起立・斉唱の強制は「儀礼的所作の求め」で済まされない

著者: 醍醐聡 だいごさとし : 東京大学名誉教授
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20181214
1211日に「東京・教育の自由裁判をすすめる会」の呼びかけで行われた
最高裁要請行動(卒業式等で日の丸・君が代に起立斉唱しなかったことを理由に懲戒処分されたり、慣例に反して定年後の再雇用を拒否されたりした都の教員が処分の取消等を求めて起こした裁判で教員を支援する活動の一環)に私も参加した。

  最高裁書記官補佐が応対した30分間の面会では、まず、小森陽一さんが会の共同代表9名(私も末席に加わっている)の共同代表のアピール、
  「最高裁判所は司法の良心と独立を示す判決をだし、『行政を忖度
  した』などと揶揄されることがないよう望みます」
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/20181211kyododaihyoyosei.pdf …  
の全文を読み上げた。
 
続いて、私は「教育の自由裁判をすすめる会」の要請に応じて個人名でまとめた要請書、
 「起立・斉唱の強制は「儀礼的所作の求め」で済まされない」
  
sdaigo.cocolog-nifty.com/20181211daigo_yosei.pdf …
を読み上げた。
 その後、俵儀文さんが、戦時中の教科書で日の丸がどのように使われたかを記した資料を示しながら、日の丸・君が代が歴史において果たした役割に着目するよう求める発言をした。
 以下は私が読み上げた要請書の全文。

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最高裁第一小法廷
裁判官 各位
懲戒処分取消等請求事件
上告申立   事件番号 平成30年(行ツ)第283号
上告受理申立 事件番号 平成30年(行ヒ)第318号

要 請 書
  起立・斉唱の強制は「儀礼的所作の求め」で済まされない

20181211
                          醍醐 聰

最高裁(第一小法廷)は2018719日に示した「再雇用拒否に係る第二次訴訟」判決で、1審、2審判決を破棄し、原審原告が求めた再雇用拒否の撤回の訴えを斥けました。私はこの判決の有力な拠り所になったと考えられる「儀礼的所作」論について再考を求める意見をお伝えします。
 いうまでもなく、「儀礼的所作」論とは、学校の儀式的行事である卒業式、入学式等において、国旗掲揚・国歌斉唱を教育委員会なり校長なりが求めるのは、これら式典における慣例上の儀礼的な所作を促すものであり、教員らの思想・良心の自由を否定するものとはいえない、という考え方です。このような言い回しには、たかが一時の形式的身体的な所作の求めを、思想・良心の自由の侵害などと言い立てるのは過剰反応だという含みがあると思われます。はたして、一時の形式的な所作の求めと言って済むのでしょうか?

特段、疑問も持たず、求めに応じる人々にとっては、「一時の」「慣例的な所作」かもしれません。しかし、日の丸、君が代に宿る暗い歴史に照らして、日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう同調を求められることに精神的苦痛を覚える教員にとっては、とうてい「たかが」、「一時の」「形式的所作」では済みません。
 それどころか、そうした教員にとっては卒業式、入学式が近づくたびに、学校行事を生徒本位のものとするために自分はどう振る舞うべきか、起立・斉唱に応じなかった場合の自分の今後の職や生活はどうなるのかなどをめぐって、自己の良心との葛藤にさいなまれる日々が続くのが現実です。

さらに、日頃、自分の頭で考え、行動する大切さを伝えてきた教え子が見守るなかで、周りの空気に同調して、起立・斉唱する自分の姿をさらすことに耐えがたい苦痛を覚える教員がいたとして、それは法的保護に値しない身勝手な行為なのでしょうか? 

起立・斉唱の求めに応じたくない教員の精神的苦痛は行事の当日、ピークに達します。大阪府教育委員会は、20123月の卒業式の際に、君が代斉唱の「口元監視」(いわゆる口パクチェック)を行い、その結果をメールで返信するよう、府立高校138校、支援学校31校に文書で通知しました。
 東京都でも、10.23通達が出されて以降、折に触れて、卒業式・入学式に数名の都教委職員が不起立の教職員を監視するために派遣されました。それまで教職員、保護者があたたかく見守る中、何の混乱もなく行われてきた卒業式・入学式が,10.23通達が出されたのを機に、思想・信条のいかんで教職員や保護者を分断し、起立斉唱に異議を持つ教員に「踏み絵」を突きつける場になったのです。
 こうした教員の良心、内心の自由を全体への調和の名のもとに切り捨ててよいのでしょうか? 私はそのような個の自立、内心の自由にまで踏み込む教育行政も、それにお墨付きを与える司法判断も、とうてい容認できません。

なぜなら、自分の虚像を他者によって作り出されるのがプライバシーの侵害だとしたら、自分の内心(真意)に反する行為を当人に強要するのは、プライバシーの侵害よりもはるかに深刻な苦痛、呵責を当人にもたらすからです(堀口悟郎「人格と虚像――君が代起立斉唱事件判決を読み直す――」『慶應法学』201410月、55ページ)。
 それでも、最高裁が起立・斉唱の強要は、単なる形式的所作の求めとみなすなら、最高裁裁判官の人権認識が疑われます。

起立・斉唱の強要は行事の日以降も、思想・良心の自由に対する深刻な侵害行為を惹起しています。
 職務命令に従わず、卒業式等で起立・斉唱しなかった教員は平常の授業時間帯にも再発防止を名目にした「研修」への出席を義務付けられ、自分の行為を「非行」と認めて「反省文」を書くよう強要されています。
 過去に起立・斉唱に応じなかったことを理由に、すでに内定していた定年後の再雇用を取り消されたり、再雇用を拒否されたりした「元」教員も少なくありません。
 起立・斉唱を「形式的所作」と呼び、さも軽い求めかのように言うなら、そのように軽微な求めに応じなかったという理由で、懲戒処分や再雇用の拒否といった重い報復的処分を課すのは、一貫性を欠く事の軽重判断と言わなければなりません。

最高裁は、不起立行為をもって勤務成績を不良と判断するのは不合理ではない、思想・良心の自由を間接的に制約することはあっても、直接的な侵害には当たらない、と説明しています。最高裁や最高裁判決に準拠した地裁、高裁がこのように判断する根底には、内心の自由は尊重されるべきものだとしても、それを学校行事などの場で外形化(外形的行為として表出)するのは、おのずと制約を受けてしかるべきとみなす考えがあると思われます。最高裁が言う「間接的制約」論とはこういう趣旨と思われます。

しかし、そうであれば、ここでも判断の首尾一貫性の欠落を指摘しなければなりません。なぜなら、こうした意味での「間接的制約」論を採るなら、教員が日の丸・君が代が果たした歴史的役割、個人の自立を尊ぶという自らの教育上の信条に照らして形成された自らの内心に反する行為に限って、なぜ外形化することを強要されなければならないのか、説明がつかないからです。
 内心とその外形化の捻じれが問題になる時に、教員の内心が一時の教育行政の意に沿わない場合は外形化を禁圧され、教育行政の意に沿う行為と偽って外形化することを強要されるのでは、教員個人の人格的自律の基盤となる思想・良心の自由が破壊されるのも同然です(堀口、前掲論文、38ページ)。

また、(過去の)起立・斉唱への不服従を理由に懲戒処分をしたり、再雇用を拒否したりするのは、特定の思想信条を理由に個人に対し、著しい差別と不利益処分を課すものですから、思想・良心の自由の間接的制約どころか、直接的侵害にほかなりません。
 ましてや、「研修」に名を借りて、起立・斉唱に応じなかった自らの行為を非と認め、反省するよう迫るのは、自己の内心に背く行為を強要する行為であり、思想・良心の自由に対する非道きわまりない直接的な侵害です。

教育の現場に同調ではなく、自分の頭で考え、自分の言葉で語る自立の精神を醸成することは、生徒を民主主義の担い手へと育む教育になくてはならない条件です。
 私は約40年間、3つの大学で教育に携わった者として、最高裁が、こうした教育環境を取り戻すのにふさわしい判断を示されることを希望してやみません。
                           以上

Pc051733初出:醍醐聡のブログから許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion8235:181218〕