追悼 伊藤誠さん  広西元信『資本論の誤訳』をめぐって

 伊藤誠さんが二月七日に急性心筋梗塞で亡くなった。八六歳。年賀状をいただき長野に転居したことを知ったばかりだったので驚いた。

 伊藤さんとは一九七九年にいいだももが主導していた季刊『クライシス』が刊行されるようになった時期に接点ができ、九〇年代には後継のフォーラム90sでもお世話になった。あえて共通点をあげると、彼は経済学部の教授として、私は病院分院の事務員として東大に勤務していたことがある。何度も赤門近くの経済学部の研究室を尋ねたことがあり、私が出していた雑誌に論文を書いていただいたり、研究集会で講演していただいた。いつも温厚で紳士然としている印象が残っている。

 二〇一八年には本誌『フラタニティ』第一一号(八月)の「編集長インタビュー」で「マルクス経済学者として」とタイトルして話していただいた。「ベーシックインカムの導入を提案している」ことや、「村岡さんは第四インターにもいましたが、私はエルネスト・マンデルと手紙のやり取りをしたことがあります」と話していただいた。「マンデルは第四インターの国際的指導者ですが、同時に経済学者でもあ」った。

 一九二〇年代から国際的な論争となった「社会主義経済計算論争」について論及した際に、私が「一九九六年に『原典・社会主義経済計算論争』を刊行しました。ロゴスの出版物としては売れたほうです」と言うと、「私も読みました」と応じてくれた。

 「私は、一九九六年の新社会党の結党大会にも出席して挨拶もしました。機関紙『新社会』にもたまに書くことがあります」とも話した。

 周知のように、伊藤さんは、本誌に良く執筆してくれる大内秀明さんとともに宇野弘蔵の経済学を引き継ぐ第一人者で数多くの著作を著した。海外でも著名でオランダ、フランス、韓国、中国などで翻訳され、ニューヨーク大学、ロンドン大学、タマサード大学、シドニー大学などで客員教授などを務めた。

 広西元信さんの『資本論の誤訳』をめぐるエピソードを記しておきたい。一九九四年に、伊藤さんから『資本論の誤訳』をコピーしたいから貸してほしいという電話があった。「研究室に持参します」と応じたあとに、「古本屋で入手した」と伝えられた。一九九四年四月に、私は「『一国一工場』の通説が隠していたもの」と題する論文を『季報・唯物論研究』第四八号に発表した。この論文で私は広西さんの『資本論の誤訳』(一九六六年、青友社)に学んで「一国一工場」の通説の誤りを明らかにした。私は同書を広西さんから一九九二年に有楽町の喫茶店リプトンで頂いていた。

 翌九五年二月に伊藤さんから新刊の『市場経済と社会主義』(平凡社)を献本された。彼からの献本は初めてのことであり、この一度だけである。どうして献本されたのかと思いながら読み進めると、第五章で「一国一工場論」を取り上げ、「あきらかにマルクスがみずからの理想として主張しているわけではなく」(九一頁)と書いてあった。そして「註」では、『資本論の誤訳』が上げられていた。私に論及することはなかったことを残念とは思ったが、広西さんが註に書かれたことは良かったと納得した。このような経過があったから、新著を献本してくれたのであろう。

 ご冥福を祈ります。

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