太宰治は『弱者の糧』の中で「映画を好む人には、弱虫が多い」と述べている。私は映画が格別好きではないが、嫌いでもない。でも、弱虫である。自慢のできる話ではないが、権力とりっぱに戦ったためしもなく、週に何度も映画館に通うということもしたことがない。弱虫の凡人である。そんな私でも、偶然知った映画が気にかかり、映画館に入ることがある。
片渕須直監督作品「この世界の片隅に」を見ようと思ったきっかけは、偶然見たテレビ番組で、映画制作のために、この監督に質問を受けた一人の男性が語っていた言葉であった。男性の両親は広島市で理髪店を経営していた。彼には兄と姉がいた。昭和20 (1945) 年8月6日、原爆が投下された日、男性は田舎に疎開していた。廃墟になった街で懸命に家族を探したが、家族の遺体は見つからなかった。彼のその理髪店が映画の中にほんの僅かな瞬間だけ映る。片渕は、広島と呉のかつての街並みを当時のままに近い形で再現しようとしたと番組の中で話している。男性の住んでいた理髪店の前で、両親と兄と姉とが歓談している。そのシーンのために、彼は三度映画を見た。この逸話を聞いて、私はヴァルター・ベンヤミンが主張していた過去の救済という問題を思い浮かべた。しかし、本当にこの映画はベンヤミンの主張と関係するものであろうか。その思いが私を映画館に向かわせた。
映画を見る動機を殊更大きく語る必要がないことを私は知っている。「見たかった」と言ってしまえば済むことだからである。だが、映画を見終わった後に残った疑問はそう簡単に解決のつくものではない。問いは新たな問いを生み、答えを求めて広がっていく。その広がり、それが重要な内的対話となっていく。ここで私は、「この世界の片隅に」というアニメ映画を見終わった後に抱いた三つの疑問について語りたいと思う。それは、「過去の出来事を再現することによってもたらされるものとは何か」、「忘れ去られてしまった日々の生活を思い出すことの意味とは何か」、「同時代を生きる者としての歴史的な責任とは何か」という疑問である。
物語の概要
今述べた三つの疑問を考えていく前に、映画の概要と原作について手短に触れておく必要があるだろう。「この世界の片隅に」は、広島で生まれ、呉に嫁いだ当時の女性としてはごく普通の人生を歩んだすずを主人公とした物語である。昭和8 (1933) 年から昭和21 (1946) 年までの時代。昭和6 (1931) 年に起きた満州事変、昭和12 (1937) 年に起きた上海事変、そして、昭和16 (1941) 年に始まった太平洋戦争と続く戦争の時代。そうした時代が物語の中心的舞台となっている。昭和中期の広島と呉の一般家庭の日常生活。絵を描くのが上手いだけでその他に取り柄がなく、ぼーっとしているが明るい性格のすず。平凡だったはずの彼女の生活。そこに戦争が圧し掛かってくる。姪の晴美がアメリカ軍の爆撃機から投下された時限爆弾によって彼女の目の前で爆死し、みんなを何度も何度も喜ばせた絵を描いた自分の右手も失われる。原爆投下によって両親を失い、幼馴染の哲と兄は戦死する。仲良くなったリンも空襲で死に、生き残った妹のすみは原爆症を発症する。それでもすずは夫周作と、嫁ぎ先の北條家の人々と共に新しい時代を生きて行こうとする。
原作は2007年から2009年に『漫画アクション』に連載されたこうの史代の、映画と同じタイトルの漫画である。こうのの描いたものには広島の被爆問題を描いた「夕凪の街」(2003) や「桜の国」(2004) といった作品もあるが、彼女は戦後生まれである。「わたしは広島市に生まれ育ちはしたけれど、被爆者でも被爆二世でもありません」と述べている。その彼女が戦争についての漫画を描くようになったのは、ある編集者の「広島の話を描いてみない?」という言葉がきっかけだった。「この世界の片隅に」は広島とあの戦争の時代について描いた三作目の作品である。
映画を監督した片渕も戦後生まれである。原作者も映画監督も直接の戦争体験はなく、間接的に知った事柄を基にして作品を制作していった。もちろん二人とも当時の資料を大量に集め、太平洋戦争をよく知っている人々に繰り返し、繰り返しインタビューしている。原作者のこうのは当時の服装や料理をつぶさに調査した。監督の片渕は膨大な情報を基にかつてあった広島や呉の街並みを可能な限り忠実に再現することを目指した。
片渕は視覚的な再現を強調しているが、映画は触覚的、臭覚的、味覚的再現はできないが、聴覚的再現は可能である。聴覚レベルでの再現は忠実なものだっただろうか。実際の爆弾の破裂音や、機銃掃射の音を使ったならば、さまざまな問題が生じるだろう。その点で忠実な再現ができないのはやむを得ない。しかし、たとえば終戦を日本国民に知らせた玉音放送の声は、機械のような声と形容された昭和天皇の声ではなかった。さらに過去を再現したとしてもこの映画はアニメ映画であり、実写ではない。絵と実写との違いは大きい。過去を忠実に再現することの難しさ。どこまで忠実に過去を再現することができるのか。いや、それよりも過去を再現することの意味とは何か。この問いは映画を見終えた私が最初に抱いた疑問であった。
過去を再現するとはどのような行為なのか
マルセル・プルーストは、『失われた時を求めて (A la recherche du temps perdu)』の中で、菩提樹茶に浸したプティット・マドレーヌの味から、コンブレーでの幼き日の楽しい日々の記憶が蘇ってくる瞬間を描いた。ロラン・バルトは、『明るい部屋 (La chambre claire)』の中で、亡くなった母の少女時代の写真を見たときの感動と母の思い出について語った。過去を再現し、過去を追体験することへの歓喜がこの二つのテクストの底流に流れている。それゆえ過去を再現することには意味がある。そう語ることも確かに可能ではあるが、それだけでは個人的な想起のみが問題となってしまわないだろうか。
ベンヤミンは歴史というものに対して明るい希望を抱いてはいなかった。われわれが歴史に積極的にアプローチできるのは過去に対してだけであり、つまりはそうであってもよかった過去の可能世界を救い出すことによって歴史を再構築していくことしかわれわれにはできないと考えた。現在を救い出せるのは未来の人間であり、われわれは同時代を手探りで生きていくことしかできない。未来への希望は存在してはいるが、それは歴史への参加ではなく願望にしか過ぎない。過去を決定済みのものとして、それ以外の選択が存在しなかったように語ることを強く拒否したベンヤミン。過去の救済、それこそが現在を生きる人間の務めであると考えたベンヤミン。彼の思想には、楽観主義的な展望はまったく存在していず、われわれが担う歴史的な重い責務の必要性が厳然と語られている。
プルーストやバルトは、目に見える形のテクストを創出することによって、ベンヤミンの考えを実践した。そこには、確かに、過去の救済による歴史的構築という意義が存在している。だが、先ほども述べたように、片渕もこうのも自らの過去ではなく、他者の過去を再現している。他者の過去を再現することの意味は自らの過去を再現することと同じ意味を持ってはいない。私の知らない過去。それを知るためには他者との対話が必要となる。この対話は一般的な意味での対話ではなく、異なるテクストが時間や空間を超えて、テーマやジャンルが同じ方向へと向かうことによって生まれる対話である。それはミハイル・バフチンが強調した対話である。
過去を再現すること、それはモノローグではあり得ない。私と過去の私との、私とかつてそうであった他者との、もはや存在しない他者たちとのさまざまな対話が織りなしていく歴史であり、物語の創出である。時間の中に遺棄され、名前も忘れ去られ、かつてそこに暮らしていた事実がなくなり消滅していった、ある少女、ある少年、ある女性、ある男性、ある老婆、ある老爺。彼らも確かに、あの時、そこで誰かと何かを語り、笑顔を見せ、涙を流し、憤慨し、驚いていた。そこでは多くの声が交差し、響き合っていた。過去は死んではいない。今もどこかに存在している。
忘却の向こう側にあるもの
私には忘れ難い過去の思い出がある。私だけが持ち続けている遠い昔の思い出。でも、その思い出をどのように表現してよいのか判らない。そうした思いを抱いて生きている人々は沢山いる。誰もがプルーストやバルトのように過去の自らの体験を素晴らしいテクストに仕上げられるわけではない。私と私を取り巻いた人々の歴史を抱き続け、あれほど強い記憶であっても次第に薄れていき、時と共に忘却しながら、日々を歩んで行く。他者が私の代わりに描いてくれた私の思い出というものは、私の経験したものそのものではない。私が語り、提示したかつての出来事や風景を、他者が誰もが理解可能な明確な形にし、作り上げた歴史=物語 (histoire) である。そこには共同作業による過去の救済というものがあるのではないだろうか。
イタロ・カルビーノの小説『見えない都市 (Le città invisibili)』の中には、次のような場面が描写されている。未知の都市について語るマルコ・ポーロが、彼の話に耳を傾けるフビライ汗に、「物語を支配するものは声ではございません。耳でございます」(米川良夫訳) と語る場面である。どんなに熱意を込めて、どんなに詳細に昔の記憶が話されても、その話を誰も聞かなかったならば、その記憶は風化し、消え去っていくだけだ。物語が物語として生成するためには、かつてあった街がそこに確かにあった街としてあるためには、あの時生きていたあの人が本当にあの時生きていたことを伝えるためには、語り手の話を聞いてくれる他者が必要なのだ。
すずは戦争の時代に存在した、ごく普通の考えを持ち、ごく普通の日常生活を送った一女性だった。映画はそんな印象を抱かせる。普通に幸福になるはずであった彼女。しかし、先ほども述べたように、晴美も、初恋の人だった哲も、兄も、両親も、リンも戦争のために死んでしまう。妹は原爆症を患い、自らも右手を失い、もう絵を描くことができなくなる。それでもすずは敗戦後の生活を北條家の家族と共にしっかりと生きていく。亡くなった人生がある一方で、これからの人生も存在する。被爆した広島の廃墟で出会った浮浪児の少女。すずと周平は彼女を養女にする。新しい時代を生きていくために。
暗い戦争の時代であってもすずのように普通に懸命に日常を生きる姿は、平和な時代のわれわれの生き方と変わらない。そう結論づけたくなる誘惑に駆られてしまう。しかし、それでは戦争の時代を生きた過去の人々の一面しか見てはいない。確かにこの映画の監督である片渕はあるインタビューの中で、「「この世界の片隅に」という題名なんですよ。で、描けるのは片隅にいる、更にはその片隅にいる小さなところにいるすずさんからの目線だけなんです」と答えている。一つの選択によってしか物語を構築することができないことは事実である。それは批判することができない物語の持つ宿命であるが、そう断定することによって同時代に対する責任という問題がそっくり抜け落ちてしまう恐れもあるのではないだろうか。
同時代に対する責任
昭和20 (1945) 年8月15日、すずたちはラジオの前に座り玉音放送を聞く。そこで流れてきた天皇の声は「物語の概要」のセクションで指摘したように昭和天皇の実際の声ではないが、物語構成上、彼女たちはその声によって終戦を知ることとなる。すずは、「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね。今ここにまだ五人おるのに。まだ左手も両足も残っとるのに」と叫ぶ。外に飛び出し、井戸で怒りに任せてバケツに水を汲むすず。家に戻る道、勝手口の前に蹲りながら、「晴美、晴美」と泣き叫ぶ義理の姉、径子の声が聞こえる。何のために戦ったのか、なぜ右手を失わなければならなかったのか、なぜ娘を奪われなければならなかったのか。それだけではない。なぜ多くのかけがえのない人々が死んでいったのか。二人の怒りや嘆きには、あの日の真実が示されている。
私はこのシーンを見たとき、若松孝二監督の映画「キャタピラー」に描かれていた同じ日に起きたまったく違った光景を思い出した。戦時中、軍神と呼ばれ英雄視された夫、久蔵。だが、実際には四肢も声も失い、芋虫のようになった久蔵。その夫への性的奉仕と、辛い農作業を強いられるシゲ子。軍神の妻と言われても幸福な生活などはない。抑圧され続けたシゲ子は、かつて久蔵が自分にしたような暴力を芋虫になった夫に振るうようになる。そんな日々を終わらせたのは、「戦争が終わった。万歳!」と言って、村中を駆け回る痴人クマの声だった。クマの言葉に合わせて「万歳!」と叫ぶシゲ子。その声を聞いた久蔵は家を這い出て、庭の池の中に芋虫の体を投げ出し、自決する。
8月15日に起きた異なる物語。この二つの物語を比較しなければならない絶対的な理由は存在しない。しかし、同じ日、日本において異なる現実があったであろうことを記憶しておかなければならないと私は強く思うのだ。なぜなら、すずも、北條家の人々も、すずの実家の浦野家の人々も、哲も、リンも、あの時代に生きたすべての日本人が同時代に生きていることの責任を担っていたからだ。水兵だった哲も、ニューギニアで戦死した兄も兵士である以上人を殺しただろう。道に迷ったすずにやさしく語りかけてくれたリンは、貧しさによって遊郭に売られてきた娘である。妹のすみはこれからの一生を原爆症に苦しめられ続けるだろう。すずが生きた時代はそういった多くの負の側面を抱えていた時代でもあった。だからこそ、その時代が終わったことに歓喜した人もいたのだ。それだけではない。そうした時代はその時代を生きた人々が選んだ時代でもあったのだ。
あの戦争を起こしたのは、あの暗い時代を作ったのは、映画の中に使われた声ではなく、機械のような声をした天皇を最高指導者とした日本国民であった。その重い事実は決して消すことができない。すずの怒りの叫びも、径子の嗚咽も、あの日の本当の歴史を伝えようとしている。だが、シゲ子やクマの叫んだ「万歳!」という声も確かにあったのだ。そして芋虫になったシゲ子の夫のように自決した人間もいたのだ。時代を意識しようがしまいが、時代は歴史的な責務を要求し、各人はその務めを各人のやり方で果たさなければならない。しかしそれでも、「この世界の片隅に」という映画の中には、われわれの心を打つ何かが煌めいている。
太宰は『弱者の糧』の中で、「私は、映画を、ばかにしているのかも知れない。芸術だとは思っていない。おしるこだと思っている。けれども人は、芸術よりも、おしるこに感謝したい時がある。そんな時は、ずいぶん多い」とも述べている。この映画にはそんなおしるこのような何かがある。
甘く、とろけるようで、楽しく、わくわくする食べ物は今を生きているわれわれの前には数えきれないほど存在している。アイスクリーム、ケーキ、プリン、シュークリーム、エクレア、マカロン…。リンが言っていたウエハーのついたアイスクリームは大正の味がする。ケーキやプリンは復興期の昭和の、シュークリームやエクレアは高度成長期の昭和の、マカロンは平成の味がする。そして、おしるこ。おしるこは戦争の時代に抱いた希望の味がしないだろうか。みんながすべての現実を受け入れる必要はない。おしることして映画を見て、泣き、笑い、怒り、共感すればいい。「この世界の片隅に」は、そうしたおしるこのようなやさしさに包まれた作品だ。
ただ、この映画のオープニングに流れる曲が、コトリンゴが歌うサトウハチローが作詞し、加藤和彦が作曲した「悲しくてやりきれない」であったことも心の片隅にしまっておきたいと私は思う。
胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに 告げようか
この映画が悲しい映画であったことも忘れないために。
初出:宇波彰現代哲学研究所のサイトから許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0411:170217〕