進藤大尉のこと

著者: 宇波彰 うなみあきら : 評論家・明治学院大学名誉教授
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2010年の12月に初めて鹿児島を訪れた。指宿温泉に泊まったが、旅館の砂風呂は海岸の砂浜での砂風呂ではなく、人工的なものであった。熱した砂を係のひとたちがかぶせてくれるのだが、熱しすぎた砂だったのでかかとのあたりが火傷になった。「熱い」といえば対応してくれるのだが、我慢をするのがつねなので、火傷になった。温泉に行く前に知覧特攻記念会館を訪れた。

戦争末期の1944年、そのころ浜松にあった私の家に、進藤大尉という陸軍士官が、かなり長いあいだ泊まっていた。すでに戦争は末期に近く、アメリカ軍の艦載機が低空で住宅地のあたりにも飛び回っていて、私は防空壕の入り口から艦載機のアメリカ軍飛行士の顔を見たこともある。進藤大尉は朝早くどこかに「出勤」し、夕方になると帰ってきて、わが家で夕食を摂っていたが、「出撃の命令が来た」と言ってわが家を去って行った。私は進藤大尉が山形県の出身であるということ以外は、なにも彼のことを知らなかった。ただ、彼が「富嶽隊」の特攻隊員であることだけは知っていた。

進藤大尉がわが家に泊まっていたころ、私が通っていた小学校に、森本秀郎少尉というやはり特攻隊の士官が、母校を見ておきたいと言ってやってきた。同じ士官であるが、森本少尉は基地で生活していて、われわれ子どもたちは何回かその基地に遊びに行った。飛行服を着て、練習機に乗せられ(飛んだわけではない)、カメラを逆さまにして「宙返りの場面だ」といって写真を撮ってもらったりした。この森本少尉もやがてフィリピンで特攻攻撃に参加して戦死する。小学校からの友人で、いまも耳鼻咽喉科の医師としても活躍している小林武夫さんが、「M少尉の想い出」というエッセーを書いて私に送ってきた。(このブログに載せてある。)小林さんは知覧に行って、森本少尉の名前が「森本秀郎」であり、昭和19年11月27日に戦闘機「隼」に乗ってレイテ湾で戦死したことを調べてきたのである。

私も進藤大尉について何かを知りたいと思って知覧に出かけたのだが、会館にあるパソコンで検索していると、たまたま事務室から出てきた若い女性が、親切にもパソコンの画面に表示されているデータをプリントアウトしてくれた。そこには次のように記されてある。「進藤浩康大尉、富嶽隊、昭和20年1月12日、マルコットから出撃、大正8年生まれ、陸士54期、4式重爆飛龍、リンガエン湾。」それだけで、写真はない。(森本少尉の写真はある。)この数行の記述は、ただ森本少尉は「陸士47期」であるから、進藤大尉より3期あとということになる。(森本少尉の同期生に、日本名「高木正雄」という、のちに韓国の大統領になる朴正煕がいた。また、てもとにある小学校の同窓会名簿によると、森本少尉は、1936年に私の母校の小学校を卒業しているので、私より9歳年長ということになる。)進藤大尉が搭乗したという「四式重爆飛龍」は、戦争中に三菱が作った爆撃機で、6~8人乗りである。戦争末期に爆撃用の飛行機を特攻のために使ったらしいが、「効果的」だったとはとうてい思えない。

知覧平和記念会館は、単なる「博物館」ではない。そこを訪れる人は、みな黙って展示されているものを見つめている。同時に、そこで展示されている特攻隊員の遺品や写真や手紙などが、見ているひとたちを逆に見つめているように思われた。
(付記。本稿は、2011年1月に刊行された「変革のアソシエ」第5号に掲載された拙稿に加筆・訂正をしたものである。2011年2月10日)

初出:宇波 彰現代哲学研究所http://uicp.blog123.fc2.com/より許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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