多くの人が、人の生き方として「自分には厳しく、人には優しく」という生き方をあるべき生き方と考え、「他人に厳しく、自分には甘い」のは卑劣な、してはならない生き方だと思ってきた。この多くの人達が思ってきたことに反論も異論もないのだが、聞いているとどうもその視点、個人の視点で個人と個人の関係の留まったものか、広くても手の届く小集団までで、社会という視点からの考察がなされていないように見える。
社会の視点から考えるために、今自分が一つの組織を率いる立場にいると仮定する。ここではあるべき自分の律し方と、自分たちと他の人たちとのあり方が二種類ある。一つは先にあげた「自分には厳しく、人には優しく」で、これが自分と自分が率いる組織の個々の構成員との間に成り立つ。二つ目は、“自分たち”と“他の組織とその組織の構成員”とのあり方で、これがでてくると、何の疑問もなくあるべき生き方と思ってきた「自分には厳しく、人には優しく」が怪しくなる。
個人と個人の関係に言及した「自分には厳しく、人には優しく」を、ここで組織と組織の関係を言い表すものに拡張する。拡張するには“自分”を“自分たち”に、“人”を“他の組織とその構成員”に置き換えればいい。ただ、単純な単数同士の関係が複数を示す単数同士の関係になっただけなでなので、本来自分を厳しく律し、他人に寛容な生き方を善としているのであれば、この置換えが意味することに反対のはずがあろうはずもないはずなのだが。
巷で起きていること、それこそ世界中で歴史的にも当たり前のこととして起きてきたし、起き続けていることは、この“あろうはずもないこと”であって、“あろうはずのこと”が起きたことはないのではないか、あるいは起きていたとしても非常に希なことだろうと想像している。
ここで先の仮定に戻る。組織を率いるリーダーは、率先垂範を絵に描いたような立派な人で自分には厳しく、部隊の全ての人に対しては寛容だったとしよう。彼(女)が仕事で関係する別の組織のリーダーと両組織間の協同作業や業務分担に付いて話し合った。彼(女)は率先垂範してきた立派な人であるがゆえに、組織と組織の関係を超えた一段上から全体像を見る能力もある。それ故にと言っていいと思うのだが、こうあるべきという生き方を組織と組織の関係にも適用し、「自分たちに厳しく、別の組織とその構成員には優しく」で合意する可能性が高い。(利己的なリーダーであれば、できるだけの負荷を相手組織に押し付け、自分たちが楽をすることを最優先とするだろう。) 合意してきた内容は、彼(女)の組織の構成員にとっては、両組織間の業務分担や負担がフェアでない、自分たちの組織の方により多くの負荷がかかって、話し合った相手の組織が楽をする、割に合わないものになっているだろう。
ここで、一組織を率いるリーダーを政治家に置き換えて見ると、世間では、この“あろうはずもないこと”としたことしか起きていないことに気づく。たとえ天下国家を論じたところで、選挙の時に限らず日常的に、ある一地方や、ある利権団体の利益代表に過ぎない政治家がその一地方や利権団体の利益を蔑ろにして、別の組織に利益を寛容に引き渡すようなことを構成員が許容するだろうか?政治家と言ってもなにもない。あるのは地元に利益を誘導し、利権団体の利権を守り、増やすことででしか存在理由のない人たちに過ぎない。企業などの社会組織においてもこの政治屋がしていることと同じ事が繰り返されている。自らが率いる組織に過分な負担を強いることができる、しても組織の構成員が肯定してしまうまでの強力なカリスマ性を備えた本物リーダーは長い歴史のなかにもほとんどいなかったろう。巷の流行語になった感のあるリーダーシップなどと言われる程度の力量では、構成員にリーダーと同じように高潔であることを強いることはできない。ただ高潔というだけでは、リーダーはフツーに下賎な構成員から疎外され、業務遂行に支障をきたす。歴史上も今も変わらず、リーダーがリーダーたらんとすれば、率いる組織の増長、権力と権限拡大、予算増加。。。を謀り続けなければならない。そこでは、よく言われるリーダーたるものの条件である「自分には厳しく、人には優しく」とは全く反対の「自分たちには優しく、他の人たちには厳しい」、要は“身びいきできること”が、もっとはっきり言ってしまえば“身びいきの才能”がリーダーとして最も重要な資質になる。
多くの日本人が軽蔑しているであろう発展途上国の政治、社会の問題の本質も実はこの“身びいき”にある。多民族、多宗教、多部族、多分文化。。。利害が一致しないというより利害が相反する社会集団において、何らかの立場にいるには、他の利益集団の人たちの命と引き替えにしてでも自分たちの利益を守り、増やせる能力が絶対必要条件となる。そのようなところでは、たとえ真っ当な選挙が行われたとしても投票する側、フツーに下賎な選挙民は自分の、自分たちの利益-部族や宗派や。。。の利益-を増やすことにしか関心がない。世界には、人種や宗教、文化も何もかにもが違う人たちが一つの国民国家を形成している国がいくらでもある。にもかかわらずアフリカなどの発展途上国では、いつまでたっても国家が、社会が成り立つために必須の国民国家への所属意識が生まれない。あるのは、悠久の時が作り上げた部族や宗教を基盤とした利権構造と、その利権構造の操作にたけた、「自分たちには優しく、他の人たちには厳しい」リーダーたちだ。
テレビや新聞などの報道から得た知識をもとに日本人の多くが侮蔑の対象としている発展途上国の政治や社会の腐敗、汚職や紛争。。。それらの山積する問題の本質が、実は、自分たちも日常的に骨の髄まで浸かっている、全く同じ“身びいき”にあることにどれほど気がいついているのだろう。“身びいき”と“差別”は同じ現象を違う面から言い表しているに過ぎない。“差別”には特筆すべき特徴がある。それは、差別する側は差別していることに気が付かない。“差別”は、差別される側でなければ知覚できない。似たような特徴が“身びいき”にもある。知ってる(面識がある)、同郷(県人会などはその典型)、学閥、気が合う、コネ。。。差別のあるところには必ず“身びいき”がある。多くの発展途上国の腐敗や汚職。。。を軽蔑しているのはいいが、日本も五十歩百歩。同じように軽蔑すべき、唾棄すべき“身びいき”ででしか動かない、解決能力のない社会にしかみえないのだが。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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