資本主義から社会主義への移行に関する覚書(1)

著者: 柴垣和夫 しばがきかずお : 東京大学名誉教授
タグ:

はじめに

私は社会主義論の専門家ではないし、かつて存在したソ連型社会主義経済の歴史と現実について、若干の研究書を読んだことはあっても、みずから研究に携わった経験はない。しかし、資本主義経済の原理を理解することによってその歴史性を認識するマルクス経済学者として、資本主義の克服ののちに創造される社会像としての社会主義・共産主義に強い関心を抱いてきた。加えて1970年代からソ連解体までの約20年間、旧ソ連の科学アカデミー世界経済国際関係研究所(通称IMEMO)と日本の「日ソ経済学者の会」との間で行われた「日ソ経済学者シンポジウム」に参加し、また1990年代から2000年代には、かなりの頻度で中国を訪れ「改革・開放」下の「社会主義市場経済」の現実を見聞するなかで、社会主義経済の現実についても関心を持ってきた。

そうした事情もあって、私はソ連がいわば自己崩壊した頃からいくつかの論稿を執筆してきた。それを列挙すると以下のとおりである。

[1]「労働力の商品化とその『止揚』——福祉国家・日本的経営・社会主義——」(東京大学社

会科学研究所『社会科學研究』第43巻1号、1991年8月)。のちに経済理論学会年

報第28集『資本主義と社会主義』(青木書店、1991年)に収録。さらに柴垣和夫『現

代資本主義の論理』(日本経済評論社、1997年)第1章に、正副表題を入れ替え、一

部字句を補正し、重田澄男氏の著書『社会主義システムの挫折——東欧・ソ連崩壊の意

味するもの——』(大月書店、1994年)での拙論に対する批判への回答を「補節」とし

て加えて収録。

[2]「労働力商品化の止揚を巡って——宮田千蔵教授の批判に答える——」(『武藏大学論集』

50巻4号、2003年3月)

[3]「クリーピング・ソーシャリズムについて——榎本正敏編著『21世紀 社会主義化の時

代』を読む——」(『武藏大学論集』57巻3・4号、2010年3月)

これらの拙論は、そもそも論文[1]はソ連型社会主義の崩壊との関連で論じたものであり、論文[2]と論文[3]は、論文[1]に対する批判への回答ないし反批判を行ったものであるために、私の社会主義論を整序して展開したものにはなっていない。そのことを考慮して、私の社会主義論をもう少し整理した形で展開してみようというのが本稿の課題である。もっともそれは、冒頭に触れたような私の研究歴からして、社会主義それ自体についての先行研究の検討に即してというよりも、資本主義経済についての理論的・実証的研究から私が学んだことに即して考えるに至った社会主義論である。そしてそれは、何をもって社会主義とするかについての議論と共に、そこで設定された社会主義の課題実現に向けての資本主義からの移行過程の問題についても、通説とはかなり異なった試論を展開することになるであろう。

Ⅰ.資本主義の基本的矛盾と社会主義

  1. 唯物史観と社会主義

科学的社会主義  近代社会における社会主義を広義に理解すれば、それはエンゲルスが『空想から科学への社会主義の発展』で紹介しているサン・シモンやフーリエ、ロバート・オーエンなどの、資本主義が生み出すさまざまな弊害に対する批判的思想と実践にまで遡ることができるが、それが科学的社会主義、つまり科学的根拠を持つものとして登場したのは、これもエンゲルスが同書でいうように、マルクスによる「二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露」によってであった。ここで「二つの発見」の前者である「唯物史観」は、マルクス『経済学批判』序言のなかに定式化された、社会構成体の歴史的変遷・変革の必然性を生産力と生産諸関係の矛盾から説く歴史観のことであり、後者の「剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露」は、唯物史観を「導きの糸」としてマルクスの手で完成された『資本論』(第1部)のことである。問題は、その後のマルクス主義による社会主義論と社会主義運動のなかで、この「二つの発見」がどのように生かされていったのか、についてである。私の印象では、それはもっぱら前者の観点からの立論と具体化が大勢を占め、後者の観点からの立論が十分に展開されなかったように思われる。

所有論視角からの社会主義論  具体的には論文[1]で述べたことだが、ロシア革命によるソ連型社会主義の創出と形成過程は、まさに前者から導き出される社会主義の理念の実現をめざして推進されたものであった。すなわち、エンゲルスの前掲書で「社会的生産と資本主義的領有とのあいだの矛盾」と表現されていた唯物史観による資本主義の基本的矛盾は、その後ソ連やコミンテルンによって「生産の社会的性格」(生産力)と「領有(所有)の私的(資本主義的)性格」(生産関係)との間の矛盾として把握され、社会主義は、社会化している生産力に照応するよう生産手段の「領有(所有)の社会化」を実現するものとして定式化された。これを私は所有論視角からの社会主義論と名付けたが、ロシア革命後のソ連、第2次世界大戦後の東欧諸国や中国の社会主義建設は、総じて生産手段の所有の社会化(一国社会主義の下では国有化)をめざして進められた。ソ連の場合には、革命後の戦時共産主義期におけるその尚早的強行、その行き詰まりによるネップ期の緩和、スターリン時代の農業集団化を含む推進、第2次大戦による莫大な被害と戦後集権的計画経済による急速な復興などの紆余曲折を伴いながらも、1970年代には農業におけるコルホーズ(協同組合)のソフォーズ(国営農場)への転換の進展によって、「社会主義から共産主義への移行」が囃されるまでに至った。

しかし、ソ連型社会主義の発展はそこまでであった。 米国との軍拡競争の過大な負担もあって80年代以降経済は停滞し、ゴルバチョフによる改革も空しく1991年の自滅的崩壊に至ったのは周知のとおりである。いったいどこに問題があったのか。

ソ連型社会主義の難点(1)  生産手段の私的所有を廃絶して社会化すれば、当然資本主義は廃絶される。その結果を理想型的に想定すれば、商品・貨幣経済も廃絶されるから市場メカニズムとそれを機能させている価値法則も廃絶される。価値法則は、商品の需給関係の調節を通じて、いかなる社会も充足しなければならない経済原則である社会的労働配分を実現するための、資本主義経済に特有な経済法則である。それが廃絶されるということは、価値法則に委ねていた経済原則の実現を、人間が主体的に行わなければならないことを意味する。言いかえれば、経済法則に人間が支配されるのではなくて、人間が主体的に経済を取り仕切ることを意味する。これが、所有論視角から導き出される社会主義の理念象だといってよい。そして、その限りでは間違いとは言えない。

だが、そのソ連におけるその具体化には、二つの面で大きな困難、というより難点が存在していたように思われる。その一つは、経済原則実現の方法そのものについてで、ソ連の場合それが中央政府による一元的・中央集権的な計画経済として行われたことである。計画経済を具体的に担った政府のゴスプラン(中央計画委員会)は、すべての生産品目の品質と総産出量を設定してその生産を企業別に割り当て、それに伴う原燃料、材料・部品・半製品、設備・機械、労働力など、すべての生産要素についての計画指標を作成しなければならなかったが、斉藤稔によればその数は最も中央集権化が進んだ1950年代に約4万の企業に対して約2000万件に及んだという(2)。この作業自体が当時の計算手段では無理だったと思われるが、その点以上に、全面的計画経済そのものに随伴する困難が存在した。すなわち、計画的生産が原燃料や鉄鋼・機械装置などの生産財やパンなどの基礎的消費財の場合には効果を発揮できるとしても、生活水準の向上によって個人の趣味・嗜好が多様化し、また流行によって需要が変化する時代が到来すると、それに供給を計画的に適応させることはおよそ不可能だということである。実際60年代後半以降ソ連並びに東欧諸国の一部では、分権化と市場経済の部分的導入という経済改革が試みられ、集権的計画経済の修正が進められたのであるが、それが成果をみぬままに周知の自壊に至ったのである。

ソ連型社会主義の難点(2)  もう一つの難点は、経済を人間が主体的に営むという場合の、「主体的に営む」「人間」の問題である。マルクスやエンゲルスが想定したそれは、社会の主人公となった労働者階級、すでに資本家が存在しないと考えれば人民全体ということであろう。しかし、国家が存在し前衛党による一党独裁下の現実では、経済を担ったのはいわゆるノーメンクラトゥーラといわれる特権階層であった。集権的計画経済において、計画の主体はゴスプランの高級官僚群であり、実際に経済を担う現場の企業長はその指示に従い、労働者は企業長の指示に従う、何れも与えられたノルマを実行する受け身の存在でしかなかった(3)。そして、この一党独裁の下で再生産されるノーメンクラトゥーラによる支配は、たんに経済生活の面のみならず政治や文化を含む社会生活の全領域に及んでいた(4)

ソ連の場合、ロシア革命の過程で権力組織となったソヴィェトは、当初は複数政党の、またロシア社会民主労働党のメンシェヴィキとポリシェヴィキの競い合う場であったが、内線の過程でポリシェヴィキが1918年に改名したロシア(のちソ連)共産党の一党独裁の場となり、その後党内の権力闘争で勝利したスターリンの個人独裁の場となった。時に個人独裁さえ含むノーメンクラトゥーラの支配は、その人材供給源である党の力が及ぶ社会領域のすべてに及んだが、もともとツァー帝政の支配の下で自由主義・民主主義の経験に乏しかった人民には、この圧政に抵抗するだけの知恵と力を持ちえなかったのであろう。

いったい何がソ連型社会主義にこのような難点をもたらしたのか。私はその原因として、唯物史観の命題から直截に社会主義を問題にしたこと、端的に言えば「所有の社会化」が即社会主義化だと考え実践したことに、課題設定の飛躍があったのではないかと考えている。すなわち、エンゲルスがマルクスの発見として指摘した後者、「剰余価値の発見」つまり『資本論』で示された資本主義経済の原理からの社会主義論の欠如があったのではなかろうか。

  1. 『資本論』と社会主義

労働力商品化の無理  マルクスが唯物史観を「導きの糸」として書き上げた『資本論』は、資本主義の生成・発展に関する歴史過程についての論述を含むとはいえ、全体としては物理学者の実験室になぞらえられる「純粋な資本主義社会」を「抽象」の力によって設定し、そこで作用する経済法則を明らかにした理論の書である。日本のマルクス経済学者宇野弘蔵は、『資本論』の読み込みを通じて、唯物史観から導かれた先の命題とは異なった形での資本主義の基本的矛盾を、労働力商品化の「無理」に基づく資本の自己矛盾として導き出した。その要点を述べると、資本は労働力を商品として購入し使用することによって、それが生み出す剰余労働の果実を剰余価値(利潤)として取得することにより、一社会を構成し支配できるが、資本自身は、自らの存立の条件であるこの労働力商品を、他の商品と同じように直接には生産できないという「無理」がある。この「無理」が資本の自己増殖過程における景気循環を必然化し、その一定の局面において資本蓄積が労働力に対する資本の絶対的過剰を生み出すという資本の自己矛盾を顕在化させ、恐慌という形でそれを爆発させる。宇野は、このメカニズムを経済学の原理論の体系化を通じて明らかにし、恐慌が資本主義の基本的矛盾の爆発であると同時に、その一時的解決の形態であることを示した。

このような宇野経済学の理解が正しいとすれば、社会主義は資本主義の基本的矛盾の基礎にある「労働力の商品化」を止揚することによって実現されるもの、と理解されなければならない(5)。それは抽象的には労働者を人間として解放し、資本に代わって生産の真の主体ならしめることである。そしてこの点までは、すでにソ連崩壊以前までの宇野経済学が明らかにし、大内力ほか何人かの人々は、この視点からソ連や中国の社会主義としての難点を指摘していた(6)。だが、「労働力商品化の止揚」の具体的内容がどのようなことなのかについては、必ずしも明示されず、抽象的な説明にとどまっていた。拙稿[1]では、その点を宇野経済学の社会主義論で「未解決の問題」と指摘し、具体的検討を試みたのであるが、その内容は以下のように要約することができる。

労働力商品化の止揚としての社会主義  資本主義のもとで労働力が商品化していることによって生まれる特徴は、(1) 労働力商品の価値・価格が労働市場において他律的に決定されること、(2) 労働力商品の販売可能性は保障されておらず、従って失業ひいては生存の危機に陥る可能性があること、(3) 労働力商品の消費過程つまり労働過程は、その買い手である資本家の意志と指揮のもとに行われ、労働における労働者の主体性が排除され、いわゆる疎外された労働が一般化すること、の3点にある。労働力の商品化の止揚とは、この3点を克服すること、すなわち、① 労働者による賃金の自己決定、② 雇用と生存の保障、③ 労働者による労働過程の自主管理、を実現することにほかならない。

このような観点とくに③の観点からの社会主義の追求は、早い時期にソ連と対立して独自の自主管理社会主義路線をたどったユーゴスラヴィアに例をみるが(7)、この三つの基準でソ連型社会主義を評価すると、①と③は、建前はともかく実質的にはほとんど実現しておらず(8)、せいぜい②のみが労働配分のかなりの不均衡を伴いながら存在したにすぎなかった。そしてこの雇用の保障が①と③の欠如と結びついたとき、それはむしろ労働者の労働へのインセンティヴをスポイルするものとして機能したのであった。生産手段の所有が社会化し、私的資本が存在せず、利潤原理が作用しなかった旧ソ連型社会を資本主義ということはできないが、それは、ジョークとして言えば、労働者が怠ける自由を持つことに労働者主権をみるといった、極めて歪んだ社会主義社会であり、これに既述の一党独裁下の政治的自由を含む基本的人権の欠如を加えると、ソ連はやはり、きわめて人民抑圧的な国権的社会主義であったと評価せざるをえないであろう。

ところで、商品化された労働力の特性の、否定ないし克服の目標として想定される①②③の内容が、具体的にどのような姿で現実化されるのかについては、なお一層の検討が必要であろうが、本稿では、のちに現代資本主義諸国でのクリーピング・ソーシャリズムを論ずるところで、その萌芽の現実を考察する予定である。

所有論視角優位の背景  ソ連型社会主義の構築に於いて、何故に唯物史観から導かれる所有論的視角からの社会主義、つまり「所有の社会化」追求の道が採られ、「労働力商品化の止揚」の追求がさほど意識されなかったのは何故なのか。その点について私は、ロシア革命を指導したレーニンが依拠したマルクス・エンゲルスの革命論と、その背景をなす19世紀ヨーロッパ資本主義の現実が大きく影響しているのではないかと考えている。

まずその背景を一口で言えば、19世紀半ば過ぎまでの資本主義の自由主義段階においては、欧州大陸では封建社会と絶対王政から引き継がれた旧社会の遺制がなお強く、資本主義の先進国イギリスを含めても、社会全体としては、資本家階級と労働者階級の対立より王侯貴族・大土地所有者を含む有産階級と無産階級の対立関係が支配的だったことである。イギリス産業資本を代表した綿工業労働者の主力は女性と児童であり、労働組合や社会主義政党の担い手となる男子労働者が支配的になるのは、帝国主義段階における重工業の登場を待たなければならなかった。旧中間層は『共産党宣言』でも指摘されているような両極分解の形で、その圧倒的部分が無産階級へと没落しつつあった。また、マルクスが『資本論』第1巻の序文で指摘したように、先進国イギリスの現実はドイツなどの「産業的に遅れた国の未来を示す」として、いずれは世界中に資本主義としての純粋かが進むと考えられていた。

このような状況のもとでは、社会主義は一途に増大する無産階級が支配階級である有産階級の資産を収奪すること、つまりそれまでの「収奪者が収奪される」(マルクス『資本論』第1巻24章)ことで、容易に達成されると考えられたのだと思われる。社会主義革命が先進国から始まる世界革命として展開すると予想されたのも同じ事情からであり、それが一般的に強力革命として想定されたのも、政治権力が旧社会から生き延びた特権階級の手に握られ、無産階級が政治的に無権利状態であったことから当然のことであった。しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、資本主義が自由主義段階から帝国主義段階へと移行すると、資本主義の国内構造と国際関係は大きく変質し、有産階級対無産階級といった単純な対立図式から世界革命を導くことは困難になっていたのである。同時に、この時期に本格化したマルクス主義にもとづく科学的社会主義の組織的運動は、状況の転換に伴うさまざまな試練を経験することになっていた。次にその点について一瞥しておこう。

Ⅱ.帝国主義段階と社会主義運動

資本主義の変容と社会主義運動  帝国主義段階への移行にともなう資本主義の構造的変化のなかで、社会主義運動との関連で重要なことは、以下の3点であろう。

第1は、ドイツを典型とする後発国の資本主義化が、イギリスの後を追うとみたマルクスの予想と異なり、産業資本に替わって支配的資本となった金融資本による独占体制のもとで、階級関係の複雑化とくに新旧中間層の肥大化をもたらしたこと。この点は例えば、何れは没落するものと考えられていた農民に、社会主義運動がどう対応すべきなのかという深刻な問題を提起した。第2は、これもドイツを典型とする後発資本主義国による植民地の再分割要求が、帝国主義的国際対立を惹起するとともに、植民地における独立運動が始まったこと。社会主義運動は、社会主義革命の課題とは別に、帝国主義戦争や植民地独立運動にどう対処するのかという問題に直面した。第3は、ドイツ・ロシア・日本などの後発国の資本主義化は、権威主義的な帝政権力の「上からの近代化」によるケースが多かったこと。このような権威主義的政治体制をどう評価し、それに対する闘争をどのように位置づけるかも、社会主義運動が直面した問題のひとつであった。

ドイツ社民党内の修正主義論争  第1の問題に関わって19世紀末にドイツ社会民主党内で起こったのが、いわゆる修正主義論争である。それは、小農民が分解せず中間層として根強く維持されていた当時のドイツの現実が『資本論』が説く論理と異なっていたことから、マルクス主義の修正を唱えるベルンシュタイン等の「修正派」と、その現実は現象に過ぎず本質的にはマルクスの論理が貫徹していると強弁するカウツキー等の「正統派」との間で闘わされた。論争は平行線のまま政治的に決着がつけられたが、前者は後発国のしかも帝国主義段階に現れた新現象を根拠に資本主義の一般理論(原理)を否定し、後者は原理の正しさを擁護するために現実の変容を無視するという、何れも方法的には同一次元の誤りであった

第2の問題について、これも結党いらい反戦平和と植民地領有反対を唱えていたドイツ社会民主党が、1907年に「社会主義的植民地政策」を掲げて植民地領有を認めるに至り、また第1次世界大戦に際しては、党の主流派が帝国議会で「域内平和」の名のもとに戦争支持を表明した。これらはのちの党内反対派による共産党結成への端緒を開き、ひいては第2インタナショナルの分裂による国際的な社会主義運動の、社会民主党系と共産党系(コミンテルンと第3インタナショナル)への分裂の出発点となった。

日本資本主義論争  1920年代末から30年代前半に「講座派」と「労農派」の間で行われた日本資本主義論争は、第1と第3の問題が重なって闘わされたものである。それは当面の革命の課題を、ブルジョア民主主義革命とみるか(日本共産党)社会主義革命とみるか(労農派マルクス主義者)の戦略論争を出発点としつつも、経済学・法学・政治学を含む社会科学者や歴史家が多数参加した、後発帝国主義としての日本資本主義の現状評価を巡る学術論争でもあった。

ここでも、高度に発達した日本資本主義のもとで、農業・農村では零細な小農経営がひしめき、農地と農家の約半分が封建的意識に覆われた地主=小作関係のもとにおかれ、地主は小作人から収穫の約半ばを現物小作料として徴収する現実が存在した。この現実をマルクスの経済理論でどう説明するかが問われると同時に、明治憲法のもとで絶対王政ともみえる天皇制権力をどう理解するかが争われた。講座派はこれを地主=小作関係の半封建的性格、つまり明治維新のブルジョア革命としての不徹底(明治政権は絶対王政)から説明してブルジョア民主主義革命戦略を正当化したが、肝心の地主=小作関係の半封建制(「経済外的強制」の存在)の証明はできなかった。他方労農派は、農業における小農経営は資本主義の未発達によるもので、何れ両極分解して資本家的農業が成立すると予想し、地主制や天皇制に付着している封建的・絶対王政的色彩は、生産関係としての(半)封建制が存在しない以上旧社会の意識の残滓に過ぎないとして切り捨てた。労農派に原理論の発想はあっても現実の特質を説明する論理がなく、講座派は現実の特殊性を重視するあまり、それを資本主義の原理以外(封建制)から説明するという誤りを犯したのである。

この点で日本資本主義論争は、ドイツの修正主義論争と同様に、後発国の資本主義、帝国主義段階の資本主義が生み出した新しい現実と、『資本論』のような資本主義の原理との不整合から生じた論争であり、その正しい解決は後述するように、新しい現象の原因を原理論よりは抽象度の低い宇野の言う段階論(帝国主義論)の次元で解明した上で、それへの対処を社会主義運動との関連で探ることで果たされるべきものであった。

ロシア革命の成功と挫折  帝国主義段階に入ってからの資本主義の変容(宇野の言う資本主義の不純化)は、上述のように本格化した社会主義運動に混迷をもたらしたが、ロシアでは第1次世界大戦の渦中に革命が成功した。革命は1917年、帝政を倒した2月革命から10月社会主義革命へと連続革命として展開し、その後の列強の干渉と反革命勢力による内戦にも持ちこたえて、史上初の社会主義国家を樹立した。

ロシア革命が成功した理由については、それを指導したレーニンが既に『帝国主義論』を書き上げて上記の諸問題を自覚していたからだという解釈もできなくはないが(9)、むしろ当時のロシアの帝政権力の弱さ、ロシアが帝国主義の「弱い環」であったことによる側面が強かったのではなかろうか。実際、革命政権は政権掌握後も「世界革命」抜きに政権維持は困難と考えてドイツ革命に期待を持ち続けた。それが不可能となって「一国社会主義」建設を余儀なくされた段階では、一党独裁下で所有の社会化路線をひた走るしかなかった。その帰結が先にみたソ連型社会主義の自己崩壊であって、社会主義革命論としては、19世紀の、それも唯物史観の所有論視角からの理解を超えることができなかったのである。

資本主義の限界を露呈した帝国主義段階  先に触れたように、帝国主義段階に入ってからの社会主義運動では、私有財産制の廃絶や賃労働の廃止など、それを実現すれば直接社会主義への転化が可能になる争点が背後に退き、農業における土地改革、専制権力の打倒と民主的政治体制の確立、反戦平和と植民地の独立など、のちに「一般民主主義的変革」の課題として一括される争点が前面に出てきた。このことを運動論としてどう理解すべきなのか。

当時の、あるいは最近までの通説的理解では、「一般民主主義的変革」という表現が示すように、それらの課題は資本主義の枠のなかで解決可能な課題として理解されてきたように思われる。しかしそれは、資本主義の過大評価であろう。

確かに資本主義が完全に純粋化すれば小農民は分解して存在しなくなるから農業問題は解消する。しかし資本家的農業経営は、わずかに先進国イギリスで自由主義段階の一時期まで拡大傾向を持ったにすぎず、その後は今日まで後発国を含めて小農経営が支配的であった。天賦人権説に基づく理念的な市民社会に対応する法治国家を想定することはできるが、先進国イギリスの政治構造は、旧社会以来の特権的有産階級によるいわゆる名望家政治であった。資本主義の国際関係は、リカードの比較生産費原理による先進国・後発国相互の互恵貿易関係だとされ、19世紀の一時期イギリスの一部で植民地放棄論が議論されたことは事実だが、現実には自由貿易帝国主義が貫徹し、やがて植民地の再分割闘争へ進んだ。つまり、農業問題の解決や民主政治の確立、反戦平和と植民地独立などのイッシューは、現実の資本主義では解決できず、帝国主義段階に入ると特に後発国で問題が先鋭化する傾向にあり、資本主義に替わって社会主義が解決すべき課題となっていたのである。社会主義運動がこれらの諸課題を、農民その他中間層との統一戦線の戦略課題としたのは当然のことであった(10)

それだけではない。二つの世界大戦とその間の資本主義世界を襲った大恐慌は、第1次大戦中のロシア革命や第2次大戦後の中国・東欧の革命によって社会主義が拡大し、資本主義の側でもその中心が欧州からアメリカに移行するに及んで、資本主義はさらなる変貌を遂げ、現代資本主義のもとでの社会主義の部分的内部化が進むことになる。

 

Ⅲ.現代資本主義とクリーピング・ソーシャリズム

  1. 現代資本主義の特質

管理通貨制・大衆民主主義・福祉国家  ロシア革命後の資本主義を、社会主義の影響を受ける「社会主義と対立する資本主義」と規定し、この時代を世界史的な資本主義から社会主義への移行期と規定したのは宇野弘蔵であるが、大方のマルクス経済学者もほぼ同様の時代認識を持っていたといってよいであろう。ロシア革命による社会主義の現実化、1929年秋に始まる世界大恐慌などによって受けた資本主義世界のショックと打撃は極めて大きく、その間の労働運動や社会主義運動の高揚もあって、資本主義はみずからの原理を部分的に自己否定し、脱資本主義的ないし社会主義的要素を部分的に内部化しなければならなかった。その内容を私は、第1に経済システムとしての管理通貨制、第2に政治システムとしての大衆民主主義(男女平等普通選挙制)、第3に社会システムとしての福祉国家、の三点で理解している。

第1の管理通貨制への移行は、大恐慌後1930年代の応急的なそれから第2次大戦後の金・ドル本位制、そして1973年以降の金「廃貨」による変動相場制へと展開したが、これによって可能になったいわゆるケインズ政策は、景気調整政策による恐慌の回避を可能にした。金の「廃貨」は、「資本主義の骨髄を抜き取る」類のもので、これは社会主義ではないが、社会主義が必要とする経済操作の手段たりうるものである。第2の大衆民主主義については、日本では、民主主義は資本主義に照応する政治制度だという思い込みが強いが、先にも示唆したように資本主義とともに成立するのは制限選挙制による議会制度(名望家政治)で、19世紀イギリスの男子普通選挙制を要求したチャーチスト運動は敗北した。男女平等普通選挙制は、社会主義運動による要求とともに、第1次大戦の総力戦に労働者や女性を動員する必要から導入・普及が進んだものであり、第2次大戦後にほとんどすべての資本主義国で定着した。最後の福祉国家は、国民の労働権と生存権を認めたドイツ・ワイマール憲法を嚆矢として、第2次大戦後にはほとんどの資本主義国が目標とした国家像である。もっとも、この国家理念は1970年代のスタグフレーションの結果生じた新自由主義の台頭、その後の社会主義圏の消滅などによって後退し弱化しているものの、現在なお基本的骨格は維持されているといってよい。そして実は、この労働基本権と生存権の公認が、第1節の2でみた資本主義の基本的矛盾の基礎である「労働力の商品化」と鋭く対立する性格をもち、その希薄化を通じて、資本主義への社会主義の部分的内部化を端的に表現しているのである。

2.福祉国家と労働力商品化の部分的止揚

団体交渉による賃金決定  労働者の団結権・団体交渉権・争議権からなる労働基本権の公認によって、労働者は労働組合に組織され、賃金が資本家(経営者)と労働組合との間の団体交渉を通じて決定される仕組みが形成された(11)。その具体的在り方は国によって異なるが、これは労働者自身による賃金の自己決定ではないものの、賃金決定における労働者の参加を意味するものではある。労働力商品の価格である賃金は、この仕組みによって、市場で他律的に決定されるものから、労働者の団結という経済外的・主体的な力による一定の影響を受けて決定されるものに変化した。これは、労働力商品の商品性の希薄化のひとつの表現だといってよいであろう。もちろん、賃金決定に当たって労働組合がどの程度の影響を持ちうるかは、その組織率はもちろん、経済情勢とくに労働市場の状況と、労使の力関係によって制約される。大企業と中小・零細企業とで異なった事態も生じるであろう。しかし、管理通貨制度のもとでのケインズ的フィスカルメカニズムの形成は、政府による意識的なインフレ政策を可能にしたが、これは資本に対して賃上げをインフレで取り戻すという武器を与えることともなり、労働組合の賃金上げ要求に対する資本の抵抗を、ある程度緩和させたのであった。労働基本権の公認は、資本の労働者階級に対する譲歩であり、金本位制から管理通貨制への移行は、それ自体資本主義の退化を意味するものではあるが、労働者階級の賃金決定への参加による所得水準の上昇は、技術革新その他の諸要因とあいまって、皮肉にも1960年代頃までの現代資本主義の「繁栄」を支えたのである。もっとも、上のメカニズムはやがて賃金と物価の悪循環をもたらし、石油危機によるその加速もあって、インフレの悪性化、ひいてはスタグフレーションを生みだした。そこから新自由主義による労働者バッシングが始まったことは、現代資本主義=福祉国家の枠内における「労働力商品化の止揚」の限界を示すものであった。

解雇条件の協約化と社会保障  既述のように、労働力の商品化の止揚に接近する第2の条件は「雇用の保障」であったが、これもまた労働基本権の公認によって実現された資本家(経営者)による労働者の解雇条件の労働協約化が指摘できる。これによって資本家の解雇権が無くなったわけではないが、少なくともその恣意的な乱用が困難になったことは確かである。労働協約によって、解雇にも一定の手続きと手順が定められることは、その内容はこれも国によって異なるとはいえ、労働者にとっては、たえざる失業の恐怖からの一定の解放を意味する。しかし、より重要なのは、社会保険と公的扶助による社会保障制度の確立であろう。失業給付・医療給付・老齢年金を保障する社会保険と、その適用を受けられない場合の生活・医療扶助の制度化は、国民一人ひとりの生存権とそれを保障すべき国家責任を認めたことにほかならない。これによって労働者は、失業して労働力を商品化しえない場合でも、少なくとも最低限度の生活を営むことを権利として保障されたのである(12)。その意味で、これも労働力商品の商品性の希薄化の一面を示すものである。生存権の公認は、社会主義的理念をブルジョア的権利形式に包摂したものといってよく、本来資本主義に論理からは出てきようがないものといってよい。そして、この福祉国家のシステムもまた、管理通貨制度が可能にしたケインズ的完全雇用政策とあいまって、一時期までの現代資本主義の「繁栄」を支えたのである。

しかし、この点でも1970年代以降の欧米諸国においては、ある種の限界が福祉国家の腐朽という形で表面化したのであった。その1つは、失業の恐怖の緩和に伴う労働組合の団体交渉力の強化が、労働市場の条件を越えた高い賃上げを実現し、スタグフレーションの増幅要因となったことである。その2は、これも失業の恐怖の緩和が「労働力商品の消費過程」つまり労働過程における労働モラルの弛緩をもたらし、いわゆるアブセンティズムを広汎に発生させたことである。これもまた新自由主義によって「福祉国家亡国論」としてバッシングの対象になった。そこにも現代資本主義=福祉国家の枠内における「労働力商品化の止揚」の限界が示されているといってよい。

欧米と日本の違い  以上で見てきたように、第1次世界大戦以降の現代資本主義の展開のなかで、運動としての社会主義の成果が、資本主義の枠内において、労働組合による賃金決定への参加、社会保障制度による失業の救済の2点で、労働力の「商品性」の希薄化つまり「労働力商品化の部分的止揚」を実現したのであるが、そしてこれは程度の差はあれ、日本を含めた先進資本主義諸国で一様に実現したのであるが、残るもう1点、「労働者による労働過程の自主管理」については、欧米諸国と日本とでは、かなり様相が異なっている。いうまでもなく前者では、この点はほとんど実現していない。むしろ雇用保障の部分的実現が上述のように労働モラルの弛緩をもたらし、アブセンティズムを発生させさえした。その点では、現象的にはソ連型社会主義のもとでの労働規律の弛緩との共通性さえ感じさせる。それに対して日本の場合には、国際的にも高く評価される高い労働モラルのもとで、ある種の「自主管理」が成立していたことが確認できるのである。

3.日本的経営と会社主義

日本的経営の特質  1970年代の石油危機の克服過程で、欧米諸国が深刻なスタグフレ−ションからなかなか立ち直れなかったのに対して、日本がその克服に見事なパフォ−マンスを示したこと、そして、それを可能にした有力な原因のひとつとして、大企業における協調的で安定した労使関係を基軸とする「日本的経営」が国際的に注目されたことは、よく知られている。それは、当初は終身雇用・年功序列賃金・企業別組合の三位一体のシステムとして単純にとらえられていたが、研究の進展につれて、工・職を単一の「社員」ステ−タスに置いた上での従業員の能力主義的選別と統合、深くて広い内部労働市場を背景としての、職務のフレキシビリティ−とオン・ザ・ジョブ・トレ−ニングに基づく労働者の多能工としての熟練形成、そのホワイト・カラ−版でもあるジョブ・ロ−テ−ションを通じての中・上級管理者の育成と、その帰結としての企業経営者の従業員昇進者からの選抜、QCサ−クルを始めとする小集団活動、ボトム・アップの意志決定過程、中・長期的な経営戦略等々、日本の大企業における経営システムのさまざまな特質が検出されるに至った。

それらを通じて浮かび上がってくる特徴のひとつは、欧米諸国と比べて、日本の企業では従業員の経営参加の度合いが著しく高く、その結果、従業員の企業に対する強い帰属意識が生まれ、「全員参加経営」ともいわれるような企業の「共同体的性格」が形づくられていることである。そして、この企業共同体は、トップから末端の新入社員までが一丸となって企業目的の実現のために邁進する人間集団を形成している−−少なくとも企業の外からはそのようにみえる−−のである。そこでは、労働者が単に労働力の提供者として資本家(経営者)の指揮のもとに受け身で労働するという、現在なお欧米諸国で支配的な労働過程とは異なり、労働者が「社員」として経営者の意志を体して労働過程に主体的に取り組むという、ある種の集団的「自主管理」が存在するといって間違いではない。その点で「労働過程の自主管理」の課題も、日本では、すぐ後で述べる限界と疑似性を持ってではあるが、実現しているといってよい。さらにいえば、前記の「賃金の自己決定」「雇用の保障」の課題においても、日本的労使関係においては、一方で、経済情勢によっては雇用の維持のため労働組合が賃上げを自己抑制し、他方では経営者側も極力解雇の回避に努力するというビヘイビアがとられるのである。

会社主義の限界  まず第1に、上記のような日本的労使関係が成立しているのは、大企業における正規従業員の範囲に限られるのであって、それは全労働者の約3分の1をカバ−するに過ぎない。一部中堅企業や大企業の援助・指導が及ぶ下請企業の中核労働者は別として、大部分の中小・零細企業の労働者や、臨時工・パ−ト・派遣労働者の大部分は、このような諸関係から排除さ.れている。かれらの賃金は市場できまり、不安定雇用にさらされており、熟練形成や昇進にもせまい限界がある。

第2に、大企業の正規従業員の場合であっても、そこにおける集団「自主管理」的労働の客観的効果ないしその質が問題である。それは端的にいって、資本としての企業目的、つまり利潤の追求という大枠によって限界づけられている。日本の大企業の目的は利潤にはなくて成長にあるといわれることがあるが、それは、利潤の尺度を半年なり1年なりの短期でみる米国の場合との比較でいえることであって、成長の重視とは、長期的利潤の極大化の別の表現にすぎない。日本の大企業従業員は、この長期的利潤の極大化のために主体的に取り組んでいるのであって、その意味ではその労働の質は、資本家(経営者)としての労働の性格も帯びているのである。従って大企業従業員は当然利潤の分配にあずかっているとみてよい.当然そのしわ寄せは臨時工やパ−ト・下請けの労働者に及ぼされる。そこに労働者による労働過程の集団「自主管理」の疑似性があり、日本的経営の社会主義ならぬ「会社主義(13)」としての特質が存在するのである。

会社主義の根拠  欧米諸国と異なり、疑似的ではあれ日本の大企業において従業員による労働過程の集団的「自主管理」が実現しているのは、何を根拠にしてのことなのか。それは一口でいえば、戦後改革(財閥解体)とその後の高度成長の過程でいわゆる法人資本主義が確立し、大企業の大株主がほとんどすべて法人となり、また大企業の中核部分によって構成される企業集団においては法人間の株式の相互持合いが支配的となった結果、ひとつには、株式所有者の資本機能(企業経営)に対する規定性が例外的な場合を除いて作用せず、その結果、いわゆる経営者支配が徹底したこと、二つには、そのことと関連して、自然人の間における階級関係が希薄化したことに由来する。

前者の点は周知のところであり、日本での社会主義を構想する際に「所有論視角」の有効性を否定するものといってよいが、それはともかく、後者の点を多少敷衍しておくと、先にも指摘したように、日本の大企業ではトップの社長から重役までの経営者、そして上・中・下級の管理者のほとんどが、当初は新入社員であった従業員からの昇進者によって構成されていることと関連している。そのような人事構造のもとでは、トップの経営者から末端の労働者までが、「従業員」としての質的同一性・連続性を持ち、末端に近づくほど労働者的性格が強く、トップに近づくほど経営者的性格が強くなり、その中間にグレ−ゾ−ンがあるという、階級・階層区分の不明確さが特徴的となるのである。裏返していえば、経営者に労働者的性格が残り、労働者に経営者的性格が付与されているといってもよい。そして、日本的経営の現実においては、この二重の性格のうち経営者的性格がより強く全従業員を支配することによって、会社ぐるみの集団的「自主管理」、サ−ビス超勤を含む長時間労働でもって資本機能の実現に邁進する、企業共同体の「会社主義」が実現しているのである。階級関係の希薄化は、日本的経営の欧米諸国の場合と比較しての著しい特徴といってよい。

このような戦後の財閥解体を起点とした日本的経営の成立、そこにおける階級関係の希薄化を、運動としての社会主義の成果として評価することには、若干の抵抗があるかもしれない。しかし、日本の戦後改革そのものが、全体として当時の世界的な規模での社会主義の高揚を背景として実施されたものであること、そして、ここで詳述する余裕はないが、日本的経営なるものも、俗説のいう日本の伝統文化の産物などではなく、戦後から高度成長初期までの階級闘争的労働運動に対する、資本と政府の側からの対応過程で形成されたものであることを考慮すれば、けっしてその例外とはいえないのである。

以上の検討から導き出される一応の結論は、「ソ連型社会主義」が「所有の社会化」は実現したものの、社会主義の本来の課題である「労働力商品化の止揚」という点ではほとんど成功していないのに対して、現代の福祉国家および日本的経営のもとでは、それが部分的でありまた疑似的ではあっても、具体的に実現されつつあるということである。そしてそれが、直接・間接に運動としての社会主義の影響のもとに生みだされたものだということである。これをまとめていえば、現代資本主義のもとにおけるクリ−ピング・ソ−シャリズムの展開といってよいであろう。同様の評価は、「大衆民主主義」や「福祉国家」についてもいえるであろう。ソ連・東欧圏の激動をソ連型社会主義の破綻と評価することは首肯できても、社会主義の資本主義に対する敗北と評価することには同意できない所以である。

むすび——社会主義への移行についての新視角——

さて、以上のような評価が認められるとするならば、現代資本主義のもとでの社会主義的変革の構想にも、新しい視角が提起されることになる。以下いくつかの問題について、議論の素材を提供しておこう。

第1に、現代資本主義のもとにおけるクリ−ピング・ソ−シャリズムの展開が認められるとするならば、そして社会主義への道がその拡大と徹底にあるとするならば、従来所有関係の変革による質的な断絶のイメ−ジで考えられてきた資本主義から社会主義への移行は、より連続的な長期の過程として考えられなければならない。それは、私たちの世代が若いころに習った唯物史観による次のような理解、すなわち「封建社会から資本主義への移行は、(先進国の場合)旧社会の内部に資本家的社会関係が徐々に形成され、権力の移行としての政治革命(ブルジョア革命)はその追認として生じるのに対して、資本主義から社会主義への移行は政治革命による権力の移行が先行し、社会の改造はその後に、権力を獲得した労働者階級の政府によって実行される」といった理解に、根本的な修正を迫ることになるのではなかろうか。社会主義への移行は現代資本主義の現実のなかで既に始まっているのであり、それを推進するキイ概念は、繰り返し指摘してきた「労働力商品化の止揚」であるが、それは第2節でみた資本主義が解決し得なかった一般民主主義的な諸課題と同時に追求されることになるであろう。

第2に、そこで「労働力商品化の止揚」を完成させるためには何が必要かが問題となるが、現代資本主義における歴史的現実に即して考えれば、まず欧米諸国の場合には、相当程度に固定した社会階級としての、資産所有と結びついた資本家層の解体であろう。その場合、日本の経験に即して考えるならば、重要なのは資産所有の自然人との切断である。いいかえれば、自然人の資産所有に基づく資本機能の抑制・除去である。日本ではそれが財閥解体とその後の法人資本主義化によって、所有による経営への関与が眠らされることによって、事実上実現されたのであった。

その上で、これは日本の場合の現実的課題であるが、大企業の企業としての資本機能の抑制・止揚が必要であろう。ただ、その抑制・止揚の動力がどこから生まれうるかは、難しい問題である。それが日本的経営自体の中から「会社主義」を否定する「経営の民主化」の形ででてくるためには、大企業従業員集団の既述の二重の性格のうち、労働者性が経営者性つまり資本家性を圧倒する必要があるであろう。それには、大企業における労働組合の体質の民主的改革が不可欠であろう。

しかし、もしこの日本的経営内部からの動力に限界があるとすれば、そこに、これも社会主義のインパクトの所産である大衆民主主義を基礎とした社会運動と政治的力が期待されなければならない。日本の「会社主義」が、従業員を等しく「会社人間」とし、かれらの家庭生活や地域社会での生活を破壊していきた現実のもとでは、政治の力による資本機能の規制こそ——例えば労働時間の上限規制など——決定的に重要かもしれない。さらに、これらの大企業における「労働力商品化の止揚」の追求と並んで、利潤原理に支配されない事業体、長い歴史を持つ協同組合のほか、近年興隆がめざましいさまざまな社会的企業やNGO、NPO法人の成長が期待される。倒産企業の従業員管理からスタートすることが多いいわゆる民主経営も注目されよう。

第3に、以上の課題が実現されたとしても、企業相互間・企業と政府・家計間の商品・サ−ビスの取引は、長期にわたって、原則として市場経済に委ねられることになるであろう。個人の自由を前提したうえでの細部にわたる計画経済の手法は、なお見出しえないからである。ただし、労働力の商品化の止揚が進むにつれて、「労働力の売買」は「労働の売買」へと、したがって賃金は「労働力の価格」から「労働の報酬」へと、性格の変化が進むのではなかろうか。その根拠は、もともと労働力の商品化の前提は、無産階級の創出とともに機械制工業が可能にする労働の単純化であるが、重化学工業の登場とともに、一面でその傾向が徹底するとともに、他面で新しい熟練(知的熟練)労働が増大し、その側面で賃金の「労働の報酬」化が進むと考えられるからである。さらに、今日の生産力=ICT & IA技術のもとで、単純労働の機械での代替(ロボタイゼ−ション)を進めることができれば、労働の大部分が知的熟練労働となる可能性があるであろう。この賃金の「労働の報酬」化は、「労働力の商品化の止揚」の他の側面ともいえるのであって、それは周知の社会主義の原則、すなわち「能力に応じて働き、労働に応じて取得する」原則の具体化でもあるのである。                            (2016年10月6日)

(1) 本稿は筆者の個人的事情により、事実や文献・資料の出典などの精査が困難な状態で執筆された。「覚書」と付した次第である。

  • 斉藤稔『社会主義経済論序説』(大月書店、1976年)118ページ。

(3) 企業長の場合には、一方ではノルマを「超過」達成すべく過少な目標値を申告し、他方では原材料・部品、労働力を過剰に保有して、供給力を制約する役割を果たした。そのため消費財・生産財共に慢性的需要超過が生じ、コルナイのいう「不足の経済」(コルナイ・ヤーノシュ / 森田常夫訳『「不足」の政治経済学』岩波書店、1984年)を常態化させた。

(4) 所有の社会化が行われれば、資本主義社会のように経済社会の運営(経済原則の充足)を市場メカニズムに委ねることができず、人間が直接担わなければならない。おそらくこの点に社会主義の多様性の根拠があるのであって、それだけ人間の資質と責任が問われることになる。まかり間違えれば、カンボジアのポルポト政権のようなグロテスクな「社会主義」さえ登場することになる。

(5) マルクスの場合、所有論的視角からの社会主義論とは別に、「労働力商品化の止揚」という表現は使っていないものの、実質的に同じ意味を持つ主張を『賃金、価格、利潤』の末尾で、「労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の終局的廃止」と言う表現で結んでいる。

(6) たとえば、大内力編『現代社会主義の可能性』(東京大学出版会、1975年)をみよ。

(7) 岩田昌征『ユーゴスラヴィア』(NTT出版、1994年)参照。

(8) 旧ソ連に於いて、職業選択の自由が保障されていたことから、労働力が商品化していたという見解があるが、「賃金」は一般の商品価格と同様に市場で決まるのではなく、職種と熟練に応じて公定されていた。人々は自分の希望する職種と賃金表をにらみながら仕事を選択していたとみていい。これは社会的労働配分の直接権力的な配分ではないが、政策的配分であって、市場メカニズムによる配分とは言えないであろう。

(9) 例えば革命運動の中で「労農同盟」を打ち出したこと、また農民に土地を与える土地革命を主内容とするブルジョア民主主義革命とプロレタリア(社会主義)革命との間に、土地を得た農民が分解してプロレタリア化する間の時間的距離を置いていたのが、運動の過程で次第に連続革命へと判断が変化していったことなどが指摘されている(農業問題研究者からの伝聞による)。

(10) 私はかつて、戦前の日本共産党のいわゆる「1932年テーゼ」について、宇野経済学の段階論を媒介として、その天皇制絶対主義論、半封建的土地所有制論などの社会科学的認識は誤りだが、後発国の帝国主義段階における社会主義運動として、戦略課題に「天皇制の転覆」「寄生的土地所有の廃止」を掲げたことは正鵠を射ていると論じたことがある(柴垣和夫「認識の『理論』と実践の『理論』」『唯物史観』第5巻、1967年11月。のち拙著『社会科学の論理』東京大学出版会、1979年に収録)

(11) ここでは賃金決定の問題にしぼって論じているが、労働時間その他の労働条件についても同じ次元で考えてよい。

(12) 通常社会保障制度は、イギリスの救貧政策に沿源をもつ公的扶助とドイツの社会政策に沿源をもつ社会保険が統合されたものと理解されているが、統合された社会保障制度それ自身は、救貧政策や社会保障とはまったく異質の理念(権利性)に立脚したものである。詳しくは、柴垣和夫「現代資本主義と社会保障」『社会保障講座2・経済変動と社会保障』総合労働研究所、一九八一年所収(のち拙著『現代資本主義の論理』1997年、日本経済評論社に収録)を参照。

(13) 「会社主義」という言葉は、日本の工場見学に訪れた旧ソ連や中国からの研究者が、日本の労働者の労働規律を「社会主義的」だと賞賛したのに対して、私が「社会主義でなくて、会社主義です」と答えたのが発端だが、のちに馬場宏二が学術用語に昇格させた。その内容については、馬場宏二「現代世界と日本会社主義」東京大学社会科  学研究所編『現代日本社会1・課題と視角』東京大学出版会、一九九一年を参照。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study923:171218〕