『大学における〈学問・教育・表現の自由〉を問う』寄川条路編(法律文化社)
年末に読んだこの本に強いショックを受けた。
この事件のことは、「東京新聞」(2017年1月7日付)の記事で一応知ってはいた。しかし、詳しい経緯までは全く知らなかったのは不明の至りである。
以下、ネットで調べた「東京新聞」の記事を引用・紹介する。
「授業を無断録音された上、懲戒解雇されたのは不当などとして、明治学院大(東京都港区)の元教授寄川条路さん(55)が、同大を運営する学校法人「明治学院」に教授としての地位確認と、慰謝料など約1,370万円を求める訴訟を東京地裁に起こした…。
訴えなどによると、寄川さんは一般教養で倫理学を担当。2015年4月の授業で、大学の運営方針を批判したことなどを理由に、同12月に大学側から厳重注意を受けた。大学側は、授業の録音を聞いて寄川さんの批判を知ったと認めたため、寄川さんは学生が何らかの情報を知っているかもしれないと推測。テスト用紙の余白に、大学側の教授の名前を挙げ「録音テープを渡した人を探している」と印刷し、呼び掛けた。これに対し大学側は、その教授が録音に関わった印象を与え、名誉毀損に当たるなどとして昨年10月に懲戒解雇した。
寄川さんは「大学側が授業を録音したのは、表現の自由や学問の自由の侵害だ」と主張。労働審判を申し立てたが解決に至らず、訴訟に移行した。大学側は審判で職員による録音を認めた上で「録音したのは実質的には授業でなく、(年度初めに授業方針を説明する)ガイダンス。授業内容を根拠としての解雇ではない」と説明していた。
同大広報課は、本紙の取材に「懲戒処分は手続きに沿って適正に判断した。個別案件についてはコメントできない」としている。」
ネット上で調べた限り、この「学問の自由」にかかわる「重大な事件」を取り上げたのが、この「東京新聞」と「上智新聞」だけだった(?)ようなのは、なんとも情けない。大学の授業に「検閲」が入ったといっても過言ではない大変な事件である。
そうでなくとも今日の大学では、学生の自由な自治活動は認めず、全てが大学当局による認可制度のうえにのみ行われるように仕向けられている。完全な管理・監視体制である。
これで「自由な学問」「自由な教育」「大学の自治」などありうるはずがない。
教員採用も、その人の学問の実績や教養の高さなどで諮るのではなく、その人物が如何に現体制(引いては大学当局)に協力的であるかによって決められるのが実情である。
こういう輩から教わる学生は哀れなものだ。詰まるところ「大政翼賛教育」が施されるのは必定であろう。
昨今の学生気質が、学問などどうでもよくて、ただ就職のためだけに学校に通っている(大学の専門学校化)といわれるのも、無理からぬことである。
文科省、その管轄下の大学、そしてそこで教える者も教わる者も、腐りきっている。かくて日本という国は、凋落の一途をたどることになる。
今年は、「東大闘争」から節目の50年を迎える。1月19日に多くの犠牲者を出しつつ、残念ながら陥落した「安田砦」の攻防戦を改めて思い起こす。
あの深刻な闘いは何だったのか、われわれはその後に何を残しえたのだろうか?大学への管理強化という負の遺産だけだったのか…。
<この事件のあらましと現状>
明治学院大学という名前のキリスト教系大学からそれまで受けていた印象は、リベラルなものであった。確か、詩人の島崎藤村が本学の出身者であることは有名である。
そして「建学の精神」として次のことが謳われている。
「建学の精神として「キリスト教主義教育」を掲げ、キリスト教による人格教育を実践している。
また、教育の理念として “Do for Others”(他者への貢献)を掲げている。これは、新約聖書の “Do for others what you want them to do for you.” という部分から引用されたもので、創設者であるヘボンの信念をよく表す言葉とされている。」
つまり「汝が欲するところを人に施せ」というのがその基本精神であるという。
ところが、このイメージが今回の事件で一変した。
裁判で明らかになったことでは、「明治学院大学では、慣例として授業の盗聴が行われており、今回の秘密録音も大学組織を守るために行ったとのこと」だ。「また、同大学では、大学の権威やキリスト教主義を批判しないように、授業で使用する教科書を検閲したり、教材プリントを事前にチェックしたりしていた。さらに、学生の答案用紙を抜き取って検閲したり、インターネット上の書き込みを調査したりしていた」(本書「まえがき」)
なんだか「うすら寒く」ならないだろうか。これではまるっきりナチの体制下、スターリン体制下、あるいは戦前・戦中の軍部の支配下に置かれているのと同様ではないか。
まさか寄川教授が「盗聴」を欲し、「自由な学問と教育の放棄」を欲していたわけではあるまい。ということは、人が欲しないことを人に強要するということに「建学の精神」を変えたのであろうか?
どうもこの「建学の精神」と、これら「授業盗聴」などの常態化とは相反しているとしか言いようがない。
本書の「まえがき」から事件の概要を時系列に述べる。詳細は、直接本書に当たって頂きたい。
2015.4:大学当局が教授に無断で授業を盗聴し録音
2015.12:授業で大学を批判したとして教授を厳重注意/授業を無断録音された教授が大学当局を告発
2016.10:大学当局は告発した教授を懲戒解雇/解雇された教授が地位確認の労働審判を申立
2016.12:裁判所は解雇を無効として教授の復職を提案。和解不成立。/解雇された教授が地位確認の訴えを提起
2018.4:裁判所は解雇の撤回と無断録音の謝罪を提案。和解不成立。
2018.6:裁判所は解雇について無効であると判決
ここに明らかなように、これは大学当局の「解雇権の濫用であり、無効である」ことは明白である。にもかかわらず、寄川教授は、今日に至るも復職は認められていない。
「上智新聞」(2017年2月1日)は、係争中の寄川条路氏の身分を「教授」として、「元」を付けていない。賢明である。
「上智新聞」の記者が公平を期すためにつけたあとがき(記者の目)を引用する。
「事態の詳細は司法の場で問われるべき問題であり、本紙が口を出せることではない。ツイッターを見れば、明治学院大学の学生から「教授の言い分や新聞の論調は一面的だ」等の批判もあるようだ。
だが学問の自由という観点から言えば、大学側が無断で講義を録音していたという一点のみでも、紙幅を割いて追うべき理由としては十分だ。」
これもまことに賢明な判断である。われわれとしても、「学問の自由」「教育の自由」「大学の自治」を守るために、是非この闘いを支援していかなければならないのではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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