◆ 国会や霞が関一帯の銀杏は冬の間に無残な裸木にされていた。痛々しい気分で眺めていたがいつの間にか深緑の葉を茂らせている。その生命力に感嘆すると同時に、いつもの親近感もわいてくる。緑の若葉は僕らに新鮮な気持ちと若々しい生命力を感じさせてくれる。いつきたも国会や霞が関には何か違和感がつきまとうが樹々の緑だけは心を和ませてくれるところがある。政治的舞台は馴染めないが、緑だけは別なのだ。
いつもそんな愚痴を誰に聞こえるでもなくつぶやきながらの「座り込みだが行動」だが、道路を隔てた向こうでの国会審議とやらを想像している。この道路一つを隔てた国会内の審議を新聞などの報道で読む限り、「共謀罪」をどう認識(理解)しているか、お寒いかぎりである。金田法相の答弁を引き合いにだすまでもないだろう。自民党も公明党もその内部でこの法案についてそれなりの討議や論議を重ねたとは思われない。上からの指示を上位下達よよしく、流し込んであとは強国採決というシナリヲ通りに進められているだけではないか。これに反論がるなら、金田法相にもう少しまともな答弁くらいはさせてみせろ。
◆ 共謀罪は表現の自由や内心の自由を規定した憲法の20条などに反していることは明瞭であるが、これは戦後の刑法の基本的な形態の破壊であり、改定である。実行されたこと、その事実が罪の対象になるということは、憲法の自由の規定と深く関係している。国家権力の恣意的な行為で訴追し、犯罪の対象にされることを防ぐ方法が行為事実だけを対象にする刑法の考えであるが、今回の共謀罪はそれを踏み外し壊しているのだ。ここには戦前の日本の権力のありように対する苦い記憶が存在する。
権力はいつも恣意的に、また人々の内心の自由までも犯そうとする。これは歴史的な国家権力や政治権力の性向である。だから、それを制限し、しばる規定を人々は憲法や刑法の規定として創り出してきたのである。日本ではこれには戦前の日本の権力の在りようや振舞いが記憶としてある。この戦後規定を破り、国家権力の恣意的、専制的な振る舞いに戻す、多くの人が戦前の治安維持法の復活と危惧するところはあるのだ。
◆ 国会の周辺では連日、多くのグループが院内集会や議員会館前での座り込み行動を展開しはじめている。簡単に記して置けば、僕らは衆院第二議員会館まえで12日(金)まで座り込み行動を続ける。(来週のことは週末に決定するが、この二ユースでお知らせする)。また、5月11日(木)は18時30分より、衆院第二議員会館前で他のグループの座り込みがあるし、5月12日(金)午後から総がかり行動などの座り込みもある。僕等は適時、合流などして参加して行きたい、と考えている。
5月8日~12日(午後1時~17時)国会前での座り込み行動後の第二弾も予定しており、国会前で顔を合わすことを楽しみにしている。 (文責:三上治)