近藤典彦氏による拙著『啄木と秋瑾』の書評を読んで

著者: 内田弘 うちだひろし : 専修大学名誉教授
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数日前、国際啄木学会『研究年報』(2011年、第14号)が七月堂から郵送されてきた。そこに近藤典彦氏による拙著『啄木と秋瑾』(社会評論社、2010年11月15日刊行)の書評が掲載されている。さっそく拝読した。

まず、浮かんだのは、《ありがたい》との感謝の念である。よくぞ、難物の拙著を書評してくださったと思う。なにしろ、拙著は《啄木と秋瑾》という啄木研究史上、前代未聞の問題提起の書物である。驚愕をもって受け止められたにちがいない。実際、近代日本思想史家の鈴木正氏は『図書新聞』(2011年4月2日号)に掲載された、拙著の書評の冒頭で、「本書を手にして一驚した」と書いた。近藤氏はすでにソフィア・ペローフスカヤというロシア帝政末期の女性革命家が啄木に強い印象をあたえ、啄木に短歌を詠わせた存在であることを立証した経験がある。その近藤氏だからこそ、中国清朝末期の女性革命家・秋瑾と啄木との関係を論じる拙著に強い関心をよせたのであろう。以下、その書評にできるだけ内在して読後感を記す。

[①~1] 『石川啄木全集』には、秋瑾の名、秋瑾遺稿集『秋瑾詩詞』、秋瑾詩「寶刀歌」等の著作名が一切書かれていない。これは拙著の出発点である(第2章参照)。近藤典彦氏も、啄木の1907~1908年の北海道時代の状況に内在し、「女教師秋瑾の斬首とそれをめぐる清国の『革命党』をめぐる情勢を啄木は知っていたと考えるのは合理的である」(『研究年報』No.14、104頁上段)と判断する。近藤氏はつづけて「とすれば、『綱島梁川氏を弔ふ』『初めて見たる小樽』詩『(無題)』『卓上一枝(三)』のどれかあるいは全てへの『秋瑾事件』の影は十分に考え得る。内田の卓説である」と評価する。『全集』に秋瑾名・著作名が書かれていなくても、他の立証条件で啄木作品の秋瑾との関係は立証できることを認めている。

[①~2] 拙著が啄木の友人平出修・並木武雄が秋瑾をよく知っていたと解明したことを受けて、啄木の彼らとの関係からも「秋瑾情報」を得ていた蓋然性がある、と近藤氏は判断する。この二人の友人との関係については、拙著に載せた「秋瑾ゆかりの地《神田区》」(30~31頁)にも言及し「まことに興味深い」と指摘する。

[①~3] 近藤氏は、拙著が指摘した啄木作品の一つ「詩『黒き箱』の「唇紅く黒髪長き/生首」などの句はたしかに『女教師秋瑾・・・斬首』を想起させる」と認める。

[①~4] 拙著は時事評論家・啄木を解明した。これを「社会科学者内田氏の面目躍如とした卓論」と評価する。

ところが近藤氏は、他方で、拙著の核心部分である、啄木作品(短歌・詩・評論に日記も含める)と秋瑾作品(詩詞)との対応関係の立証そのものに対しては、「啄木が「寶刀歌」と『秋瑾詩詞』を読んだことを証明する資料を『石川啄木全集』全八巻中に見出すことはできない。(内田)氏ももちろん見いだしていない」(同104頁下段)ことをもって、「本書の主要部分はすべて妄説である」(同)と批判する。ここで近藤氏は拙著の評価基準を急変させた。

[③~1] 近藤氏の[①~1]から[①~4]までの肯定的評価との否定的評価では、評価基準がまったく相対立する。

[①~1]で近藤氏は、《『全集』に秋瑾の名や秋瑾の作品名がなくても、その他の立証条件で》、啄木は秋瑾を知っていただけでなく、秋瑾のことを書いたと判断して、拙著における立証法を積極的に認めているのである。

[③~2] ところが、では、《『全集』に秋瑾の名・作品名がないことをもって》、拙著の肝心の内容「啄木作品と秋瑾作品との対応関係」の立証を「妄説」として退けるのである。とでは、評価基準が相互に否定しあう「ダブル・スタンダード」になっている。この錯誤に近藤氏は気づいていない。

[③~3] しかも拙著は、啄木作品と秋瑾との対応関係を、秋瑾「作品」との対応関係だけに限定してはいない。例えば、啄木は、(近藤氏が啄木は知っていたと承認する)「秋瑾事件そのもの」を短歌で詠ったことを立証した。その一例、

「石破集」第35首 《 見よ君を屠(ほふ)る日は来ぬヒマラヤの第一峯に赤き旗立つ 》

は、「秋瑾事件」(1907年7月15日)および「赤旗事件」(1908年6月22日、神田錦輝館。同封「地図」を参照。翌日6月23日は「歌稿ノート」主要部分の執筆開始日)の「政治事件」を詠った歌であることを立証した。拙著256頁で指摘したように、啄木は「赤旗事件」が「大逆事件」に連動したと正確に見ていた。啄木は「秋瑾事件」の秋瑾と「赤旗事件」の管野須賀子をこの一首(「斬首=赤旗歌」)に詠った。しかも、「事件そのもの」を詠った啄木歌は「他者の作品との関連」で詠う啄木歌に連動しているし、さらに、啄木の短歌・詩・評論・日記は「秋瑾」を軸にして連結している(拙著第2章を参照)。

[③~4] 啄木と平出修は、『明星』で秋瑾悼歌を詠い合った(拙著第5章、特に92~93頁を参照)。その様々な語彙上の緊密な照応関係も主に「秋瑾事件」もモチーフとしている。拙著の「斬首=赤旗歌」や啄木・平出の返歌のやり取りの解明でも、近藤氏のいう《「妄説」説》は覆るのである。

[③~5] 拙著は啄木が秋瑾斬首に衝撃を受け『秋瑾詩詞』などの作品を踏んで自分の作品に表現したことを立証した。ところが近藤氏は「啄木短歌と秋瑾詩との間に(内田)氏が見ておられるある種の共通性は、啄木と秋瑾に共通の漢籍上の教養(たとえば唐詩選等)に由来するのであろう」と推定している(同104頁下段)。この推定は《論点ぼかし》である。なぜか。

近藤氏のいう「啄木と秋瑾に共通の漢籍上の教養(たとえば唐詩選等)」は、啄木と秋瑾の共通性の根拠になりうるか。近藤氏は『唐詩選三体詩総合索引』をご覧になったことがあるだろうか。そこには膨大な数の語彙が収録されている。その索引の中に、二人の作品に共通の語彙がみつかったとすると、膨大な語彙総数に占める「共通の語彙」の比率は極めて小さいから、その共通性は単なる偶然ではなく、或る必然性に拠る。その必然性は啄木作品が秋瑾作品を踏んでいることにある。《啄木が秋瑾という存在を知っていたことはほぼ確実である》と近藤氏も認める蓋然性の方が、啄木作品の秋瑾作品との関連=「共通性」を直接に鮮明に裏づけるのに、なぜ、近藤氏自身も承認している二人の直接の関連から離脱し「共通の教養」なる茫漠とした世界に向かうのだろうか。拙著の「啄木と秋瑾の作品関連上の分析」の「帰結」を回避するためではないか。

[③~6] 近藤典彦氏は上記の[①~2]で言及した「地図」を評価しながら、その肝心な個所を避けた。『秋瑾詩詞』(1907年9月6日)を刊行した「秀光社」である。なぜか。『秋瑾詩詞』は平出修を介し北海道の啄木につながるからである。

秀光社は平出修の自宅の至極近くにあった(同封「地図」参照)。平出は自宅付近の「経緯学堂」で清国人留学生を教え、秋瑾が指導する「清国人留学生取締規則」への抗議事件(その頂点が「錦輝館」での抗議集会)で「経緯学堂」を辞任する(1905年末)。経緯学堂は錦輝館の正面にあった。この赤裸々な直接の「秋瑾経験」をもつ歌人・平出修が近所の秀光社から刊行された『秋瑾詩詞』(1907年9月6日刊行)に強烈な関心をもち、「秋瑾斬首事件」を報道する新聞を「むさぼり読んだはずである」と近藤氏が判断する北海道時代の啄木に『秋瑾詩詞』を送った蓋然性は高い。二人は1907年に年賀状を取り交わし互いに住所を知っていた。秀光社と平出修宅は、神田神保町交差点近くの同じ通りに面し近隣にあった。上京後の啄木は平出修宅をしばしば訪れ、秀光社前を幾度も通りすぎた。錦輝館も経緯学堂も近くにあった。「平出修宅・秀光社・経緯学堂・錦輝館」は「秋瑾」・「秋瑾事件」・『秋瑾詩詞』を軸に連結し、啄木に結ばれる。その「秀光社」を近藤氏は回避した。

昨秋の平出修研究会(2010年11月6日)で、平出修研究家・塩浦彰氏は、秀光社の存在を指摘したのは内田弘の貢献であると発言した。そこに近藤氏も同席した。或る実証的啄木研究家は、私がその平出修研究会の報告要旨を送ったところ、秀光社の存在をこれまでの啄木研究が見つけ出すことができなかったことを、恥ずかしく思う、と返書を寄せた。

[③~7] 近藤典彦氏は、啄木が北海道時代から秋瑾を知っていた蓋然性の根拠のひとつとして、『小樽日報』創刊号(1907年10月15日)に載せた啄木の評論「初めて見たる小樽」・「詩(無題)」をあげる。そこに「秋瑾事件の影が十分に考え得る」と評価する。拙著は「その考え得る」根拠を『小樽日報』作品に「寶刀歌」や『秋瑾詩詞』所収の詩「剣歌」が援用されていることで立証した(拙著第9章を参照)。啄木作品に内在するこの立証と先の「平出修・秀光社・経緯学堂の関係」という外在する事実との照応関係から、北海道の啄木が平出から『秋瑾詩詞』を受取った蓋然性を立証した(第3章)。その前提として、啄木の秋瑾斬首後の秋瑾への関連を27の事実で立証した(拙著第2章参照)。

近藤氏は、「寶刀歌」や『秋瑾詩詞』の作品名が『全集』には書かれていないから、拙著の啄木作品と秋瑾詩詞の対応関係の立証は「妄説」であると決めつける。同時に、近藤氏は、上記の拙著の立証を一切無視し、ご自分では秋瑾斬首報道の新聞記事を読んだであろうとの推定のみで、「秋瑾事件の影」を『小樽日報』作品に見るのである。こうして近藤氏は自ら無意識に《「妄説」説》の根拠を否定=撤回しているのである。近藤氏は無自覚な《「妄説」説撤回》を自覚すべきであろう。

以上、近藤典彦氏の書評を読んでいだいた感想を、率直に書いた。近藤典彦氏に再度謝意を表する。《啄木と秋瑾》という未知の主題を提示し論じた拙著をすすんで書評にとりあげてくれた、近藤氏の英断に敬意を表する。

私は近藤氏の学問的に誠に誠実な人柄に魅了されている者のひとりである。

過去の研究経験が構成する枠組=視野から自己を解放し、新しい果実をすすんで受容したい。これは私自身の「自戒」である。今後とも、近藤典彦氏にご教示とご指導を願う。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

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