軍事クーデター⇒秩序⇒最小限流血か、民主化⇒内戦⇒最大限流血か、筋道のディレンマ

著者: 岩田昌征 いわたまさゆき : 千葉大学名誉教授
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〈解説〉

  2011年12月25日と26日の『ポリティカ』紙(ベオグラードの日刊紙)に社会主義ユーゴスラヴィア時代のユーゴスラヴィア人民軍(JNA、連邦軍)の最高幹部の一人、ブランコ・マムラ提督のインタビューが載っていた。マムラは、クロアチアのコルドゥンのセルビア人家族に生れ、90才、現在、モンテネグロのティヴァトに住む。参謀総長を経て、1982-88年国防相を勤めた後に引退、年金生活に入る。当時、連邦軍は兵士、下士官、将校を合わせて33万6千人を数える強力な軍隊であった。このインタビューは、軍トップが軍事クーデターか多民族戦争かのディレンマに関して、前者の立場を明記したものとして紹介に値する。要約・意訳で紹介する。

 また、タイトルに関しても一言。これは紹介者のつけたタイトルである。新聞記事の見出しは、「ユーゴスラヴィアは壊されたのだ」(12月25日)と「ミロシェヴィチが連邦軍を壊したのだ」(12月26日)。民主化⇒諸民族主義の激突⇒多民族戦争⇒最大限流血の現実を既視してしまった現在、「軍事クーデター⇒最小限流血」はそれほどショッキングではない。しかし、マムラのプランが実現していて、クーデターと最小限流血が現実になっていたとすれば、私達市民社会は民主化破壊と無用の流血を断固非難したはずである。

 〈要約・意訳〉

  :旧ユーゴスラヴィアの諸民族は破壊なしに、より平和的に分離できなかったのか?

  :ユーゴは崩壊したのではなく、破壊されたのだ。家の中で火が付けられた。しかし、消防士は火事を消すのではなく、家を完全にこわしてしまった。連邦軍の私達はユーゴスラヴィアを改革しつつ、保全したかった。それ以外は戦争になるからだ。権力は諸共和国に在った。連邦レベルに権力があったとすれば、国家幹部会と党幹部会、特に後者だ。ユーゴ解体から生じた悲劇の最大責任は権力掌握者達に在る。

  :連邦軍トップの責任は?

  :軍事クーデターを実行しなかった事だ。西の二共和国(クロアチアとスロヴェニア,岩田)の民族主義的首領と民族主義的行動が連邦軍をセルビア民族主義の手中に追い込む事を許した事だ。セルビア民族主義は無分別に連邦軍を利用し、そして最後に見捨てた。

  :貴方の個人的責任は?

  :せねばならないことがあった。しかし、しなかった。諸民族の暗闇の過去からやって来た退行的諸勢力は自分達の民族主義的戦闘旗をかかげていた。彼等を阻止できるし、阻止せねばならない。そして連邦軍がそれをやらない理由はないと私は信じていた。間に合うようにそれをやっていたならば、連邦軍は全ユーゴスラヴィア諸民族の多数派の支持を獲得したであろうと私は信じている。ユーゴの市民達が実際に体験した事と比べれば、比較にならぬほどいい帰結をもたらしたであろう。最も悲劇的な結末にならないようにできる事すべてを実行しなかった事に私達と私達の世代は責任を背負っている。

  :セルビア知識人とスロヴェニア知識人の衝突、そしてセルビアとスロヴェニアの政治的協力の中断がユーゴスラヴィアの終わりの始まりですか?

  :スロヴェニアの民主化とセルビアの反官僚主義革命は、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟と共通国家ユーゴスラヴィアの解体を通して進展して行った。1985年秋、スロヴェニアとセルビアの反対派知識人達が最初の会合をリュブリャナ(スロヴェニアの首都、岩田)で持った。コンフェデレーション(連合)国家としての「第3の」ユーゴスラヴィアが、・・・・、自立的民族諸国家の創設が論じられた。・・・・・・・・。

 まさしく、スロヴェニアとセルビアがユーゴスラヴィア解体メカニズムを始動させた。

・・・・。

  :セルビアにミロシェヴィチがいなかったならば、クロアチアにおける1990年と1991年の諸事件は起きなかったと思いますか?

  :ノーだ。ミロシェヴィチ以前にクロアチアの民族主義は存在していた。しかし、彼の大衆動員やユーゴスラヴィア再編成の試みの後にそれは爆発した。・・・。クロアチアの共産主義者が権力を民族主義者に手渡したことは争う余地がない。スロヴェニアの共産主義者も同様だ。然るべき時に自己改革できなかった共産主義者がユーゴ解体の最大の責を追う。

  :クロアチアにおける衝突前夜に連邦軍はクロアチアの準軍事組織すべての武装解除をしなかったのは何故か?

  :私が国防相を辞任する時、カディイェヴィチを新国防相にと提案したのは私だ。彼は誠実だが、決断の将軍ではなく、遂行の将軍だった。連邦軍が自己の任務を遂行する能力を確信していなかった。とどまることを望んでいない人々をユーゴスラヴィアにとどめる必要はないと考えていた。残念なことだが、私がそれを悟った時、遅かった。私の立場は、ユーゴの諸人民が別の形で合意に達するまでは、領土的一体性と憲法秩序の護持が連邦軍の憲法的任務である、だ。誰がユーゴの外へ出て行きたいか、誰がユーゴにとどまりたいか、の論議に関与することなく、だ。1991年1月25日が、ユーゴスラヴィア破壊が決定的に始まった日付だ。連邦軍の悲劇的失策はクロアチアの非合法武器輸入のフィルムと関わる。連邦軍は、その輸入を阻止するのではなく、輸入現場を撮影しただけだった(体制転換後のハンガリー民主政権はハンガリーが歴史的に影響力を有する隣国クロアチアへの武器密輸を許可した。岩田)。

  :軍が諸共和国の政治指導部を入れ替えたとして、貴方は権力を行使する上で誰を頼りにしていましたか。

  :どんな人達がそのような選択のために私達に申し入れしていたか、あなたはびっくりするでしょうね。ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国のすべての共和国にそれに賛成する質の高い人々がおりました。御承知のように、人々は断固たる者に従い、勝利者につくものです。連邦軍が何かより強力な初発の成功をおさめておれば、すべての人々が連邦軍に従ったでしょう。しかしながら、カディイェヴィチはミロシェヴィチ支持を決めました。国防相に彼を提案したのは私の責任です。

  :連邦軍のスロヴェニアにおける敗北は?

  :軍事的に無様な計画だし、作戦だ。カディイェヴィチも、コルシェク(1991年6月のスロヴェニア十日間戦争の時の現地司令官、スロヴェニア人、岩田)もアジチ(参謀総長、ボスニア・セルビア人、岩田)も任務に耐えるレベルになかった。また、ミロシェヴィチとクチャン(スロヴェニアの政治トップ、岩田)は、すでに1991年1月にスロヴェニアのユーゴからの離脱で合意に達していた。

    問:ヴコヴァルとドゥブロヴニクは?

  :ヴコヴァルもオシイェクもポケットだ。迂回して最小限二方面からザグレブに達する十分な兵力があった。そこで事態を解決できた。連邦軍がセルビア人の民族的境界にとどまって、クロアチア人と戦火をまじえたのは、敗北的政策だ。ドゥブロヴニク周辺の連邦軍の戦いは、不分明かつ非論理的だ。あそこでなされた事はすべて恥辱である。

  :ユーゴスラヴィアの原爆開発プロジェクトは?

  :核開発プロジェクトは存在したし、私もその委員会のメンバーだった。しかし、それについて詳細を何事も語りたくない。ともかく我々は、大きく強い国家だったのです。

 〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study433:120107〕