はじめに
昨今の社会科学、とりわけ「比較歴史社会学」をめぐる研究状況を顧みると、マックス・ヴェーバー「古代農業事情」(第三版1909、GAzSuWG: 1-288, MWGⅠ/6: 320-747,渡辺金一・弓削達訳『古代社会経済史』1961、東洋経済新報社) の冒頭に提示される「古代国家の発展図式」、とりわけそこで「起点」に据えられる「社会の(相対的に)『原生的urwüchsig』な状態」の議論を、いったん前景に取り出し、その諸論点が『経済と社会』(旧稿) にどう編入され、どのように「社会学的決疑論[1]体系」に再編成されるのか、その経緯と意義を明らかにしておくことが、いま、ぜひとも必要と思われる。その理由は、大別して、つぎの二事情に求められよう。
ひとつには、「古代パレスチナ文化圏」における歴史発展(すなわち、一方では、「ユダヤ的パーリア民」の形成にいたるが、他方では、「西洋文化圏」と「イスラム文化圏」を、他の「インド文化圏」や「中国文化圏」から分ける、初発の旋回峰・分水嶺ともなった、他ならぬ「古代ユダヤ教」の展開)を、「西洋中心 (主義)」的にではなく、「古インド文化圏」また「古中国文化圏」における (これまた「アジア的停滞」ではない) 歴史発展との「構造的分岐」において捉え返すには、それぞれの「文化圏」が「対照的」分岐を遂げる以前に、共通に経過した「起点」(「古代農業事情」では、「農民共同組織」から「城砦王制」にいたる発展)の理論的想定が、相応に重要な意義を帯びてくる。
ちなみに、「古代農業事情」は、確かに重要な著作ではある。しかし、そこから「軍事貴族 対 祭司」というひとつの(それ自体として、相対的には重要な)観点を、いきなり抜き出して「実体化」(「『全体知』的に固定化」) し、(ヴェーバーがその後に展開する) 社会学的決疑論体系総体のなかの一視点として「相対化」して捉え返すことなく、これまたいきなり『マックス・ヴェーバー入門』と銘打って出版するような流儀は、「啓蒙主義の功罪」に無自覚で、社会学的決疑論体系総体への模索と到達を妨げるばかりか、「古代農業事情」自体の最重要とも思える論点を見失わせかねない「負の随伴結果」をともなっている。
この点、ここでも先取りして多少敷衍すると、ヴェーバーは、「古代農業事情」で、もとより「『古代』世界」に焦点を絞ってではあるが、「城砦王制」から「貴族・寡頭政ポリス」、「農耕市民・重装歩兵ポリス」をへて、(「三段櫂船」の漕ぎ手のような「無産proletarisch」ないし「無産化の脅威にさらされたproletaroid」下層市民も含む)「民主政市民ポリス」へと、政治権力の担い手が「民主化」されるにつれて、植民地支配 (しかも、侵略先原住者の皆殺しか、奴隷としての拉致か、という苛烈な土地収奪) への傾向が、それだけ強まる、と見た。「古典古代ポリス」の対内的「民主主義」、とりわけ「市民」大衆の「積極的」政治参加と「高い」政治意識も、じつは、そうした対外的植民地収奪への「帝国主義」的利害関心を基礎とし、これによって鼓舞され、駆動されていたという。性急で過当な一般化は慎むべきであるが、ヴェーバーはそこから、「(対内的)民主化と (対外的)戦争との『親和性』」・「相互促進的並行関係」を(少なくとも「一般経験規則」・「類型的発展傾向」として)前景に取り出していたのである。
ということは、「平和と民主主義」が、あたかもなにか「予定調和」の関係にあるかのように感得し、そう思いなして疑わなかった、敗戦後日本の政治的先入観にたいしても、ヴェーバーが、(「軍事貴族 対 祭司の対立」に遥かに勝り、「『官僚制』の『無気力化』作用」にも匹敵する)意味深長な問題提起を、わたしたちに投げかけていた、と解されるべきではないか。
この挑戦にたいして、敗戦後日本の「マルクスとヴェーバー」論は、マルクスの「資本制生産に先行する諸形態」を「単線的-段階論的発展図式」と解し、これを主たる枠組みとして、ヴェーバーの労作を(内在的沈潜・読解は不足・不備のまま)「任意に利用できる便利な『草刈り場』『石切り場』」として扱い、個々の論点(たとえば「ゲマインデ」や「種族」)を、無概念のまま、無造作に取り込んで怪しまなかった。その結果、たとえば「共同体」の「古典古代的形態」における「戦争という『協働』」の「両義的」問題性を切開せず、「乗り越えられた過去」として雲散霧消させてしまったのではないか。こうしたスタンスは、じつは、マルクス後の思想家・ヴェーバーに固有の、マルクスを止揚する[2]問題提起と、いっそう緻密で包括的な理論体系には、到達せず、到達しようとせず、むしろ中途半端な読解のまま、当時の「マルクス主義」が発散する「唯我独尊」の「権威主義」にやはりどこか阿諛する[3]、一種の「目眩まし」ないし「遮蔽幕」として、はたらいていたのではないか。さらにいえば、いまもって、その反省がなされていないのではないか。
他方、昨今の「比較歴史社会学」的研究交流の、いまひとつ別のコンテクストでも、「社会契約論」批判との関連で、「社会契約」以前の「自然状態」が (どんな意味で「人は人にとって狼homo homini lupus」か)、まさに問い返されるべき問題をなしている。これにたいして、「社会哲学」的、「本質主義」的、あるいは「規範学Dogmatik」的に――いずれにせよ「そもそも人間とは……」と問いを立て、先験的 a priori に回答を決めてかかり、任意の「典型例」を添えるだけで「先を急ぐ」論法ではなく、むしろもっぱら「経験科学empirische Wissenschaft」的に思考を凝らし、「国家論」を再構成するには、やはりまずもって、この問題にたいするヴェーバー固有の「経験科学」的アプローチを参照する必要があろう[4]。
この問題にかけても、ヴェーバーは、①「国家」の歴史的形成と変遷を、普遍的な「原生的」ゲマインシャフトに発する「政治的ゲマインシャフト行為politisches Gemeinschaftshandeln」の展開過程に即して、「原生的状態」に発する「ゲゼルシャフト結成Vergesellschaftung」の諸階梯として、「普遍史」的・「比較歴史社会学」的に捉え返していた[5]。そしてさらに、②その「国家」が、「臣民-人民の『権利擁護-権利保障』のアンシュタルト」[6]から、軍制の「官僚制化」(「物的戦争経営手段」の、戦闘人員からの分離・「疎外」、集積・集中) にともない、「国需物資 (兵器・弾薬・糧秣など) の調達、国債の発行、プランテーションや鉄道の設営、植民地行政など」によって、厖大な利得源と雇用機会を創出し、「資本主義」の展開「軌道」を、(「市場」における「平和的」営利に準拠する、稀有な諸条件に制約された)「近代資本主義」から(「新たな政治寄生的資本主義」としての)「帝国主義的資本主義imperialistischer Kapitalismus」[7]に「転轍」する方向に、「意義変化」「機能変換」をきたしていると見た。「古代農業事情」をへて『経済と社会』(旧稿)中の(主として)「政治ゲマインシャフト」章で、明快に概念構成される、この視点は、(少なくともこれまでの「マルクスとヴェーバー論」では)「『近代』資本主義対『パーリア』資本主義」図式の背後に隠され、無視されがちであったが、いま改めて掘り起こされ、再検討-再構成されなければなるまい[8]。
- 1.「古代農業事情」における「古代国家の発展図式」
ヴェーバーは、『経済と社会』(「旧稿」1910~14) の執筆直前、『国家科学事典』 (第三版1909) に「古代農業事情」(邦訳名『古代社会経済史』) を寄稿し、その「序論」部分で、(歴史には「都市」にまで発展した姿で登場する、言い換えれば、前史は闇に包まれている) 西洋と中東の(セーヌ河からユーフラテス河とナイル河にいたる)「古代」世界総体を展望し、(当時の資料と欧米学界の研究成果を網羅的に採り上げ、比較-検討して)「古代国家の発生と発展」を、つぎの二系列への分岐として捉えた。すなわち、⑴「農民共同組織[ゲマインヴェーゼン]Bauerngemeiwesen」(「都市」成立よりはるか以前の、相対的にもっとも「原生的」な社会状態) から ⑵「城砦王制Burgenkönigtum」(「都市」の直接先駆形態) に、そこからは、一方では、⑶「官僚制をそなえた都市王制bureaukratisches Stadtkönigtum」を経由して、⑷「ライトゥルギー君主政Leiturgiemonarchie」へと「合理化rationalisieren」され、他方では、⑸「貴族政 [門閥] ポリスAdelspolis」から ⑹「重装歩兵 [農耕市民] ポリスHoplitenpolis」をへて、⑺「[民主政] 市民ポリスBürgerpolis」へと「民主化」(政治権力の担い手が、「無産化の脅威にさらされた」下層市民にまで拡大)される、二系列(「中東型と西洋型」、あるいは「オリエント型とギリシャ・ローマ型」) の分岐「発展」である[9]。
それでは、「古代農業事情」のこうした「発展図式」と、『経済と社会』(「旧稿」1910~14年執筆) の、一見「平面的」な「決疑論」的概念体系とは、方法論上、また方法上、どういう関係にあるのか。
この点について、ヴェーバー自身は、「古代農業事情」の文献紹介欄の末尾で、つぎのように語っていた。
「古代ポリスと中世都市について [このふたつの「社会形象」にかぎるとしても]、双方の発展の階梯を、真に批判的に比較vergleichenするならば (……)、謝意をもって迎えられるに足る成果をともなうこともあろう。しかし、それはもとより、当世風の流儀に倣って、一般的な発展図式generelle Entwickelungsschemataの構築を目標とし、『類似現象Analogien』や『並行関係Parallelen』を探し出そうとするのではなく、むしろまったく逆に、最終結果においてはすこぶる異なる両者の発展について、双方各々の特性Eigenartを探り出し、これを手掛かりに、各々がなぜ異なる経過をたどったのか、それぞれの与件に因果帰属kausal zurechnenする、という目的を追究する場合にかぎられよう。そのさい、出来事の個々の構成要素を (抽象によって) 孤立させて取り出し、その各々につき、経験の規則Erfahrungsregelnに準拠して明確な概念klare Begriffeを構成することが、予備研究Vorarbeitとして必要不可欠である。そういう明確な概念がなければ、いかなる因果帰属も、確実には達成されようがない。」[10](GAzSuWG: 288, MWGⅠ/6: 747, 渡辺・弓削訳: 521)
そこで、この提言と示唆に沿い、「古代農業事情」において「国家の発展図式」をなす七類型の叙述を、仔細に検討し、⑴「農民共同組織」以下の各社会形象 (社会構成態)について、「家ゲマインシャフト」「村落」「長」「氏族」「門閥」その他の構成要素を取り出し、それぞれの概念が、どう構成されているのか (いないのか)、そうした概念が、その後、『経済と社会』(旧稿) で、いかに「経験の規則に準拠」して鋳直され、精練・「明確化」され、決疑論体系に編成されていくのか、逐一、追跡してみるとしよう。
こうした作業が、「ユダヤ的パーリア民」の歴史的成立を「比較歴史社会学」的に捉え返す[11]ための (まさにわたしたち自身の)「予備研究」となるであろう。
[1月14日記。記録と随想13:「原生的状態」(「農民共同組織」) の理論構成と諸問題――マックス・ヴェーバーにおける「古代国家の発展図式」(『古代農業事情』)が「社会学的決疑論体系」(『経済と社会』旧稿)に再編成される経緯と意義(その1)につづく]
[1]「決疑論」とは何かは、順次、具体的に明らかにされよう。ここでは、「観点別に、系統的に編成され、体系化される、類型群のカタログ」と定義しておこう。
[2] たとえば『資本論』の有名な「(インド)村落共同体」論 (「アジア的安定性」の土台としての「自足的な全生産有機体」論) の難点、これにたいするヴェーバーの「両義的」批判(「唯物史観の積極的批判」)の具体的含意について、拙稿「比較歴史社会学――マックス・ヴェーバーにおける方法定礎と理論展開」(小路田泰直編『比較歴史社会学へのいざない――マックス・ヴェーバーを知の交流点として』2009、勁草書房: 1-142)とくに同書: 60-95、を参照。
[3] それにたいして、筆者は、実践における「マルクス主義」の優位を認め、その「唯我独尊」と「権威主義」には批判的に対峙しながらも、そうするからには、ヴェーバー思想が、けっして「専門閉塞」を教唆する「学知主義」ではなく、じつは実践上も、「現場からの根底的民主化」の道標として「ラディカル化可能radikalisierbar」であり、その実を示して対抗しなければフェアでない、と考え、「東大紛争-闘争」(1968~) という「現場問題」に取り組んできた。敗戦後日本における「マルクス主義か実存主義か」問題と、筆者のヴェーバー理解との関係については、本HP 2014年欄「戦後精神史の一水脈 (改訂稿)――北川隆吉先生追悼(10月31日)」、参照。
[4] 雀部幸隆は、つとにこの必要を感得して、研究に着手していた。『公共善の政治学――ヴェーバー政治思想の原理論的再構成』(2007、未来社)、参照。氏の早逝が惜しまれる。
[5] ところが、日独の「ヴェーバー研究」は、この「ゲゼルシャフト結成としてのゲマインシャフト行為」、したがって「ゲゼルシャフト結成に媒介された近隣ゲマインシャフト群としての『ゲマインデGemeinde』」という一般概念を、的確に把握してその意義を理解するには至らなかった。そのため、一方では、いきなりマルクスのGemeindeと等置して、無造作に「共同体」と訳出するかと思うと、他方では、「都市ゲマインデ」の「ゲマインデ」を「教団」と訳す(武藤一雄他訳『宗教社会学』1976、創文社: 127)といった、不可解な概念的混乱に陥っていた。それもこれも、ウェーバーの社会学的決疑論体系を、それ自体として把握するのには不可欠の、「『ゲマインシャフト』を上位概念とする『ゲゼルシャフト』」「『ゲゼルシャフト結成』にともなう『諒解ゲマインシャフト』(したがって「二重構造」[松井克浩]) の派生」といった基礎範疇――「理解社会学のカテゴリー」(1913、海老原明夫・中野敏男訳、1990、未來社) で厳密に規定され、『経済と社会』(旧稿)で、翻って社会諸形象に適用-展開される基礎範疇――を、それとしては読み取れず、F・テンニエスの対概念か、当の対概念と「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」という進化図式を要とする学界-社会通念を、『経済と社会』(旧稿) に持ち込み、混同して怪しまず、無概念の境地に安住していたからである。この点についてくわしくは、本HP 2016年欄の「記録と随想4: ヴェーバー『経済と社会』邦訳をめぐる半世紀――創文社の事業終結に思う」、ならびに拙著『日独ヴェーバー論争――『経済と社会』(旧稿) 全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて』(2013、未來社)を参照。
[6] ここで「アンシュタルトAnstalt」とは、加入者(個体・個人)が、(「結社Verein」の場合とは対照的に) 「両親の国籍や教会所属」その他、当人の意思にはかかわりのない「客観的標識」に準拠して、所属を認められ、編入され、他方、それ自体としては、合理的な「制定規則」と「強制装置」とをそなえている (そのかぎり「ゲゼルシャフト結成」に媒介された) 「ゲマインシャフト」の謂いである。それにたいして「団体Verband」は、合理的な「制定規則」と「強制装置」とを欠く「諒解ゲマインシャフト」である。
[7] これは、ヴェーバー自身が明示的に命名し、詳細に論じた概念である。ここに、「政治ゲマインシャフト」章の第13、14段落を、全文引用しておく。
「[13段 (WuG, 5. Aufl.: 524, MWGⅠ/22-1: 233-35; 英訳: 917-18, 浜島朗訳『権力と支配』1954、みすず書房: 200-02、アンダーラインによる強調と改行は引用者)]
ローマの海外膨張は、経済的に制約されているかぎりで、それ以降今日まで繰り返されている特徴を、歴史上初めて、明瞭かつ大規模に示している。それは、他種類の資本主義と流動的な移行関係にあるとはいえ、ある類型の資本主義に固有の特徴をなしている――というよりもむしろ、その類型の存立条件をなしている。この類型を、われわれは「帝国主義的資本主義」と呼びたい。それは、徴税請負人・国債所有者・国需物資調達業者・および国家に特権を与えられた海外貿易資本家と植民地資本家・などの資本主義であり、そこでは利得獲得のシャンスが、政治的強制権力、しかも膨張をめざす政治的強制権力の直接行使に、徹頭徹尾準拠している。
ある政治ゲマインシャフトの側からする海外「植民地 Kolonien」の獲得は、資本主義的利害関係者に莫大な利得のシャンスを与える。それは、住民の奴隷化か、さもなければ「土地への緊縛 glebae adscriptio」によって、あるいは、住民を植栽企業の労働力として搾取することによって (こうした利得のシャンスは、おそらくはまずカルタゴ人によって、大規模に組織化されたが、いっそう際立って大規模には、ついにスペイン人によって南アメリカで、イギリス人によってアメリカの南部諸州で、オランダ人によってインドネシアで、それぞれ組織化された)、さらにはまた、その植民地との貿易を――場合によっては、それ以外の地域との海外貿易をも――実力で独占することによって、取得された。また、新たに占領された領域の租税は、政治ゲマインシャフト自体の行政装置がその徴収に適していない場合には、いずこにおいても (この点については後述 [Nr. 340]) 資本主義的な徴税請負人に利得のシャンスを与える。さらに、戦争の物的経営手段が、純然たる封建制とは異なり、装備自弁 [の戦士] によって提供されるのではなく、政治ゲマインシャフト自体によって調達される、という事情を前提とすると、戦争による膨張の強行やそのための準備は、膨大な規模の信用需要を生み、これに投資する機会をふんだんに提供して、資本主義的な国債所有者の利得シャンスをたかめる。すでに第二ポエニ戦役のさい、国債所有者は、ローマの政策に、かれらに有利な条件を押しつけた。あるいは、つきつめると国家債権者が国債利子による不労所得者大衆からなっている――これは、現在の特徴的状態である――場合には、この大衆が「国債を発行する」銀行に [利得の] シャンスを創出する。
軍需物資調達業者の利害関心も、同一の方向にある。そこには、戦火を招く紛争の発生そのものに、それが自分のゲマインシャフトにいかなる結果をもたらすかにはかかわりなく、利害関心を寄せる経済的勢力が、生み出される。すでにアリストファーネスは、戦争に利害関心をもつ産業を、平和産業から区別していた。もっとも、当時はまだ、少なくとも陸軍の主力は、装備を自弁していたから、かれが実例として挙げているのは、主として個々の市民の注文に応ずる刀鍛冶や武具職などである。しかし、すでに当時でさえ、しばしば「工場 Fabriken」と呼ばれる、商品の大規模な私的貯蔵庫は、なによりもまず武器庫であった。
今日では、軍需物資や兵器の、ほとんど唯一の発注者は、政治ゲマインシャフトそれ自体であって、この事情が、政治ゲマインシャフトの資本主義的性格を強めている。戦時公債に融資する銀行と、今日では戦車の装甲板や大砲を直接供給する純軍需産業にかぎらず、重工業の大部分が、戦争の遂行に、たとえどんな場合にも利害関心を寄せている。敗戦は, 戦勝と同じく、かれらの (権益への) 要求をたかめる。政治ゲマインシャフトの関与者は、国内に大きな兵器工場が存在することに、政治的また経済的に利害関心を寄せるが、まさにそれゆえ、当の工場が政治的敵対者を含む全世界に兵器を売ることも、甘受せざるをえない。
[14段 (WuG: 525-26, MWGⅠ/22-1: 236-37, 英訳: 918-19; 浜島訳: 202-04)]
帝国主義的資本主義の利害関心が、いかなる経済的対抗重力に直面するかは [大衆の「平和希求」その他の対抗重力については後述するとして]、とりわけ、平和主義に志向する資本主義の利害関心に比して、前者の収益性がどれほどの割合を占めるか、といった事情に依存している。そしてこの事情は、これはこれで, 共同経済的需要充足と私経済的需要充足との双方が、それぞれいかなる割合を占めるか、に密接に関連している。それゆえ、政治ゲマインシャフトによって支えられた経済的膨張傾向のあり方は、この割合の関係によって顕著に規定されている。
一般に帝国主義的資本主義、ことに直接の実力行使と強制労働にもとづく植民地の掠奪資本主義は、いかなる時代にも、きわだって大きな利得のシャンスを提供した。その利得シャンスは通例、他の政治ゲマインシャフトに所属する人々との平和的な交換に志向する輸出産業の経営に比して、はるかに大きい。したがって、政治ゲマインシャフトそれ自体か、その下位単位(ゲマインデ)による共同経済的需要充足が、相当程度存立している場合には、いたるところでつねに、帝国主義的資本主義が存立した。共同経済的需要充足が重きをなしていればいるほど, それだけ帝国主義的資本主義の比重も大きい。
他国の領域の共同経済に寄生するこうした利得シャンスを、みずからの政治ゲマインシャ仲間のために独占する、もっとも確実な保障は、当該領域を政治的に占領するか、さもなければ「保護領」か、これに似た形式で、他国の政治権力に従属を強いることにあるから、こうした「帝国主義的」膨張傾向は、たんに「通商の自由」を追求するにすぎない平和主義的傾向にとって代わって、ふたたび勢いを増してきている。この平和主義的傾向が優位を占めたのは, もっぱら, 私経済的に組織された需要充足が、最適の資本主義的利得シャンスをも、平和的で、独占されない――少なくとも政治権力によっては独占されない――財貨交換の方向に押しやっているかぎりにおいてであった。
「帝国主義的」資本主義は昔から、資本主義的利害関心が政治におよぼす影響の、またこれとともに、政治的な膨張衝動の、通常の形態であったから、その全般的復活は、けっして偶然ではなく、見通せるかぎりの未来について、それがいよいよ勢いを増すであろうと予測せざるをえない。」
[8] 前注7、を参照。
[9] そのさいヴェーバーは、この「発展系列」論を導入する直前の「総論」で、つぎのとおり『旧約聖書』(「古代ユダヤ教」の基礎資料) の意義に触れている。「古代農業史は、その展開過程において古代都市史の転変ときわめて緊密な関連にあるので、前者を後者から切り離して考察することは不可能に近い。ことに都市が組織されなかった、比較を絶する広大な地域については、明らかな事情がわれわれに伝えられているのは、まったくの例外に止まる。都市の支配領域のなかで、都市以前の状態について伝えられていることも、もとよりますますもって僅かにすぎず、とりわけ当該民族自身の口から語り出されていることは、皆無に近い。ユダヤの最古の伝承は、ユダヤ国民が都市に組織される以前に編纂されたと推定されるが、それも、すでに数百年にわたって古い都市文化を経験し、かつ文化諸民族による外国人支配を受けた環境で生まれたものである。」(GAzSuWG: 34, MWGⅠ/6: 360, 渡辺・弓削訳: 55)
これに呼応して、「各論」の「イスラエル」篇のほうにも、つぎのような意義づけが見られる。「捕囚期以前のイスラエルの事情について、ある程度確実な知識を与えてくれるのは、『定立された法Gesetzgebungen』のうち、明らかに比較的古い時代に遡り、神に由来すると信じられていたため [そのままステロ化されて] 伝承された (と比較的確かに保証できる) 文面のみである。そうした法定立によって描き出されている状態を簡単に一瞥するのには、相応の理由がある。それというのも、ある一民族の政治的権力者と祭司的権力者が、都市に定住する以前にどういう状態にあったか、にかかわる知見が、当の民族自身の口から語り出されるのは、ここにおいてだけだからである。[とはいえ] 最古の律法 (出エジプト記第19章以下) が、なんらかの点で『始原的なursprünglich』状態をあらわし、この律法が、都市と貨幣経済とがまだまったく混入していない原始的な農民民族の法律である、という想定は、もとよりまったく支持できない。」(GAzSuWG: 83-84, MWGⅠ/6: 438-39, 渡辺・弓削訳: 158)
[10] ヴェーバーは、「社会科学ならびに社会政策にかかわる認識の『客観性』」論文 (1904) では、「社会科学」ないし「社会経済学」の研究に、①「予備研究」、②「特性把握」、③「因果帰属」、④「未来予知」の四階梯を区別し、①~③の手順にかんして、かなり詳細に論じている。拙著『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か――歴史研究への基礎的予備学』(2007、勁草書房)、参照。
[11] この課題が、繰り返すまでもなく、本HP 2016年欄に収載した「記録と随想10:ヴェーバーの『パーリア民』概念と『ユダヤ人』観 再考」の中心特別主題であり、本稿「記録と随想12」以下「マックス・ヴェーバーにおける『古代国家の発展図式』(『古代農業事情』)が『社会学的決疑論体系』(『経済と社会』旧稿)に再編成される経緯と意義」シリーズは、その拡大「補説Exkurs」にあたる。
初出:「折原浩のホームページ」2017.01.14より許可を得て転載
http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/zuisou12.htm
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study826:170206〕