評注「ヘーゲル哲学の解体新書―マルクスとニーチェ」 

著者: 合澤 清 あいざわきよし : ちきゅう座会員
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*『ヘーゲルからニーチェへ  19世紀思想における革命的断絶』上・下 カール・レーヴィット著 三島憲一訳(岩波文庫)

 

著者カール・レーヴィット(1897₋1973)の経歴について簡単に触れる。彼は学生時代にハイデガーの影響下で哲学を学び、『共同存在の現象学』で教授資格を得たが、ユダヤ系だったため、1933年にナチス政権により教職を剥奪された。1936年に来朝し1941年まで東北帝国大学哲学科で教鞭をとる。この仙台時代に本書が完成している。その後アメリカに渡り、1952年までそこで教え、52年にドイツへ帰国。晩年は、ハイデルベルク大学教授として静かな学究生活を送った。

この著名な本は、当初、同じく岩波書店から岩波現代叢書として翻訳出版されていた。翻訳をした柴田治三郎は、仙台時代のレーヴィット夫妻と親しく交流し、その講義にも出ていたことがあったという。

ただし、この翻訳本が出たのが1952₋3年頃のことであるため、訳文は甚だ古めかしく、それだけでも読むのに一苦労なのに、中身の濃さも素人にとっては尋常一様なものではない。学生時代に手に取って必死に活字を追った記憶があるが、残念ながらほとんど頭の中にとどまらなかった。

今回、三島憲一氏が翻訳の労をとったと知り、さっそく再読(ほとんど初読)してみた。こちら側の多少の準備期間もあったであろうが、さすがに素晴らしい訳を付けて頂いたと心から感謝するほかない。

この文庫本には、著者レーヴィットの思想についての興味深い解説もついているのだが、この評注ではその部分はほとんど参照せず、もっぱら本文中にヘーゲル哲学の解体人として登場する、青年ヘーゲル派の面々、その中でも特にマルクス。そしてキルケゴールやニーチェの思想をヘーゲル哲学と対質させて再検討していきたい。またこれら解体人たちの役割の背後で大きな作用を及ぼした「時代の大きな変遷」(大工業中心の産業資本主義化の進展)にも注目してみたいと思う。

1.本書の構成

著者レーヴィットは、初版の序文でこの本の目的を次のように述べている。「本書が目指しているのは、ヘーゲルによる完成とニーチェによる新たな始まりとの間の決定的な転換点を示し、すでに忘れられたエピソードが実は時代を画する意味を持っていることを現代の光に照らして明らかにする、このこと以上ではない」。

注目したいのは、この「時代を画する」「決定的な転換点」ということにある。これはどういう意味なのであろうか?

そこで気になるのは、別の個所でレーヴィットが、「19世紀においてドイツ人を本当に教育した人々は、ヘーゲルの弟子たちだったといったことをニーチェは折に触れて述べているが、この発言の意味は、ニーチェが意識していたよりもはるかに射程の長いものとなった。ヘーゲルから青年ヘーゲル派を経てニーチェに至る道は、神の死という思想を手掛かりに描くのが一番いいだろう」と書いていることである。ここでは「時代を画する決定的な転換点」は、ある程度の長いスパンを指している。この長期間に事態はどのように進展したのか、このことの究明が本書の要であろう。ただし、ニーチェにはマルクスを読んだ形跡は全くないことを一言付言しておく。

この本は二部構成よりなっている。第一部(上巻)は、19世紀における精神の歴史、第二部(下巻)は、市民的=キリスト教的世界の歴史、である。以下、目次の大まかな見出しのみを掲げておく。

第一部 19世紀における精神の歴史

序章 ゲーテとヘーゲル

時代の精神的潮流の起源—ヘーゲルの精神の歴史哲学から見る

第一章 ヘーゲルにおける世界史と精神史の完成—歴史の終結

第二章 老年ヘーゲル派、青年ヘーゲル派、新ヘーゲル派

第三章 マルクスとキルケゴールの決断—ヘーゲル的媒介の解体

歴史的時間の哲学から永遠性の希求へ

第四章 われわれの時代及び永遠性の哲学者ニーチェ

第五章 時代の精神と永遠性への問い

第二部 市民的=キリスト教的世界の歴史

第一章 市民社会の問題

第二章 労働の問題

第三章 教養の問題

第四章 人間性の問題

第五章 キリスト教の問題

2.本書全体の素描

評注の性格上、各章ごとの解説を書く余裕はないので、まず、この書全体の流れについて概観しておきたい。最初に強調されているのは、ヘーゲル哲学の壮大な体系の基盤にはキリスト教(プロテスタント)があったということである。真理を表象という形式において捉えた宗教(プロテスタンティズム)は、ヘーゲルによって概念という形式の哲学へと高められ、展開される。

そして、レーヴィットが宗教に絡めて問題の中心に据えているのは、「自由なる個人」と「共同社会」との間に持ち上がる矛盾・相克である。キリスト教では、パラダイスに暮らすアダムとイブにとって、個人の自由と楽園生活とは、何の違和感もない一体のものであった。「知恵のリンゴ」を食べ、意識に目覚めるとともに、そこに分裂がもたらされることになる。諸個人間の分裂、個人と共同体社会との間の分裂や軋轢が生じてくる。西欧の近代思想史は、この対立をどうすれば克服できるかを主要課題の一つとして苦慮してきたともみなしうる(ルソーの「社会契約論」、マルクスの階級なき社会、など)。

ヘーゲルは、この「分裂や対立」という事態を、歴史的展開にとって必然的なものとして捉えたうえで、いかにしてこれを止揚すべきかに腐心する。彼の思想においては、諸個人の「最高の自由」は、「最高の共同体」において実現されるのであり、分裂や対立は再び統一へともたらされる(止揚される)べきものとされる。

レーヴィットの見立ては、ヘーゲルはプロテスタンティズムの上にこのような「分裂と対立の時代」の止揚を提唱したが、ヘーゲルに続く者たちは、この宗教的ベースの否定(青年ヘーゲル派やニーチェ)、あるいは肯定(キルケゴール)においてヘーゲルと対決しつつ、同じく「分裂と対立の時代」の超克を課題にしたというものである。

ここで見落とせないのは、これら後人たちとヘーゲルの間の社会的な時代較差である。ヘーゲルはリカードとほぼ同時代人であり、『法哲学』によれば、経済学に並々ならぬ興味、造詣を持っていたようである(ジェームズ・ステュアート、アダム・スミス、J.B.セー、リカードなどを批判的に読破・吸収している)。しかし、ヘーゲルが亡くなった1831年には、マルクスはまだ13歳にすぎず、ヘーゲルの講義に出席したことのあるキルケゴールも18歳、ニーチェはまだ生まれていないのだ。推して知るべし。

これらヘーゲルの後続者(解体=包丁人)たちのそれぞれの立脚点、思想的なスタンス(解体者の振るう出刃包丁)には、彼らに特有の時代性が鮮明に刻印されている。

後続人たちが繰り広げるヘーゲル哲学批判、あるいはお互い同士の間での熾烈な批判合戦、かかる修羅場を通じてヘーゲル哲学は解体され、新たな時代の哲学への「夜明け」(?)へとつなげられた、というのがこの著の主な流れである。「夜明け 」とは、マルクスの「革命の哲学」、あるいはニーチェの「永遠回帰」「超人」思想、ということになるであろうか?

いずれにせよ、この書でのレーヴィットの出刃のとば口は、「神の死」に置かれている。「神は死んだ」はニーチェのセリフとして有名であり、著者もヘーゲルからニーチェへのゲシュタルト変換のキー・ワードと見たのであろう。しかし、実のところ、このセリフは若いころのヘーゲルの「神学論文集」にすでにみうけられる。このことも併せて十分考慮されるべきではなかっただろうか。「神の死」とは、現実社会の崩壊=無秩序化(既成の価値観の喪失)を、そして未来への希望と展望の消失を深刻に反映した「うめき声」であるのではないだろうか。

実は、レーヴィットもヘーゲルのこの点にほんの少しではあるがコミットしている。その上で、彼の見るところでは、ヘーゲルは「初期」から「後期」にかけて思想的に「転向」している、というものである。ヘーゲルの「不徹底さ」を非難するマルクスにも同様の見方があったのかもしれない。

3.「観念論者ヘーゲルにはアクチュアリティ(現実性)が欠けている」という批判

フォイエルバッハの『キリスト教の本質』が出版されたのは1842年である。彼は、ヘーゲルの思弁哲学は「生きた人間」の現実の感性を否定することで実在する人間をも否定することになっている。しかし実際には、「直感や感情や情熱によって中断されるような思考のみが、『現実』とはなんであるかを理論的にも把握することが出来る」のであるという。さらに、「思弁哲学とは実際には神学であり、神学の秘密は人間学にある」との立場からヘーゲルを批判するのであるが、周知のように、この主張はたちまち青年ヘーゲル派を魅了し、アクチュアリティをめぐる様々な議論が興起されることになる。ここではその詳細には触れず、レーヴィットからのいくつかの引用のみで済ませて、ヘーゲルのアクチュアリティに関しては、次の「労働論」の個所で検討したいと思う。

≫マルクスとキルケゴールのヘーゲル批判も、本当の現実存在という概念をめぐるものだった。ルーゲは政治的共同体としての国家の倫理的・政治的在りようethisch-politische Existenzに主として目を向けていた。そして、フォイエルバッハは、肉体を備えた人間の感覚的実存sinnliche Existenzに、マルクスは大衆の経済的生活wirtschaftliche Existenzに、そしてキルケゴールは、単独者の倫理的=宗教的実存ethisch-religiöse Existenzに、それぞれ目を向けることになった。ルーゲにあっては、歴史上の存在geschichtliche Existenzは、政治的な意味での「利害関心」によって解き明かされてくる。フォイエルバッハにあっては、現実の存在一般は、感覚と情熱によって、マルクスにあっては、社会的現実存在は、社会的実践としての感覚的活動によって、キルケゴールにあっては、倫理的現実は、内的行為の情熱によって、それぞれ解き明かされるとされた。(上巻p.333)≪

≫現実をヘーゲルが捉えそこなった理由をマルクスは、ヘーゲルが自分の原則を徹底的に用いなかったことにみたが、キルケゴールはマルクスとは違ってそもそもヘーゲルが本質を現実存在と同一化したことにみていた。まさにそれゆえにヘーゲルは〈現実の〉実存を記述するまでには至らず、理念的な〈概念上の実存〉しか描けなかった、というのだ。(上巻p.350)≪

面白いのは、唯物論者フォイエルバッハの「実在論」と宗教的な実存主義者キルケゴールの「実存」が、非常によく似通っている点である。

≫キルケゴールから見れば、本来的で「偶然的なもの」、あるいは「奇跡的なこと」を、ヘーゲルは、真の現実の概念から排除してしまった。だがそれは、そもそも何ものかが存在するというそのことdaß、つまり、私がそもそも存在しているということそのことなのだ。まさにこの単にそこにあるというそのことDaß-Seinこそが、現実に対する絶対的な〈関心〉をもたらす、つまり現実に関わった存在となることなのだ。(上巻p.354)≪

少し今までの問題点を整理しておきたい。第一は、「ヘーゲルによる完成とニーチェによる新たな始まり」とは何かということであった。第二は、「時代を画する決定的な転換点」とは何なのか。第三は、「ヘーゲル哲学の壮大な体系の基盤にはキリスト教(プロテスタント)があったということ」について。第四は、「自由なる個人」と「共同社会」との間に持ち上がる矛盾・相克はどのように超克(止揚)されたか。第五は、「神の死」の意味する社会現象。第六は、以上の諸問題をアクチュアリティに関連付けて考えるとどうか?以上の六点に絞って考えたいと思う。

議論の順序は逆であるが、以下で、全体を見やすくするために、まず第六に関連した包括的な問題から入りたい。ここには第二と第五点目が絡んでくる。この問題の手掛かりとして、「ヘーゲルにはアクチュアリティ(現実性)が欠けていた」という批判の真偽を確かめるためにヘーゲルの「労働論」を取り上げて考察したいと思う。

4.ヘーゲルの「労働論」を再考する

管見に触れた限りではあるが、早い時期に若いヘーゲルの「労働論」を主題的に取り上げたのはジョルジュ・ルカーチだったように思う。ここではこの問題に触れる余裕はないが、昔、京都大学の出口勇蔵の研究グループが『経済学と弁証法』という書物で、ルカーチのこの議論に関説していたことがあった。この本を読んだとき、マルクスとのあまりの相似に、ショックを受けた記憶がある。

今改めて、ヘーゲルの労働論の射程がどの位のもので、それがマルクスとどう違っているのか、そしてレーヴィットはそれをどのように評価しているのか、について考えてみたい。

ヘーゲルは、「労働」を単なる経済活動としてのみ見なすのではなく、それを通して人間は自分の生活を生み出し、世界を形成するのだ、という。

マルクスは『ドイツイデオロギー』において次のように述べる。「人間は、彼らの生活手段を生産することによって、間接に彼らの物質的生活そのものを生産する」(古在由重訳 岩波文庫)

両者を較べてみてすぐ気が付くのは、ヘーゲルが「世界の形成」という言葉で、いかにもヘーゲルらしい精神世界に踏み込んでいるという点である。確かにその通りで、ヘーゲルは単なる「物質的生活」(生活様式)の生産以上に人倫(一定の文化、文明、秩序、共同体精神)に重点を置いて考えている。つまり、「労働」とはただ働いて、自分たちの肉体や生活を再生産するに過ぎないものではなく、世界を自分たちの目的意識に合わせて形成(改造)するものなのだという。

このことは例えば味覚の発達ということについて考えてみればよくわかる。

「動物が持っている舌は、結局彼らの英知に相応したもので、大したものではない。…ところが人間の舌に至っては、その組織がデリケートであり、…崇高な作用を付与されている…。…動物の味覚には限界がある」。ところが人間は、長い期間をかけて築き上げた文化の結果、動物と異なる「賞味力が生まれてくる。事実人間においては味覚器官が珍しい感性を示している。…美食愛が人間占有のものである」(ブリア=サヴァラン『美味礼讃』)

このことをヘーゲルは道具=労働手段(ひいては機械)に関連付けながら論述している。

農業が比較的多く自然環境に向き合い、それに依拠するのに対して、工業は道具を介して対象に向かい合い、それを加工して多様な生産物を大量に社会にもたらす。

≫動物は額に汗して働くことはない。動物は自己の欲求を自然によって直接的に満足させる。それに対して人間は、自分の食べるパンを間接的に作り出し、その際に自然はただ手段としてのみ利用する。欲求とその満足との間の〈媒介〉は、労働を通じて間接的になされる。その際に労働はまた道具や機械という間接的手段によって媒介されている。労働とは人間と彼の世界との間の〈中間Mitte〉に位置する。媒介の運動である以上労働は、ただ破壊という意味で否定的なのではない。むしろ、加工し、〈形成する〉かたちでなされる、自然によって存在するこの世界の破壊は、積極的行為なのだ。(下巻pp.85-6)≪

しかしヘーゲルの恐るべき慧眼は、このような積極的行為の反面で、道具が問題性をはらんでいることを既に見抜いている。つまりこの道具はやがて機械制大工業へと自己を展開し、そして産業合理化を生み出さずにおかない、ということをである。

ヘーゲルは次のように述べている。

「人間は、自らが機械を使って自然を…加工することによって、彼の労働の必要性を止揚するわけではなく、労働を先延ばしにし、自然から切り離し、…人間に残る労働自身はますます機械的になっていく。人間は労働を減らしたとしても、それは全体のために減らしたにすぎず、一人一人にとっては減らしたことにならないどころか、むしろ増えていくのだ。なぜなら労働が機械的になるにつれて、その価値も減少してゆき、こうしたやり方で人間はますますたくさん働かねばならなくなるからだ」(Enc.§526)

「死んだ労働」…「ひとりひとりの個人の技能は、限りなく狭いものとなり、工場労働者の意識は、極度にすり減った状態に至る」「盲目の従属関係」「個別化」(『法哲学』§190,191)

つまり、次のような事態が出来するというのである。

≫労働はまずはなんといっても、一人一人の個人の直接的欲求を満足させるためのものだが、そうした労働が抽象的かつ普遍的abstract-allgemeinな労働となる。つまり、自分自身が必要なものを労働によって自ら作ることはもはや誰もしない。…一切の労働が相互に普遍的に依存関係にあることを通じて、間接的に自分の欲求の満足をも許してくれること…労働がこのように一個の労働システムへと一般化されることの弁証法的な反面は、労働の専門化である。同じく、労働はそれぞれ特殊な労働へと単純化されることによって、労働の多様化が生じる。(下巻p.89)≪

ヘーゲルは、この労働の物的な現実、廣松渉のいわゆる「物象化」の最たるものとして、「物質として現存する概念」としての「貨幣」にみている。

しかし、ここではこれ以上長い引用は不要であろう。ヘーゲルがここで見事にマルクスを先取りしていること、このことを確認していただければそれでよいと思う。

その上で、改めて「ヘーゲルのアクチュアリティ」について借問したい。ヘーゲルの時代とは、イギリスでは「産業革命の時代」ではあるが、遅れたヨーロッパ大陸では、まだナポレオン戦争(ナポレオンはヘーゲルより一歳年上)の時代なのだ。それでも、彼はマルクスを超えるリアリティを持っていたと言えないだろうか。

ヘーゲルの死は1831年であるが、大陸ヨーロッパが急速に工業化していくのは、実はこれ以後のことである(cf.遅塚忠躬『ヨーロッパの革命』講談社)。

「時代を画する決定的な転換点」「神の死」が意味するのは、この19世紀半ば以降に大陸で起きた急速な産業化と、それに伴う社会秩序かつ人心に及ぼす大混乱の思想的表れと解することが出来ると思う。そのことは1848年の革命について考えてみればわかりやすい(評者は、この問題について小論=未発表を書いたことがある)。

5.残余の問題についての私見

「ヘーゲル哲学とプロテスタンティズムの関係」「個人の自由と共同体社会の関係」「ヘーゲルからニーチェへの思想的断絶」の問題、これらのどれ一つをとっても、簡単に片がつく問題とは思えないが、あえてここではいくつかの例証をあげながらこれらの課題を強引に処理(?)したいと思う。

まず、ヘーゲル自身は、その著書のあちらこちらで自分は「プロテスタントである」と述べている。しかし正統ヘーゲル主義者として、ヘーゲルの宗教哲学講義をアシストしたブルーノ・バウアーが、ヘーゲルの死後、匿名で出版した『無神論者と反キリストであるヘーゲルへの最後の審判ラッパ—最後通牒』(1841年)は、題名からわかるように、ヘーゲルを無神論者として扱っている。

そして、ヘーゲル自身も神を「人倫Sittlichkeit」(共同体の精神、文化)に内在するものであり、決して超越神ではないと繰り返し述べているし、特に若い時代の「神学論文集」では、世界の変革がキリスト教への帰依という「迂路(回り道)」を通らなければできないという点(これは「外部注入論」であり、個人の自立が否定される)への猛烈な批判を行っている(ソクラテス評価)。

しかし、一方で、分裂の時代を「個体性の自立」として捉え、このことをキリスト教の成立と重ね合わせて議論してもいる。

結局ヘーゲルは、数千年にわたり、西欧文化として定着化、固定化されてきたもの、したがって人々の表象(イメージ、常識)を形成する基盤を再び概念化(流動化)し、それを哲学体系の中で再構築しようとした、とみることが出来るのではないかと思う。

キリスト教(プロテスタンティズム)は、哲学体系の中の一契機の役割を担わされることになったのではないか。

「ひとりの自由、万人の自由」という主張は、少なくとも『精神現象学』ではすでに論じられている。有名な「主と下僕」の弁証法的転倒の議論は、サン・ドミンゴ島における世界史上初の黒人奴隷による政権樹立(ナポレオン軍により鎮圧されたが)をモデルにしたともいわれている。彼は一貫して奴隷制度に反対し続けている(「奴隷制は不法がまだ法である世界に属する」『法哲学』)。しかし、同じく『法哲学』の中で彼は、キリスト教のように無条件での人間の自由を唱えているわけではなく、(奴隷制度は)抑圧する人間たちが不法であるだけでなく、被抑圧者たち自身の不法でもある、といって闘争の必要性に言及している。付け加えれば、レーヴィットのヘーゲル論では、ヘーゲルが最も強調している「相互承認へ向けた戦い」が欠落している。それゆえに、ヘーゲルの「止揚」を単に観念界での問題として処理したのである。

また実践意識と理論意識の違いは、自由意志の情熱の方向性の違いに過ぎないとも述べているのであるが、実際に若いころのヘーゲルが、フランス革命に共鳴して実践家を目指していたこと(例えば、ベルンの家庭教師時代に、当時ドイツでは閲覧を禁止されていた「ドイツ・ジャコバン派」の機関誌を系統的に読み漁り、イギリスの経済学者の本を研究していたことは、フランスのジャック・ドントらの研究によって証明されている。尚、ジャック・ドントによれば、ベルリン大学教授時代のヘーゲルは、プロイセンの官憲から二重マークされていたそうで、「ヘーゲル毒殺説」まである(cf.『ヘーゲル伝』勁草書房)という。

ヘーゲル「転向説」、あるいは一時流行った「プロイセンの御用学者説」は、近年の研究によってほぼ反証されている。

この節の最後に、ニーチェとキルケゴールに簡単に触れておきたいが、生憎ニーチェもキルケゴールも主題的に研究したことはないため、あくまでこのレーヴィットの本のトレースでしかない。そして両者ともに「危機の時代の落とし子」であり、極めて繊細な神経能力をもってこの事態を感知し、それ故自己の内部へと閉じこもることになったのではなかったろうか、というのが評者たる私の感想である。

キルケゴールは自分の時代を、「世界が重要な差異を水平化する方向へと進んでいるがゆえに」「解体の時代」と捉える。そして、これら全体化、画一化、平準化、(ハイデガーの言う)das Mann化への抵抗から、特殊な個人(自己)へと逃げ込んだのではないか。彼の「単独者」の思想の背後には次のような感覚が潜んでいる。「 類的存在となれば、人間はみな、一つの工場で同じ労働者になり、同じ服装をして、同じ鍋から同じものを食べることになる」。彼は社会主義を嫌悪する、なぜならそこでは個人の特性が消えてしまうからだ、と。

キルケゴールは、自分が本来的に強度の憂鬱症であること、そして自分の思想が多分にそのことに負っているらしいことを十分に意識していた。

≫…誰もが単独者として自己自身のうちにその目的論を持っているには違いないが、それでも個人はやはり市民的生活とは切り離して考えることのできない存在なのだ。「抽象的な意味で」自分だけで十分であるかのように、あるいは十分でありうるかのように考えるわけにはいかない、と彼は言う。単独者の自我はむしろ絶対的に具体的である。(下巻p.121)≪

≫遺産で暮らしていたキルケゴールには、自分が例外的な生活をしていることの問題性は明らかだった。(同上p.126)≪

≫路上で倒れる数か月前にキルケゴールは、無利子で預けておいた財産の最後の持ち分を銀行からおろしていた。(同上p.128)≪

ニーチェとヘーゲルとの関連について、レーヴィットは次のように述べる。

≫世俗化したわれわれの世界とキリスト教が結び付きえないこの事態を正当化した最後の存在として闘うべき相手をニーチェは、その点ではフォイエルバッハやキルケゴールと同じに、ヘーゲルにみている。というのも、ニーチェから見るとレッシングに由来する、神学のラディカルな批判の流れと、この神学のロマン主義的な保護という二つの流れがヘーゲルにおいて頂点に達しているからだ。それゆえヘーゲルこそは、「正直な無神論」の到来を引き延ばした最後の大きな存在である。それは、「生が神性を備えているのだと、最後にはわれわれに思い込ませようとする、壮大な試み」に適っている。「正直な無神論」を引き延ばそうとするこの企てに対抗してニーチェが自分の課題と見たのは、「危機を、それとともに無神論の問題に関して最高の決定を引き起こすこと」であった。そして、こうした未来をはらんだ無神論の先駆的形態が、ショーペンハウエルの「ペシミズム」にある、ととりあえず見た。だがやがて、これはヨーロッパの「ニヒリズム」の自己克服の問題なのだというように、だんだんと強い調子で、そして次第に細部にわたって論じるようになった。(下巻p.311)≪

今日の社会にも通じるものとして、「ペシミズム」と「ニヒリズム」を考えることが出来る。未来に対する希望を亡くした、破滅的な社会、明日にも「核戦争」が勃発して、全人類の絶滅が起きるかもしれない危機的な状況をはらんだ世界、だから刹那的に今だけを享受すればよいのではないか、マックス・ヴェーバーの言う「精神なき専門人、心情なき享楽人」の世界の出現である。ニーチェから見れば、ヘーゲルはまだこういう「絶望的世界」にあって、その根源において「生の神性」を説いている「とんでもない神学者」だということになるのではないだろうか。

≫キリスト教の真理をただ主観的かつ歴史的観点からのみ論じるようになってしまっては、キリスト教の真理なるものも「おしまい」である。「塩には塩気がなくなってしまった」(『マタイ伝』5章13節)。残るのはただ教養人たちによる懐疑的な「屁理屈的説明」と高慢で空疎な言辞だけ…。(上巻p.102)≪

しかし、先に「へーゲルの労働論」においてご覧になったように、ヘーゲルがこの世界の現状に無関心な観念論哲学者だったという批判は全くの的外れではないだろうか。むしろこの現実をきわめてヴィヴィッドにとらえ、それと格闘した一人とみなすべきではないのか。確かにヘーゲルは、『法哲学』の最後に「世界史の審判」という言葉を書いている、しかし、彼にあっては、既成の「悟性国家」(外的、強制的な存在)は「理性的」なもの(自由の実現)へと再構築されるべきであるという理念が根付いている。彼にとって「生」とは、歴史に備わる絶対的な力であり、その現実的な表れが「世界精神」に他ならない。「世界精神」は否定の契機を含む。それは「否定の否定」という経過をとらざるを得ない。

実存主義者は、ヘーゲルには生きた個人(特性を持った個人)が存在しない、と非難する。

しかし、ヘーゲルは、われわれ個々人の有する、生命の「有限性」という契機をも十分考慮に入れている。この世を形成するすべてが、われわれの「死」ということによって消滅する。この思考があるが故に、彼は「無神論者(アンチ・キリスト者)」だという疑いをかけられたのである。

レーヴィットのこの書の中から、ニーチェについて書かれた個所を少し抜粋しておきたい。

≫キリスト教批判においてニーチェは、ヘーゲルの宗教批判に由来するブルーノ・バウアーの宗教批判と通じるところがある。…マルクスとキルケゴールの後でニーチェこそは、市民的=キリスト教的世界の没落を彼らと同じ根本的分析のテーマにした唯一の存在だからである。(上巻pp.412)≪

≫ヘーゲルは、神が〈精神〉であるとするキリスト教の教えを哲学的な在りようにと高めた。ニーチェは、神が精神であると言ったりするものは、不信仰への最大の歩みを果たすものだと言い放った。不信仰へのこの歩みをただすには、ただ一つ肉体を持った神(ディオニュソス)の再生によるしかない、と彼は述べるのだ。(上巻p.440)≪

≫人間の本性とは、決してヒューマンなものではなく、〈力への意志〉なのだ、とされる。…(市民的デモクラシーへの軽蔑)畜群動物へと人間を矮小化するだけだ。…デモクラシーの中での人間の水平化によってもたらされる人間の矮小化、そして支配者カーストの育成による個々の人間の能力上昇、この二つは表裏一体の関係にある。…(ここからニーチェは二つの全く違う予見をしている)。一方は「超人の理念」である。幸福と快適を追い求める、品性の序列の最も卑しい段階の者たち、たいていの人間の〈凡庸さ〉〈畜軍動物〉に対して、これらを支配し先導する〈例外〉としての支配カースト、〈先導獣〉が現れる。もう一つ別の予見では、「凡庸な」人々こそが未来に生き残れる人々であり、彼らが例外的人間をリードして未来を保証し、担うことになる。(下巻pp.74-9)≪

ニーチェについてこれ以上述べる必要はないように思う。

 

この小論の締めくくりとしては、どうしてもマルクスを取り上げる必要があるだろう。そこで、先の「ヘーゲルの労働論」に絡めて、マルクスのヘーゲル批判(これは多分にレーヴィット自身の反ヘーゲル論でもある)を紹介しておく。

≫マルクスにおいて〈抽象的〉とされる労働は、精神の積極的普遍性というヘーゲル的な意味での労働ではもはやない。むしろ、労働において自己を全体として確認しようと望む具体的な人間の全体性が捨象されているという否定的な意味なのである。この抽象化の極限的事態は、労働者が、自分の生を生産的な形で外部に表現する(外化する)のでなく、そもそも仕事そのものを見つけるために、自己自身を外部に売却することにある。労働者がただ単に裸の生命が失われることのないように自分を守って戦っているだけの状況では、彼の人生全体はただ生きるための手段Lebensmittel にすぎなくなる。動物は直接に生命活動そのものであるが、意欲と知によって世界を産出する人間は、もしも食べ、飲み、産むという動物的機能としてのみ自らを感じ、労働を強要されている限り、自分は動物でしかないと思うなら、人間的存在の段階以下に落ち込んでしまう。彼の一切の本質である自由な自己活動は、パンを得るための活動となり、身体的生存のための原初的欲求を満足させるただの手段へと引き落とされる。何かに労働を加えることによって自分自身として存在するbei sich selbst sein代わりに、労働者は、労働関係に入っていないときにだけ、自分自身として存在する、つまり自由なのだ。(下巻pp.104-5)≪

このマルクスの批判は、先にみたヘーゲルのトレースではないかとさえ思える。「ヘーゲルに拠るヘーゲル批判」。この批判は、キルケゴールに対しては的中していると思う。しかし、ヘーゲルに対しての批判とは言えないだろう。以前にも何度か紹介したことがあるが、ヘーゲルにはすでに「価値形態論」もあるし、「自由時間論」もある(『大論理学』『法哲学』をご覧いただきたい)。

ヘーゲルが理念として掲げる「理性国家」(諸個人の全き自由、最高の共同体)=国家なきコムニスムス社会、の実現はいかにして可能であろうか、われわれ後人に残された課題であろう。

2022.12.10記

 

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