転形期の日本(その一)~(その五)

著者: 三上治 みかみおさむ : 社会運動家・評論家
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転形期の日本(その一)
                              12月5日                          

 僕の住所の近くで年末になると「世田谷ボロ市」がある。12月15日・16日と翌年の1月15日・16日に開かれる。400年を超す歴史があるようだ。いつもボロ市の声で年末を実感してきたのであるが、今年もそうである。テレビではもう年末を演出する場面が見られるが、国会では恒例となった感のする閣僚の辞任騒ぎが起きている。何も変わらないことに絶望と妙な安心を感じながら年末の光景につき会わされることになるのだろうか。アメリカの金融危機に端を発したユーロの危機が連日メディアでは報じられているが、「3・11と復興」をめぐる動きは紙面の背後に移動しているようにも思える。僕らが世界や歴史の動きの一コマにつき会わされることと日常という日々が像を結ばないままに過ぎて行くように思えてならない。そこに立ち留り自問しつつ僕は今年も論評を続けてきた。徒労に似た作業であるが、読者の声はうれしい。そのために作業を続けていると言ってもいいのだけれど、また、続けろという内心の声も消し難くある。視界の閉ざされた時代の中で何処かへ出たいという思いは誰しもがあることだと思う。行動するもよし書くもよし、決局は同じ事だと思う。

 3月11日の東日本大震災や原発震災が僕らに日本社会がどこかで変わらざるを得ないことを意識させたことは間違いない。この意識は「転換」と言う言葉に象徴される。僕らは時代が一方で速いスピードで変わっていくことを実感している。僕らの社会に対する意識は歴史的な認識(時間の中での了解)としてやってくるのだが、現在は歴史の流れが速すぎて了解できない事件や現象がやってきては急速に過ぎて行くからうまく了解できないという事態がある。歴史の流れにこころの動きが対応できない。歴史の流れや動きを解説し、その方向を示してくれるコメントもある。メディアにはそれが溢れている。僕らが毎日とても読み切れない程の新聞や雑誌の記事もある。それにネットメディアもある。氾濫するほど歴史の流れを解説したり、解読したりするものはあるが、自分が納得しうるものは多くはない。結局、自分がこうした論評を書いているのは歴史の流れをつかみたいためであるが、「自分にとってだけではなく他者にとってもそうであるところのこと」としてそれを行いたいのである。僕らが社会的に存在しているためであるが、言葉もまたそうした存在だからである。『転換』という意識は3月11日が僕らにもたらしたものであるが、僕はすべてが忘却されていくように現象することに抵抗し、流されないためにこれに執着したいと思っている。その意味ではこの言葉こそが今年の最も重要な言葉である。

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転形期の日本(その二)
                              12月6日                          

 大震災と原発震災に直面して菅内閣はそれにあたるだけの任に耐える事が出来ずに野田内閣に取って替わった。野田内閣は『何よりも復興に全力をあげる』と述べたが、そのためのさしたる進展はみられない。『復興は遅れている』という事態は続いているし、原発問題では推進派の巻き返しの前に後退が続いている。そして、野田内閣が推進したのはTPP参加交渉であり、沖縄の基地移設問題への踏み込みである。さらには消費税を含めて増税の準備である。世界的にはドル安=円高の中でのユーロ危機の深化である。世界の政治経済危機が深まる中で復興問題を抱えた日本は何処へ向かおうとしているのか。野田内閣のめざしているのはユーロ危機によるEUの政治経済危機に対して財政再建と日米同盟深化という方向である。財政再建により、アメリカやEUのような国債《債券》危機の波及を防ぎたいということがあるのだと思える。リーマンショックによる世界的な財政危機《財政出動の結果による政府の債務危機》が国債の危機に対応したいということがある。これには財政危機の解決策という問題提起として検討していいが、彼に欠けているのは日米関係の見直しの不可避《必然性》という認識である。これは復興のビジョン(構想)を持ってはいないことと深く関係している。沖縄問題を見れば明瞭である。日米関係の見直しというビジョンのないところで基地問題の解決の構想を持てないのと同じである。

 日本の政府や官僚が「3・11が促す日本の転換」という問題を引き受けられないのは戦後の日米関係の見直しに踏み込めないことと同じである。何故、アメリカの方にだけ顔が向いていて日本の国民に背を向けているのだというのはしばしば聞かれる。これをどう理解するか。ここにはアメリカ支配から脱しえない日本の政治家や官僚、メディアという感覚的反発を超えて問題がある。ここにあるのは日本の現在から未来へのビジョンや構想の問題である。そこのところで誰も明瞭なビジョンや構想を提示できていないということがある。日本国家が軍事的に独立しえていないからであるというのもこれに対する一つの見解であるがこれは違うと思う。これを主張する連中は軍事力の問題にすり替えているだけで、日本の現在から未来へのビジョンや構想を提示しえていない。この戦後の日米関係を見直し、替えていくことは明治維新以降の日本の近代化の動きそのものの検討を促す。もちろん、日米の開戦にいたる1930年代の思想の再検討を要する。それだけの歴史的な視野を要求することなのである。

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転形期の日本(その三)
                              12月7日                               

 大震災や原発震災で人々の関心がそれされた感のする沖縄の基地移設問題は野田政権の踏み込みで再び緊迫度を増してきている。防衛省局長の本音とでもいうべき発言で混乱しているが、政府は本当に辺野古の新基地建設が可能と見てアクセス評価書を提出しようとしているのか、それともアメリカの合意履行要求に応えるためのゼスチァー(?)であるのか。膠着状態にあるかのように見える基地移設問題で防衛省を中心とする官僚は地元の工作を進めているとも伝えられる。カネでという工作を裏でやっているわけで、防衛省局長の背後にあるものを見なければならない。だが、戦後の日米関係の政治面《安全保障面》での関係見直しか、むしろ同盟関係の進展かということが基地移設問題の本質でここでの日本の問題を見なければならない。転形期というとき日米関係からアジア関係重視ということが出てくるのだが、その政治面がここに象徴的に現れている。

 現在の沖縄の基地移設問題が膠着状態にあるのは沖縄の地域住民の動き《抵抗》の結果であるが、直接的には日本政府が袋小路の様相にあるのは民主党政権が日米関係の見直しという選挙公約を反故にし、日米同盟深化の方に舵を切ったからである。「最低でも県外」と主張していた鳩山元首相が「やっぱり抑止力」という言葉で転向《転換》したことがそのはじめであったが、あれ以降は民主党の中でも「日米関係の見直し論」は影をひそめてしまった。日米関係の見直しとアジア関係へのシフトということは政治―軍事面と経済面とがあるが、まず、政治―軍事面での後退が進んだのである。これはオバマ政権が9・11以降のアメリカの戦争の転換(チェンジ)をやれずブッシュ政権の戦争政策を継承したことと関係する。オバマはその上で北朝鮮や中国の脅威論を軸にしたアジア戦略の再編をやり、日本の民主党政権はそれを追随しているのである。日本はこのアメリカの戦略から相対的に距離をとり、アジアでの戦後の政治―軍事関係を変えることに踏み出す機会を失っているのである。鳩山が「やっぱり抑止力」と言ったのはアメリカと距離を取りつつアジア関係にシフトしていく時の政治面《安全保障面》での最大の問題がアジアでの、とりわけ中国との関係であることを示している。9・11以降のアメリカの動向と軍事面でも力をつける中国の中で日本は独自の政治戦略を持てるか、どうかということである。核武装も含めた軍事面での強化がそれを可能にするというのが保守や右翼の一部の考えであることは先のところで述べた。これは否定される。

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転形期の日本(その四)
                              12月8日                               

 日米の開戦から今日は70周年になる。メディアなどで開戦時の見直しの報道や記事もあるらしいが、僕にはさほどの興味はない。今の日米関係に感心が集中しているからだ。9・11の後にアメリカの戦争戦略との関係で日本は選択を迫られたが、当時の小泉首相は従来よりもアメリカの戦略に同調した。ブッシュ路線に同調し、自衛隊の海外派兵までやったのである。この時の一つの契機には北朝鮮の軍事的動向があった。アメリカのイラク・アフガニスタンでの戦争は行き詰まり、その戦争路線の転換が促される中でオバマの登場があったことは先のところで述べた。このことは日本では小泉路線の見直し気運として影響した。これは民主党のアメリカとの関係の見直しという外交(外政)路線となった。ブッシュを継続した上に、アジア戦略を再編したオバマに同調する民主党政権は小泉―安倍路線に立ち戻っているのである。

 小泉―安倍路線の日米同盟深化路線は戦後の日本が冷戦構造の中でもアメリカの戦争戦略に相対的に距離をとってきた戦略(軽武装経済重視)の修正である。専守防衛論のもとにアメリカの戦争への集団自衛権の行使による参加を禁じてきた戦略の修正である。集団自衛権の行使の容認、武器輸出の規制緩和、非核三原則の修正であり、最終的に憲法改正(憲法9条改正)が目標である。吉田ドクトリンと言われた軽武装経済重視の戦略を継承するのは小沢一郎等であるが、その中でも田中角栄は日中同盟とでもいうべき中国重視に踏み込んだ。戦後世代(戦争経験のない世代)が増えて、イデオロギーとは別にアメリカの戦争戦略に距離を取り、同調することに抵抗する部分が減ってきていることが

 民主党や自民党の面々を見ていて分かる。そこに日米同盟論や小泉―安倍路線(その継承も含め)の危ういところがある。そこで背景として出てくるのが中国脅威論だが、これは何であろうか。それは二つのことがある。中国の統治権力の構造が対外的に与える不安感である。もう一つは歴史的に中国の周辺国が抱いてきた不信感である。中華思想の裏側である。その意味でアメリカはこれを巧みに利用し分割支配の政治戦略を行使している。日本は戦後にアメリカの戦争に距離をとり、専守防衛という戦略でやってきた道を深化すべきである。これをアジア地域に拡大していくべきである。これは憲法9条の専守防衛的解釈を最低のライン(最低限綱領)として非戦路線に向けて発展させることであるが、アジアでの安全保障戦略として憲法9条を据える事を意味する。中国脅威論解体に踏み込んで行くこともその中にあるはずだ。

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転形期の日本(その五)
                              12月9日                               

 アメリカの戦争(安全保障戦略)が世界の平和と秩序維持の根幹であるという思想を疑わねばならない。そして、日本の国家戦略《安全保障戦略》を非戦(憲法9条)で明確化しアジア戦略の中で生かすことが日本の道である。ここに踏み込まなければなければならない。この背後には近代ヨーロッパの思想制度を超える契機がある。憲法9条の非戦という思想は日本人の第二次世界大戦を経て形成されたナショナルにしてインターナショナル(普遍)なものである。これをアジア地域に拡大することでアメリカの戦争観が代表する西欧近代思想を超えて行かなければならない。これは現在の世界的課題である。

 中国の周辺の国家が中国に抱いてきた脅威感が中国の発展の中で増しているように思われる。これには一党独裁という統治権力の形態への懸念もあるが、歴史的な感情という要素が強い。日本社会は明治維新まで中国文化圏に属していた。その中で日本文化の独自性を中国の思想制度に対抗して意識的に提起したのは本居宣長だった。彼の「ものあわれ論」や「神ながらの道」である。日本の文化的特質を析出したものであって、そのままでは国家制度に結晶するものではなかった。これは近世のナショナリズムとして近代ナショナリズムの源流的位置を占めてきたが差異も持っていた。近世のナショナリズムは中国との長い歴史的関係が背景にあるが、これは国家的対抗としての政治的なナショナリズムではなく文化概念であることを理解しておかなければならない。中国の周辺諸国であらわれる中国脅威感は長い歴史からくるものと、近代の政治的関係から来るものとの二つがあるが、そこはよく考えていくべきところだ。西欧近代思想制度をアジア諸国が移入することで発生させてきたナショナリズムと対抗関係と中国文化圏の歴史の中で形成したものである。例えば、日本は明治時代以降に中国への帝国主義的侵略を西欧のナショナリズムを移入《模倣》することで行った。そのことが日本に対抗するナショナリズムを中国で生んだ。この延長上での反日行動などがある。これは中国への侵略戦争が呼び起こしたものであり、日本の歴史認識や反省の問題として解決して行かなければならないことだ。他方で近世のナショナリズムは日本統治論《神ながらの道》で近代天皇制の基盤になった。これは日本列島の住民の文化が本居や国学が依拠する神話的世界を相対化することで解体される。中国脅威論は曖昧なものであり、曖昧であることが解決する道を難しくしているが、二つの契機を分けて考えて行くことが重要になる。そこが脅威論に対応する道筋になるはずだ。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0717:111209〕