(レクチュール)である。しかしながら、そうであるならば、正しいテクストのみがレクチュールの対象となり、十分な論証によって構成されていないテクスト、実証性が弱いテクスト、統一性の取れていないテクスト、あるいは、断章からなるテクストは、悪いテクストとして排除されていくだけでよいであろうか。そこに問題点はないだろうか。この方法のみが正しい読みならば、読者に多くの示唆を与えるが完成されていないテクストの価値は認められないことになってしまう。だが、不完全さによって新たな探究の道を指し示すことができるテクストは、その不完全さゆえに価値があると述べることができるのではないだろうか。『はじまりの哲学』はそうしたテクストの一つであると私には思われたのだ。

 しかし、この著作に確固とした一貫性を求めることができない以上、私が用いることができる方法は不器用に組み合わされたこのテクストを解体し、解体された部分にある煌めきを取り出していくというものにならざるを得ない。それゆえ、私はこの本の章立てや、全体的な流れを完全に無視して、部分的に存在している煌めきを取り出し、語ることにした。そのために私が選んだ導き糸は「構造」、「シニフィアン、シニフィエ、指向対象」、「解体構築」という三つの問題に対する探究である。

構造とは何か

 「大文字の他者(Grand Autre)」も「イデオロギー (idéologie)」の強力な支配力を持つ権力装置である。それゆえ、伊吹がラカンの考えとアルチュセールの考えとに密接な関係性を認めることにはまったく異論はない。だが、伊吹はこの二人の重要な探究課題、と言うよりも、現代思想における最も根本的な探究課題である「構造」という問題に対する探究を十分に行わずに、考察を開始してしまっている。確かに、アルチュセールのラカン思想への注目ということに関する言及として、「無意識もそれを対象とする理論の中ではじめてつかむことができるものである。そのさい彼[*アルチュセール]が注目するのが、ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」というテーゼである」(p.44、亀甲括弧内引用者:以下同様)と書いているが、引用されたラカンの言葉の原語は、« L’inconscient est structuré comme un langage »である点にはまったく触れていない。「言語」と訳されている語は「ラング」ではなく、「ランガージュ」である点に注目しなければならない (「無意識」と訳された語も厳密に言えば、形容詞の名詞化した「無意識的なもの」であるのだが、この問題を取り扱っている時間はない)。「ラング」は「言語構造」であるが、「ランガージュ」は「言語活動」や「言語能力」である。また、「ランガージュ」にはunが付けられている。それゆえ、このテーゼを私が訳するとすれば、「無意識(的なもの)はある種の言語活動のように構造化されている」となる。これはソシュールによる言語構造の探究とはまったく異なる問題設定である。

 伊吹は上記した指摘に続けて、「実際、ラカンは言語学、すなわちソシュール記号学をみずからの理論に導入し、自前のものにすることによって精神分析の理論化を成し遂げた。ソシュール記号学を無意識という対象の理論化のために導入したのだ」と述べているが、このことを厳密に証明するだけでも、何千ページもの論証が必要である(私にはその能力もなく、時間もないが)。それゆえ、ここでは「構造」と「構造化」という点だけに絞って、この問題を検討していく。「言語=ラング」には構造がある。そうでなければ、日本語、フランス語、英語といった言語は存在できない。どんな構造にも構成要素があり、構成要素間の関係を示す法則性がある。構造はその様相を示す。それに対して、構造化はある対象を構造として捉えること、すなわち、考察対象がどのような要素からできていて、その結びつきや対立の規則性は何かを明らかにしていくこと、あるいは、そうした規則性に則り活動することである。それゆえ、宇波彰氏はアルチュセールの『精神分析講義:精神分析と人文科学について』の翻訳(信友建志、伊吹浩一訳、宇波彰解説)に掲載されているこの本の解説の中で、次のような指摘をしている。それは「ラカンは「セミネール ⅩⅣ」において、マルクス主義と精神分析に共通する探究の対象が「潜在的なもの (le latent) 」としての構造」であると語っている (ⅩⅣ-1967.4.12 […])」ということだ。しかし伊吹の本にはこの根本的な問題に関する綿密な検討が大きく欠けている。

 だが、構造と構造化の差異を示しただけでは、「無意識(的なもの)はある種の言語活動のように構造化されている」というテーゼの表すものを的確に語ったこととはならない。このテーゼが示すものは何かを明示する必要性がある。「言語活動」と訳されたランガージュは言語構造(ラング)自身ではない。それはラングを用いて行われるわれわれの言語実践のことである。無意識(的なもの)はわれわれの生きている空間である実践の場に登場するものであり、それは静態的に定められた構造ではなく、ある方向性、すなわち、法則性を作り出していく動きである。それは言語活動と共に誕生し、展開するものであるが、言語活動全体ではない。また、この実践的構造化は事後的にしかその働きを掴み取ることができない。われわれの目の前で示される無意識的な活動の展開は、それゆえ、伊吹も正しく指摘しているように「シニフィエなきシニフィアン」であるのだ。だが、「シニフィエなきシニフィアン」という言葉には注意が必要である。何故ならば、シニフィアンは単なる記号の形というものではないからである。われわれは日常、様々な音を聞き、無数のイメージを見つめている。その全てを記号化したならば、われわれは膨大な情報量に取り囲まれ、その情報を処理できずに、自己崩壊してしまうであろう。つまり、われわれが日常、記号として捉えるものは選択されているのだ。そして、記号として捉えたもののシニフィアンにはシニフィエがあると認識してしまっているのだ。「シニフィエなきシニフィアン」とは、シニフィエがないのではなく、シニフィエがあるかないかが判らないが、シニフィエがあるかもしれないとわれわれが強く思い込んでいるシニフィアンなのだ。この点を忘れてはならない。

 

シニフィアン、シニフィエ、指向対象

 ラカンもアルチュセールも記号という問題を重視しながら自らの理論を構築している。それはソシュールの言語理論をベースにしているが、ソシュールだけではなく、ヤコブソン、バンヴェニスト、イェルムスレウといった言語学者の影響を少なからず受けている。しかし、伊吹はその点に関してまったく言及していない。例えば、『はじまりの哲学』のp.50には無意識の欲望理論について、「(…) ラカンは置き換えを「換喩」で、圧縮を「隠喩」で説明する」と書かれているが、この二分割法はソシュールのものではなく、ヤコブソンの失語症患者の二大分類を参照したものである。ソシュール以降も言語学は発展しており、その成果をラカンもアルチュセールも可能な限り吸収しているが、その連関性に伊吹がまったく触れていないのは何故であろうか。だが、こうした疑問点を列挙している暇はない。この本の中心テーマとも係わる大きな問題であるシニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifié)との関係、記号と指向対象の関係について詳しく考察を行っていかなければならない。

 シニフィアンとシニフィエは記号内の構造を表したソシュールの概念であるが、シニフィエを単に「意味」と言う曖昧な言葉を使って説明するだけでは不十分である。この二つの用語使用以前、ソシュールはシニフィアンを「聴覚映像 (image acoustique)」と、シニフィエを「概念 (concept)」と呼んでいた。このことからも判るように、シニフィアンをある形式と見做すことはできても、シニフィエを単に「意味」とすることはできないことが理解できる。日本語話者が「牛」と言った場合、それが概念であるのか、具体的な何かであるのかが明らかでない場合が多々ある。前者はシニフィエであるが、後者は指向対象 (référent)を示しているからである。例えば、「牛」と「その牛」との差異を考えてみよう。前者はこの語の音連鎖あるいは文字が表す抽象的な牛であるが、後者は具体的な時空間内にいる一頭の牛を指している。つまり、シニフィエは言語記号内の抽象的な意味が問題となるが、指向対象は現実にある、あるいは、空想上の具体的な何かが問題となっているのだ。

 このズレは言語活動においてしばしば中核的な働きをする。言語記号の使用において、シニフィアンに対するシニフィエが、すなわち、概念が問題なのか、それとも指向対象が問題なのかによって問題となっている言語記号の働きが大きく異なるからである。記号の内部構造のみを対象に考察すれば、シニフィアンとシニフィエの結びつきのみが問題となるが、言語活動においてはある記号の示す、つまりは、その記号のシニフィアンが示す指向対象も問題となる場合が多々あるのだ。一般的に言って、ある記号において、その記号のシニフィアンとシニフィエは結合しているし、その関係に基づき指向対象が示される。だが、無意識が問題になる時、この関係図は常に作動する訳ではない。ある日本人の精神病患者の述べる「家」という語は、シニフィアンとシニフィエの関係で言えば、[ ie ] と「家」が対応しているが、指向対象としては「母」であることがあり得る。「シニフィアンの優位」が語られ得るのはこのように三つの概念が一つに結び付いていないケースである。

 このことはソシュールの記号学理論の基本概念よりも、パースの記号論理論の基本概念を用いた方がよりよく理解できる。何故なら、ソシュールはシニフィアンとシニフィエという二項対立概念を用いて記号構造を示したが、パースは表意体(representamen)―解釈項(interpretant)―対象(object)という三項対立概念を用いて記号作用を示しているからである。この理論的差異に対する言及も『始まりの哲学』には存在していないが(p.308に指向対象を指示対象という言葉とした、「そもそも言葉は指示対象そのものではない。言葉は「シンボル」であり、指示される対象とは別のものである」という指摘が一カ所だけあるが、十分な検討が行われているとは言えない)、記号問題を考える上で根本的な事象であるだけでなく、「イデオロギー」というアルチュセールの中心的探究課題を考える上でも根本的な課題となる。何故なら、伊吹が何度も引用しているアルチュセールが引用しているパスカルが語った信仰を持っていない者を信仰させるための方法として、教会に行かせ、跪かせ、祈る姿勢を取らせるという行為、つまりは、国家的イデオロギー装置(appareils idéologiques d’État)のモデルとなる行為は、シニフィエがゼロ(あるいは、不明)であっても、その記号が目指す指向対象である信仰が実践され得ることを示しているからである。そして、このことが伊吹も言うようにアルチュセールのイデオロギー問題に対する中心的役割を担っているのである。

 

解体構築の方向性

 ラカンはセミネールⅨの中で、« Je pense donc je ne cesse d’être (われ思う故にわれは存在し続けることを中止する)»というテーゼを述べている。これはデカルトのテーゼとは真逆な主張であると述べ得るが、デカルトのテーゼとは言説的な語りのレベルが異なる。デカルト的な「われ(コギト)」は、合理的な存在論的主体のテーゼであるが、ラカンのテーゼは認識論的主体のテーゼである。「コギト」は思う主体としての存在性を示していると考え得るが、ラカンのテーゼにおいては言葉を使って考える以上、言葉が他者によって与えられたものである以上、それを使って考えることでコギトは「われ」の独自性を失ってしまうことを意味している。私だけのラングは存在しない。私は他者から与えられたラングを通して、私の語りたい事柄を語る。それは他者の言葉を使った言説の生産である。

 前のセクションで指摘したように、イデオロギー的国家装置に関しても、同様のことが述べ得る。国家はわれわれに対して抑圧装置として機能し、国家の構成員である限り、この規則に従えという命令を行い、それに従うことによってしかわれわれは自らの主体を実現できない状態に置かれているからである。われわれは国家機構を形成する中心的な主体であるよりも、国家の構成員である限り、支配され、命令されて動くコマとしての機能を担う存在となっているのである。それゆえ、われわれは自らの主体性をどのように取り戻すかという問題に常に直面している。

 支配し、抑圧するものからの解放による主体性の回復。それは現にあるイデオロギーを解体構築する道を選ぶことである。伊吹は『はじまりの哲学』の中の第6で、この点からの興味深い探求を行おうとし、それが共(コモン)による共産主義への道であると語っている。その論理展開は厳密さに欠け、大雑把なものではあるが、それでもある方向性は示しており、その中には私にとって注目すべき以下の二つの点がある。それはバタイユの祝祭に対する考察への示唆とネグリとハートのコモンに対する考察への示唆である(示唆と言ったのはこの二つの根本的な問題性への分析が不十分であるからである)。

 バタイユの提示した祝祭の非日常性が、新たな主体創出への一つのキーとなる点を、ポトラッチに言及しながら、伊吹は、「自己を喪失し、不安に苛まれても、しかし至高な瞬間はひとを魅了し、惹きつける。富の破壊者は同時に自己の破壊者でもある。晴れがましくすべてを破壊尽くす至高な人間である」(p.323)と語っているが、この言葉は非常に興味深いものではある。だが、大文字の他者や国家的イデオロギー装置といった支配機構からの逸脱は、祝祭という特別な空間によってのみ可能なものであろうか。言語習得期の子供が行う言葉遊びの世界や、詩的創造は、ラングの支配を超えられないものであろうか。こうした検討も必要であるように私には思われる。そのためには何千ページもの考察が必要ではあるが。

 ネグリとハートのコモンに対する指摘も興味深いものであるが、二人のコモンという概念を語るためには「マルチチュード(multitude)」という概念をどうしても導入して検討しなければならない。しかし、この概念についての詳細な検討もこの本の中では行われていない。ここでその検討を十分に行う余裕はないが、マルチチュードは単なる主体の集合体ではなく、それぞれの主体が独立しながらも、ある一つの方向性に向かう共的な動きである点だけは注記しておこう。伊吹が第6章の中で行っているこうした問題設定の検討がより適切に行われれば、解体構築としての新たな思想的展開図を示すことができる可能性を持っている。この点は強調しておかなければならない。

 

 『はじまりの哲学』は統一されたテクストとして見た場合、失敗した論説であると私は最初に述べた。だが、もしも統一体と見ずに、テクストの統一性を壊して、バラバラにして、断章を拾い集めたならば、そこには煌めく原石があることも指摘した。最後に、この解体作業と解体された物の中から煌めく原石を拾い集める作業を行い、この書評を終えたい。

 この本の問題点は章立てされた各章の連続性と展開の中に大きな穴があいている点にある。各章の繋がりは希薄で、論証は脆弱である。それは何故か。それは最初にも指摘したようにあまりにも多くの、複雑な問題を小さな袋に詰めようとして、様々なモノが袋からはみ出してしまい、外に落ちてしまっているからである。それゆえ、このテクストを論文として見れば、このテクストの有意義な点が消失してしまう。このテクストの有意義な点を救い出すためにはどうしてもテクストの連続性を断ち切り、バラバラにして、断章化しなければならない。そして、アルチュセールとラカンへの読書ノート的な考察も、引用文とそれへのコメントに還元すべきであろう。ベンヤミンは引用だけで構成されている本を作ろうとしたが、伊吹の論説をベンヤミンの望んだテクストに限りなく近く作り変えながら、この本を読むべきなのだ。

 この本の論証を追うだけでは論理展開の穴の多さ、慎重さと詳細な分析の欠落によって、読者は苦痛を強いられる。秩序正しい読みをしようと思ってもそれが不可能だからである。それゆえ、このテクストは切断されるべきであり、そのバラバラになった身体の中から貴重な言説を取り出すべきなのである。「(…) エピステモロジーはこれを[*科学理論の推移過程を]直線的・連続的な発展過程とは捉えない。新しい科学理論が先行する科学理論をのりこえていくとき、新旧の理論の間には断絶と跳躍があり、科学史とは非連続的連続の過程、絶えざる変革過程である (…)」(p.27)、「上部構造は下部構造に対し相対的に自立しており、ときとしてそれに影響を及ぼすことさえある。さらにはその時代にはその時代固有のイデオロギーが存在するのであり、それゆえイデオロギーにも歴史があると言える。だが、イデオロギーには歴史を貫いて変わることがないイデオロギー一般の構造がある。だから、イデオロギーには、やはり歴史がない」(p.70)、「(…) 主体は、たとえ同じイデオロギー装置に身を置き続けていても、その中で、つねに主体化のプロセスを反復せねばならない。そうであるがゆえに、各種のイデオロギー装置間の移行が可能になるのだ。つねに主体化、つまりイデオロギー化のプロセスを繰り返しているからである」(p.206)といった言説はコンテクストから切り離し、孤立化させても有益な言説であり続ける。こうした言説は他にも数多く存在しており、それらを取り出し、別な様々な言説と対置したり、結合したりすることで、新たな言説空間が誕生するのではないだろうか。それは『はじまりの哲学』という狭く、閉じられた空間を超えたポリフォニー空間の誕生である一方で、言説レベルではテクストの解体構築の実践となる。伊吹のこのテクストに対しては、積極的にこの作業を行うことが望ましいように私には思われる。

 前の章でも指摘したが、特に、第6章の考察は不十分であるが、そこには様々な可能性が隠されている。ただ、「はじまり(commencement)」として解体構築を行うことは不可能なのではないだろうか。何故なら、われわれはまったく新たなラングを語ることができないように、何かに対する完全に新たな開始を行うことはできないからである。数年前私は、フランスの哲学者マチュー・ポッド=ボンヌヴィルの『もう一度…やり直しのための思索:フーコー研究の第一人者による7つのエッセイ』(村上良太訳)という本の翻訳に関する書評を書いたが、この本の中でポッド=ボンヌヴィルは、「はじまり」ではなく、「再び始めること (recommencer)」という語を使ってイデオロギーとしての権力の解体構築について論究していた。この学的探究の方が伊吹のものよりも厳密であり、権力としての哲学を解体構築していくためには正確な方法であるように私には思われる。哲学史を考えた場合でも、ヘーゲル思想への再解釈によってマルクス思想は始まり、マルクス思想への再解釈によってアルチュセール思想は始まり、フロイト思想への再解釈によってラカン思想は始まっている。それはあるテーゼに対する考察の再開である。「再び始めること(recommencer)」という語のre-という接頭辞には、「繰り返し」の意味以上に、「熟考する」という学的態度が刻まれており、そこには解体構築の意味が込められている。この点を確認する必要性がある。

 ポッド=ボンヌヴィルの本の書評の最後で私は以下のような言葉を書いた。「未知の目に見えない脅威がわれわれを包み込んでいる現在であるからこそ、われわれは再び問いを開始すべきなのだ。この再開は自分一人の中で完結するものではなく、様々な他者に投げかけられる問いであり、その問いはポリフォニーとなって世界に響くだろう。」この言葉は『はじまりの哲学』の学的方向性とも繋がっていると私には思われる。マルクス、フロイト、アルチュセール、ラカンといった偉大な思想家の理論は容易に理解できるものではなく、彼らのテクストの中には何度も何度も繰り返し問い直さなければならない言説が溢れている。彼らの理論に対する最初の問の答えが出たとしても、次の問がすぐに提起され、最初の答えは解体され、再構築されていく。

 私の博士論文の担当教官だったフレデリック・フランソワは言語学者であり、哲学者でもあった。彼が数十年前のセミネールの中で、「まったく同じ言表が語られたとしても、二度目に語られたものは一度目のものとは同一ではない。何故なら、そこにある言表連鎖がまったく同じであることはないからである」と述べたことを今でも私は覚えている。フランソワのこの指摘を私は再開という問題が単に繰り返すことではなく、新たな差異を生むことを示していると解釈した。そこに開かれた対話空間が現れ、ポリフォニーの響きが増していくと解釈したのだ。それゆえ、「開始」は「再開」である。「再開」は「対話」であるのだ。『はじまりの哲学』を読み、私はフランソワの言葉の持つ意味を再度問い直す機会を得た。対話空間は何処にいても、いつでも開かれる可能性があるものである。そして、ポリフォニーの響きは消え去ることなく続いている。私は、アルチュセールの『マルクスのために』を手に取り、付箋を貼った「ヒューマニズムのごときイデオロギー上の概念を、あたかも理論上の概念であるかのように、区別なく、条件もつけずに、使用するのはやはり危険なことにちがいない。なぜなら、ヒューマニズムのようなイデオロギー上の概念は、どのようにとりあつかわれようとも、イデオロギーがふくむ無意識と関連があるし、小ブルジョア階級の発想をもとにした主題をあまりに気楽にとらえなおしているからだ (…)」(西川長夫他訳)という言葉を読み、この言葉についてもう一度考えてみようと思った。

 

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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