踏切で人を救った後逃げ遅れて死亡した女性の国を挙げての英雄化はおかしい

自分のツイッター@PeacePhilosophyより転載します。

踏切の死亡事故に責任を取るのは鉄道会社である。踏切で危ない状況にあった人を救って死んだ人に対し謝罪、補償をすべきも鉄道会社。遺族は鉄道会社を相手取って訴訟を起こすべきである。身代わりになって電車にひかれた人の死を美化したり国が顕彰したりする靖国的騒ぎには深刻な警鐘を鳴らしたい。

この事故のことはニュースでもトップ扱いでこれでもかこれでもかと取り上げられそのたび手を合わせる人、勇気をたたえる人、「自分にはできない」と称賛する人のコメントなどが繰り返し流された。それに加え国からの顕彰である。マスコミや国による取扱いの過剰さをおかしいと思う人は少なくないはず。

しかし異論を差し挟む余地のない、倫理的演出がされているから声を上げにくいのである。だから私は敢えて声を上げたい。おかしいものをおかしいと言えない雰囲気を作り支えることで市民は戦争に加担させられたのだ。絶対にそのような加担をする人間にはならないとの決意で敢えておかしいといいたい。

自分の命を守ろうとするのも、困っている人を助けるのも人間に備わっている自然の性質だ。どちらがより正しいとかではない。今回の被害者は助けたいという自然な思いに従い、逃げ遅れて電車にひかれてしまったのである。自らの命を犠牲にして人を救ったというように演出されたとしたら間違いである。

ニュースで聞いたご両親の言葉は、娘は帰ってこないがたくさんの人の支援に「幸せ」に思う、娘を「見習って」生きていきたいといったような内容だった。私は正直言って恐ろしくなった。若い我が子の突然の死についての声明で「幸せ」とか「見習って」とかいわざるを得ない雰囲気を作ったのは誰なのか。

安倍首相らは戦争賛美神社に行けない代償行為であるかのごとくに伊勢神宮に集団参拝した。戦時の自殺攻撃部隊という国策の被害者を扱う博物館のある知覧には「愛する人のために」といったスローガンが流れ、直後に自衛官募集広告が出る。私は今回の出来事をそういった世相の文脈のなかで見ている。

@PeacePhilosophy より。

初出:「ピースフィロソフィー」2013.10.08より許可を得て転載

http://peacephilosophy.blogspot.jp/2013/10/blog-post_8.html