宇波彰先生が亡くなって、二か月あまりが過ぎた。悲しみは消えないし、そこから完全に癒えてしまいたくもないが、それでも、突然の訃報に言葉を失い、悲しみに包まれた今年初めのあの日に比べれば、今は穏やかな日常を取り戻しつつある。遅ればせながら追悼文を書く決心もついた。
思い起こせば、先生に「宇波彰現代哲学研究所」のブログの記事を書かないかと誘われたのが、2019年の夏。以来、一年半の間に9本の原稿を書いた。どの原稿にも先生は目を通して感想を述べてくださり、次の執筆を促された。ブログという執筆の具体的な場と先生の促しがなければ、ひとりではとても書き続けられなかったと思う。深く感謝している。
先生はご高齢になっても、粛々と執筆を続けておられた。2017年には『ラカン的思考』を出版されたし、最近も、新たにご著書を準備なさっていたと聞く。2007年に自著を出版したあと長く書けないでいた私に、先生は、ヴァレリーの「私は本を書き、その本が私を作った」という言葉を示してくださり、とにかく書くように諭された。先生自身が、若い日にその言葉と出会い、「これだ」と思われたのだという。
その言葉通り、先生は書くということをコンスタントに続けてこられた。とりわけ、先生がお書きになった書評はご自身が把握できないほど膨大な数に上り、絶筆となった原稿も、書評だったのが印象的である。いつだったか、書評は思想的表現の第一歩だというようなことをおっしゃっていたと記憶する。
読書意欲も衰えず、プルーストの『失われた時を求めて』を改めて全巻読み通すということをなさったのも、ほんの三、四年前くらいのことである。読破後、私に『失われた時を求めて』を是非全巻読み通してほしいとおっしゃっておられたが、私は途中で挫折してしまい、経過報告だけにとどまり、読破後の感想をお伝えできなかったのが、悔やまれてならない。
そういえば、先生の初期のお仕事に、ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』の翻訳があった。1970年代、ドゥルーズとガタリの思想を、翻訳によっていちはやく日本に導入なさったことも先生の重要なお仕事だったと思う。
1978年、先生の訳されたドゥルーズ=ガタリ『カフカ―マイナー文学のために』に対して、寺山修司が、出版後すぐに読売新聞に匿名で書評を書き、それがすぐれた批評文であったことを、先生は何度もおっしゃられていた。寺山についてラカンを用いて書きながらもドゥルーズ=ガタリとの親和性を強く感じていた私は、その書評を読んで、ああ、これが寺山なのかと深くうなずいたものである。
ただ、先生は、ラカンとドゥルーズ=ガタリとの差異は微妙なものだとも言われていた。近年は、ラカンをよく読まれていたようだが、同時に、ガタリの他者への応答力を肯定的にとらえておられたのが印象的だった。そんな先生に、両者の差異がどのように見えていたのか、もっとお聞きしたかった気がする。
先生とは、寺山修司研究の途上で知りあった田中未知さんの紹介で、十数年前に初めてお会いした。頻繁にメールのやりとりをするようになったのは、ここ五年ほどのことだったが、濃密で楽しい時間を過ごすことができた。先生のおかげで長く中断していた執筆も再開し、読むだけでは到達し得ない、書くことでのみ見えてくる地平があることをあらためて思い出したりした。そうした中で、先生の差し出されたヴァレリーの言葉、「私は本を書き、その本が私を作った」の意味を自分なりに理解した気になってもいったのである。こういう言い方が適切かどうかわからないが、それは幸福な時間だった。
二度とかえってこない時間だが、それは、これからもずっと私の記憶の中にとどまり、私を導いてくれるように思う。合掌。
(2021年3月14日)
初出:ブログ「宇波彰現代哲学研究所」2021.3.15より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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