負債経済とは何か――共同研究のための課題提案――

序文
 リーマン・ショックの原因となったサブプライム・ローンの破綻は、経済危機の救済策を変化させ、各国中央銀行の前例なき金融緩和と低金利政策は、資本に利子がつくという資本主義の原則を否定し、結果として社会の崩壊が始まり、資本主義の破局を予感させ、資本主義の終焉についての著作が量産されるに至っている。
 このようなときに、現状分析の確かな視点が必要である。私は、1980年代後半から信用論の研究に手をつけていたが、積年の疑問が負債経済論の提起によって解消したと感じている。私の提起する負債経済論は、ともに2011年に書かれた、ラッツアラート『借金人間製造工場』(作品社、2012年)、ハーヴェイ『反乱する都市』(作品社、2013年)、グレーバー『負債論』(以文社、2016年)の三冊が提起している問題意識を、日本の『資本論』研究の蓄積から私が読み取った理論にもとづいて、整理したものである。
 日本の『資本論』研究は、商品価値論や信用論の領域においては国際的に通用すると思われるが、言語の制約があって国際的には理解されてはいない。遅まきながら、英文での発信を試みることで、世界の知性に貢献したい。

第1章 負債経済論の意義

1.「負債経済」という用語

 従来の経済学では「負債経済」という言葉はなかった。経済学は主として資本を扱う学問だから、企業の借り入れについては考察しているが、単なる借金(高利資本からの債務)の場合はその対象外とされてきた。実際日本の研究者による共同研究をまとめた『消費者金融論研究』という研究書の発行も、やっと2011年になってからである。
 負債という言葉も、せいぜい複式簿記の解説書に出てくるくらいで、貸借対照表の一項目であり、それも「現状では負債に関する一貫した定義が存在するとはいい難い。」(西澤健次『負債認識論』国元書房、2005年)と述べられている。だから「負債経済」が重要だといっても経済学の専門家には理解されないかもしれない。
 しかし、住宅ローンや奨学金、さらにはカードローンなどで負債を抱えている人々には負債は切実な問題である。会計学の負債や企業の借り入れとは違って、今日問題になっている現実の負債は人びと個々人の借金である。しかもこの場合には借金は消費の目的で行うので、経済学のカテゴリーとしては高利資本に妥当する。貸手のお金は貸付金から利子をとる利子生み資本であるが、借り手にとっては、それが企業の場合のように剰余を産む資本として働くものではなく、返済義務のある単なる債務で、将来の収入から返済せねばならないものだ。このように、利子生み資本には二種類あり、企業への貸付と区別するために「負債経済」と「負債資本」という用語を使うことにした。そうすると現在の経済の問題点と、社会が崩壊しているさまが、眼に見えるようになってくる。
 負債経済という問題意識が生まれたのは、ラッツアラートの『借金人間製造工場』(作品社、2012年)が「負債経済」という概念を提起していたことを知ったからだった。ラッツアラートは次のように述べている。
 「政治的に見れば、<負債経済>の方が、金融経済、あるいは金融資本主義よりも適切な表現のように思われる。」(『借金人間製造工場』、39頁)
 ラッツアラートは国債や消費者ローンなどの、現在の社会で膨張し続けている負債について考察し、これは結局「借金人間」を製造しているのではないか、このような社会は永続しないと主張している。金融という言葉はお金を融通するという意味で、確かに消費者ローンでもお金が融通されていることには変わりはない。しかし、最近の肥大化した負債は、生産のためにお金を融通して膨れ上がっているわけではなく、生産への投資に必要なお金を上回る過剰なお金(過剰資本)が膨大に蓄積されていて、それがキャピタルゲイン(投機取引で利ザヤを稼ぐ)を求めてグローバル資本市場で徘徊しているのである。グローバル資本市場で、この過剰なお金が期待しているハイリスク・ハイリターンな金融商品を作り出すために、銀行などの金融機関が借金人間を製造しているとみるラッツアラートにとっては、従来生産のための融資を意味していた金融経済という言葉を負債経済に変更することで、この現在の信用制度(金融経済を制度的な面から考察したもの)の問題点をあぶりだそうとしているのだ。
 この考え方は、1970年代後半からアメリカで住宅ローンの証券化が始まり、アメリカの公社債市場(当時はこの市場はまだグローバル化は進んではいなかった)でそれがジャンクボンド(リスクが大きいがリターンも大きい債券)として相当な分量で売買されるようになったことを知って、当時からこの問題の分析をはじめていた私にとっては、すごく腑に落ちる提案だった。それまでも私は金融が肥大化し、実体経済を振り回しているという現実をとらえる考え方をいろいろと提案し、金融資本主義ではなくて信用資本主義(他人のお金で投機している資本)や、投機・信用資本主義といった用語を用い、「金融」という言葉や「金融資本」という言葉は銀行資本と産業資本の癒着というその本来の定義からすれば、今や存在しないと主張してきたのだが、なかなか賛同を得られなかった。しかし負債経済という新たな考え方を生かせば、説得的な理論が生み出されるのではないかと考えたのだ。

2.負債経済論の意義

 負債経済の提起にあたり、それがどのような意義を持つかについて先走ってまとめておこう。

 第一に、それは新自由主義批判のまったく新しい観点を提供できることだ。普通、「市場原理主義」といって批判されている新自由主義だが、これは全く誤った批判であって、このような批判によっては新自由主義と対抗できない。新自由主義の本質は資本市場(金融市場)の自由化であり、これを基準に労働市場や商品市場の「自由化」を進めてきた。新自由主義は、これら三つの市場の規制緩和をおこない、自己責任論を振りかざすことで、三つの市場の原理をそれぞれ否定してきたのだ。
 この問題はある種理解が困難なので、くどいようだが説明しておこう。そもそも市場には主なものとして、商品市場、労働市場、金融市場があり、この三つの市場の原理はそれぞれ異なっている。自由はこれら三つの市場原理に共通しているものの、一つの要素でしかない。自由だけを強調し、「自由化」によってそれぞれの市場の規制を廃止することは、それぞれの市場原理の否定となる。いちばんわかりやすいのが労働市場である。この市場では資本家と労働者との間の労働力の売買がなされているのであるが、両者は平等な商品所有者ではなく、資本家の方が圧倒的に経済的力を持っている。だから、この市場での取引相手相互の間に形式的ではあるが、自由と平等を保障するために、労働者には団結権を始めとする労働三権が認められている。これが労働市場での市場原理であり、「自由化」ということでこの権利を廃止すれば、労働市場の原理は否定され、市場における取引相手相互の自由と平等は失われてしまうのだ。また商品市場でも商品の偽装などは販売者が罰せられるのであって、決して購買者の自己責任ではない。金融市場のみが売買ではなくて投資なので、自己責任が発生するが、しかし、この市場でも騙しやインサイダー取引は犯罪となる。金融市場においても、決して自由ばかりではない。新自由主義は三つの市場の市場原理を破壊することで、すべての市場に自己責任論を押し付けてきたのだ。
 第二に、なぜ新自由主義が行き詰まっているかを単純明快に解明できることだ。資本市場の自由化が生み出したものこそ、負債経済を土台にした負債資本という資本主義の皮をかぶった癌細胞である。新自由主義はグローバル資本市場で負債経済を拡大することで、この癌細胞をグローバルに振り撒き、資本主義的生産の総過程を阻害する要因をつくり出している。リーマン・ショックの後始末としての各国中央銀行の前例なき金融緩和政策やゼロ金利政策は、負債経済と負債資本のヘゲモニーを防衛することを意味しているが、それによって、資本に利子が付くという資本主義の原則の否定をしているのだ。
 第三に、この間の社会崩壊の原因を明確に摘出できることだ。新自由主義が導入した負債経済と負債資本によってゆがめられた資本主義が、この40年間で、雇用の崩壊、年金の崩壊、社会福祉の崩壊をもたらし、社会の存続が危うくされている。
 第四に、社会運動の再定義と再建も可能となることだ。新自由主義による既得権益批判は、負債経済拡大のためのものだった。負債経済批判によって、既得権益批判の問題点を明らかにし、新たな対決軸をつくり出すべきである。「市場原理主義」という批判だと、批判者側は単なる既得権益を防衛する「保守派」とみなされ、崩壊しつつある社会への不安感から「革命」や「革新」を求めている今日の若者たちに受け入れられず、スルーされてしまうことになる。
 第五に、負債経済論の観点は、資本市場で流通している金融商品の性質を簡単に分別することができる。投資銀行はわかってやっているのだが、もし当局がその気になれば、簡単に規制可能なのだ。つまり本当に有効な金融規制のための不可欠な分別尺度を提供できる。
 私は、機能資本家に投資され、貸し付けられた貨幣が資本として機能している近代的利子生み資本と、そうではない貸付、たとえば住宅ローンなどの消費者金融を区別して、それらの債務が証券化されることで、高利資本が変異して、負債資本となると考えて負債経済論を提起した。これはリーマン・ショックの原因であるサブプライム・ローンの破綻の分析から導き出された。研究者なら誰でも近代的利子生み資本と高利資本との区別をしているが、その区別にもとづいて、高利資本の変異体としてサブプライム・ローンを根に持つ証券であるCMO(モーゲージ担保証券)やCDO(債務担保証券)を負債資本と命名したことが新しい問題提起である。いわばコロンブスの卵のような発見だ。

第2章 負債経済とは何か

負債経済とは何かについて、テーゼ風にまとめてみた。

(1)負債経済とは、その定義
 負債経済とは、グローバル資本市場において、お金にお金を生ませる手段である金融商品の由来が、債務を資本として機能させる近代的利子生み資本とは異なるものによって形成される経済領域を指す。近代的利子生み資本とは異なるものとは、国債や土地があり、また、投資銀行によって消費者金融などの債務の証券化による金融商品がつくりだされている。これらは貸し付けた貨幣が資本として機能してはいない、高利資本を根に持つ負債である。これらの負債(債権・債務関係)及びそれに根をもつ金融商品が売買される経済領域(グローバル資本市場も含む)を負債経済と呼ぶ。

(2)グローバル資本市場と国際金融市場との違い
 グローバル資本市場とは1970年代に入って新しく形成されたもので、従来の国際金融市場が変容したものである。従来は貿易に伴う外国為替市場とロンドンのシティやニューヨークのウォール街の株式市場や公社債市場のように、国際的な金融取引が行われている市場だった。
 今日では事業に投資するのに必要なお金以上の過剰な貨幣が蓄積され、このお金を運用する市場が、従来の国際金融市場の中に、主として投機的取引がなされている場として、新たにグローバル資本市場が成長してきた。最初は変動相場制に移行して以降の外国為替市場であったが、今日ではそれに加えて、ニューヨークのウォール街の株式市場と公社債市場が中心となって、世界中の資本市場と連携して、巨大な金融機関や投資家がグローバルに投機的な取引をしている。

(3)二種類の負債:利子生み資本の二類型
 借りた金で儲ける仕方は古くからあった。古代では商人は、外国貿易の際に借金し、それで買い付けた商品の販売で儲けていた。他方で、こうして蓄積した貨幣を飢饉の時などに農民に貸し付けた。これは高利資本で、利子が高く返済に困った借り手は債務奴隷として商人の農園で働かされた。しかし債務奴隷にされた農民が増えると社会は混乱するので、王は即位するたびに債務帳消をした。
 資本主義のもとでの貨幣資本家による機能資本家への貸付は、機能資本家が借りた貨幣を資本として使用し、剰余価値を生産するが、この剰余価値から機能資本家には企業者利得が、そして貨幣資本家には利子が支払われる。だから利子の大きさは剰余価値を超えられず、貨幣資本家は高利は取れないがしかし貸付額が巨大となるので、低利での貸付が定着した。
負債には二種類あり、借りた貨幣を資本として機能させる場合と、消費の用途にする場合である。後者はかつては国家の戦費や王侯貴族の浪費、飢饉のときの農民の生計費などであったが、現在では住宅ローンなど消費者ローンとなっている。また国債や土地もこちらに分類できる。

(4)負債資本と利子生み資本
 従来の高利資本は今日の負債経済の中核的資本となっており、新たに負債資本と名付け、その属性について研究することが必要である。近代的利子生み資本と負債資本、共に外観は貸付けた貨幣に利子がつくというもので見分けがつかないが、借りた貨幣がどのように機能しているか、その違いを明らかにし、両者を区別するために、借りた貨幣が資本としては機能していない貸付資本由来の金融商品を負債資本と規定しよう。それが単なる高利資本の役割を超えて、現代の資本主義の破局をもたらすような資本として異変をおこしているのだ。この異変は消費者金融の債務を証券化する技術によってなされている。

(5)利子生み資本の分類
○ 利子生み資本
G・・・G’ お金がお金を産む どのように産むかは問われない資本の形式
○ 近代的利子生み資本 G→G→W+A→P(生産過程)→W’→G’(G+m)→G“+i
○ 擬制資本 定期的収入があれば、それを利子に見立てて資本還元した資本。
株式、社債、国債、土地、(前二者は近代的利子生み資本)
○ 高利資本は近代的利子生み資本の先駆。貸し付けた貨幣が資本としては機能しない貸付。現在では、サラ金、住宅ローン、奨学金、カードローンなどの消費者金融。
○ 高利資本の変異体としての負債資本。消費者ローンの証券化によって作られた金融商品が、近代的利子生み資本や擬制資本と並んでグローバル資本市場で取引された。

(6)負債資本の果たす役割:金融危機の引き金
 負債経済が、住宅ローンや耐久消費財のローンの領域に収まっていれば大きな問題を起こすことはなかった。ところがこれらの債務証書が投資銀行によって買い込まれ、それを束ねた証券として公社債市場で売りに出されることで、単なる高利資本が負債資本に変異し、グローバル資本市場(ニューヨークの公社債市場)で新規の金融商品として売りに出された。ローンを貸し付ける住宅金融のブローカーは投資銀行が債務証書を買い付けてくれるので、貸付金が直ちに回収され、それでまた新しく貸付ができる。こうしてどんどん貸付が膨らみ、またこれを根に持つ負債資本もどんどん増えていった。しかし、不動産価格の下落がはじまると、これらの証券は不良債権となった。リーマン・ショックは株式市場の暴落から始まったのではなく、負債資本が売買されている公社債市場での暴落から始まり、これが株式市場にも波及したのである。

(7)負債資本の果たす役割:事後処理の変化
 土地バブルが続く限り、グローバル資本市場で売り出される負債資本としての金融商品のリスクは無視できるが、いったん住宅価格が下がり始めると、途端に負債資本のリスクは増大する。こうして負債資本は不良債権化し、それを買い込んだ銀行や住宅関連金融機関が自己資本不足で経営不振に陥いる。これを救済しようとするときに、中央銀行は株式市場での株価暴落時の対応とは全く異なる対応を迫られた。前例なき量的緩和と低金利政策である。量的緩和は、金融機関のバランスシートに残った不良債権(負債資本)を中央銀行が買いとるための措置だった。こうして世界は失われた30年を体験した日本の不動産バブル崩壊後の事態を後追いし始めた。本来は資本主義における資本の社会的配分を調整する役割を持つ国際資本市場が、そこでの負債資本のヘゲモニーによって、歪められ、機能不全に陥っている。高利資本はそれが膨張すれば社会を疲弊させる、というその本質が、いま生々しく現れてきたのだ。

(8)負債経済のもとにおける社会運動の展開
 負債経済の破綻はまずヨーロッパで露呈した。EU金融当局は南欧諸国に緊縮財政政策を押し付けた。これに対してギリシャやスペインでこれに対抗する社会運動がおこった。廣瀬純は、運動の渦中にあった南欧の活動家に取材して『資本の専制 奴隷の反逆』(航思社、2016年)をまとめた。そこで注目すべきはスペインの15M運動である。これは2011年5月15日から始まったマドリードの広場占拠で、占拠は30もの都市に波及し、約5週間続けられた。始まった日5月15日をとって、15Mと名付けられた。
 2011年秋には負債経済のおひざ元でウォール街オキュパイ闘争が闘われた。ウォール街オキュパイ闘争は、1%対99%というスローガンを掲げた。そしてこれまでの運動のような政府に対する諸要求を掲げなかった。これは負債経済と負債資本で儲けているのは1%であり、残りの99%は、借金させられたり、グローバル資本市場に貢がされている人々だという主張であった。
 日本では2007年に反貧困ネットワークが結成された。リーマン・ショック後の年越し派遣村で一躍名をあげた。結成10周年を迎えた今も諸課題に取り組んでいる。それらは、住まい・生活保護・奨学金問題・最低賃金・避難の協同・障害者の人権・官製ワーキングプア・過労死問題・キャバクラ就労・女性・シングルマザー、などだ。

(9)負債経済のもとにおける階級関係の変化
負債経済における債権者と債務者との関係は、ラッツアラートが見抜いたように権力関係である。しかも借金する人は階級区分を横断する。企業で働く人々も、自営で商業や農業を営業する人びとも横断する形で借金人間は作られている。
 このような階級関係の変化を踏まえて、ラッツアラートは新自由主義が吹聴したすべての人間は人的資本であるというイデオロギーが破綻しており、新自由主義と闘う新しい布陣が必要だと説いている。
ハーヴェイはこの布陣として都市の反乱に期待している。新自由主義的都市政策に対抗する都市への権利を要求する住民の運動である。都市で働く人々をすべてまとめていけるような政策の提起だ。

(10)負債経済の歴史的役割
 高利資本は社会を疲弊させる。封建社会から資本主義社会への移行期には、高利資本が封建社会の破壊の役割を担った。現在の資本主義社会での負債経済と負債資本のヘゲモニーもまた、市民社会を疲弊させている。資本主義に代わるシステムが要求されている。
 市民社会における非資本主義的領域は日本の不動産バブル崩壊後も成長していった。障害者の事業所に関していえば、当事者たちの差別をなくす運動によってさまざまな権利が獲得されてきた。しかし市民社会の疲弊によって、地位向上から現状維持と負債経済への対抗の陣地への転換が問われている。都市政策が要であり、ソウル市が2014年に始めた都市間のネットワークであるグローバル社会的経済フォーラム(GSEF)の役割は大きい。このフォーラムは2016年にはカナダのモントリオールで開かれ、2018年にはスペインのビルバオで開催予定である。

(11)負債経済によって破壊された社会についての日本政府の認識
 厚生労働省地域力強化検討会文書「地域における住民主体の課題解決力強化・相談支援体制の在り方に関する検討会(地域力強化検討会)」の最終とりまとめ文書「地域共生社会の実現に向けた新しいステージへ」(2017年9月12日)の「総論」に見る時代認識
 「少子高齢・人口減少社会という我が国が抱えている大きな課題は、我が国全体の経済・社会の存続の危機に直結している。この危機を乗り越えるためには、我が国のひとつひとつの地域の力を強化し、その持続可能性を高めていくことが必要である。」(3頁)
 「私たちのまわりの生活を見てみると、深刻な『生活のしづらさ』が増しており、それは私たち自身にも起こっている、もしくは起こりうることでもある。」(3頁)
 「高齢の親と働いていない独身の50代の子とが同居している世帯、介護と育児に同時に直面する世帯、障害のある子の親が高齢化し介護を要する世帯、様々な課題が複合して生活が困窮している世帯のほか、いわゆる『ごみ屋敷』は、社会的孤立の一例とも言える。」(3頁)
「家庭の機能も変化しつつある。雇用など生活をめぐる環境も大きく変化してきている。」(3頁)
厚労省文書の問題点
○ この間の社会の崩壊過程をまるで自然災害のように捉えている。少子化は資本主義の経済の発展、とりわけ負債経済のヘゲモニーによる歪みがもたらしたものであり、資本主義の仕組みが人びとの意識的統制を受け付けないことによる。
○ 金融化とか金融資本の暴走とか言われている事態は、負債経済と負債資本の分析によって、はじめて明快に整理できる。負債経済、負債資本は資本主義の中にあって資本主義ではないもの。
○ 今日の資本主義社会の中にあって資本主義でない経済の仕組みはたくさんある。自営業、国営あるいは公営事業、協同組合などの非営利事業体、など。負債経済と負債資本も資本主義ではない仕組み。問題はこの種の債務が証券化によって金融商品にされ、グローバル資本市場で大量に取引されていること。この事態への批判が必要である。

第3章 共同研究のための諸課題

 テーゼでは負債経済と負債資本の定義がなされている。この観点からのさまざまな分野での研究が急がれる。最後に共同研究の諸課題について提案しておこう。なお、これはルネサンス研究所関西で提案したものである。もっといろいろな角度での研究が必要であるが、とりあえずのたたき台として提案しておきたい。

(1) 金融資本論の再検討
 ヒルファーディングが定義し、レーニンが継承した金融資本概念の整理とそれが今日の現実の分析ツールとしては役に立たないことの証明。

(2) 20世紀初頭のドイツとアメリカの銀行及び資本市場の相違
 ヒルファーディングはドイツの銀行と証券市場との関係を分析して金融資本概念を析出したが、銀行ではなく証券業者が中心になって証券市場(ウォール街)を支配したことの相違を解明し、20世紀初頭のアメリカ型の資本市場が今日のグローバル資本市場の原型だったことを解明すること。

(3) 金融化論の批判
 金融資本論に代わるものとして、金融化論が登場してきている。実体経済と架空経済との対比から、後者が経済を支配しているという認識である。この見解は架空経済の内容についての解明がなされてはいない。

(4) グローバル資本市場の歴史
 国際金融市場と区別し、負債経済との関連でグローバル資本市場を定義し、その形成の歴史を解明すること。

(5) 負債資本の崩壊による危機の事後処理の違い
株式市場での株の暴落と公社債市場での負債資本の崩壊では危機の事後処理が異なる。株式市場の崩壊は、1929年恐慌のように銀行の取り付け騒ぎを招くが、現在はこれは預金保険で防いできた。負債資本の崩壊は関連金融機関の救出のために不良債権の買い取りを必要とした。中央銀行の前例なき金融緩和とゼロ金利政策がそれであり、それがどのような結果を招くのかを解明することが必要。

(6) 社会の疲弊
 新自由主義の規制緩和と民営化、および金融の自由化の核に負債経済の膨張があり、株式会社におけるコーポレートガバナンス(株式会社は株主のもの)による配当の増大が労働賃金の切り下げをもたらしていること。さらに、それが借金人間製造を推進していること。賃金奴隷と債務奴隷という二重の奴隷化が進行していること。さらに経済危機に対応して緊縮財政が実施されセーフティネットが機能しなくなってきていること。

(7) 負債経済のもたらす破局
 EU諸国は内戦状況にある。といっても銃火器なしの内戦。支配階級が暴力階級となる。これに対する陣地戦。限界費用ゼロの情報を活用した事業体。GDPの外部の経済、脱資本主義的事業体、等々の形成。基礎的コミュニズム(グレーバー)の再評価。

(8) 負債資本と階級闘争
 商品・貨幣関係は、商品所有者の無意識のうちでの本能的共同行為にもとづいて成立しているので、これを政治的権力によっては廃絶できないという、ソ連崩壊の原理的根拠にもとづけば迂回作戦が必要となる。負債経済が資本主義の破局をもたらすとすれば、迂回作戦の未来には資本主義からのエクソダスがみえてくる。エクソダスを戦略として今日のさまざまな試みを、次世代のシステムの形成過程として位置づける。
 負債経済への対抗として、債務帳消は必要だが、それはグレーバーが言うように、社会変革につながらない。それは、エクソダスにつながる運動と絡めて意義を持つだろう。

(注)

 この文書は、ちきゅう座に投稿するために、これまでの研究をまとめたものである。負債経済についての研究に取り組んだのは、この2年間であり、その研究過程については次を参照されたい。                       (2017年12月26日)

http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=244

http://www.office-ebara.org/modules/weblog/details.php?blog_id=240

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

〔study925:171226〕