読者のみなさま、
あっという間に今年もあと10日ほどになりました。
今年は9月のインタヴューで話しましたとおり→ウクライナ危機などで冷戦終結後では最も世界情勢が緊迫しており、世界経済も停滞から後退にさしかかり、第二次世界大戦終結70周年の来年は大きな政治経済危機が避けられないようです。
日本もプチナチス政権である安倍晋三内閣が、抜き打ち的な国会解散による総選挙で延命に成功したかのような政情になっていますが、だからといって厳しい世界情勢から免れることができるわけではありません。総選挙はアベノミクスの矛盾と破綻を隠す手段でしかなかったのです。来年はとりわけ、安倍政権はその国際的常識から極端に乖離している歴史認識を、いよいよ厳しく問われることは間違いありません。
ベルリンから見ても、この歴史認識の乖離がはっきり判ります。それが良くわかる出来事をこのブログでも折に触れて報告していますが、この8月に起こった元日本軍「慰安婦」であった李玉善さんとの面会を拒否した日本大使館の行為もそのひとつの現れです。
これについて、わたしはここの→265回で「 日本国家の戦後の信頼を根底から裏切る、絶対に赦しがたい犯罪的な行為」であると書いています。また「外務省と大使館に対して徹底した筆誅を加える」とも書いています。遅くなりましたが、その第一弾が撫順の奇蹟を受け継ぐ会が発行する『中帰連』に掲載されましたので、以下そのまま転載致します。
先の大戦で過酷体験を生き延びたふたりの女性の記憶の力から、オーストリア政府とドイツ社会は学び、日本政府は学ぶことを拒否しています。これが日本国にとってどれほど世界の信頼を損失するものであるかを、ここでは特に外務省の心ある外交官と職員のみなさんに考えていただきたいものです。しっかりしないと軽蔑されてしまい取り返しのつかない孤立を招きます。
ナチ政権のエピゴーネン(亜流)である安倍内閣の大半の閣僚の古くさい国家主義イデオロギーが世界中からうさん臭いと警戒され、危険視されていることへの自覚が、日本の世論では非常に欠落しています。 いまやネオファシズムが主流になったかのようです。
総選挙の結果を見ても、史上最低の投票率ので、安倍政権は有権者の四分の一にしかならない得票率で衆議院の三分の二の議席を得てしまっています。もはや日本の民主主義は瀕死の状態です。ここまで来れば、歴史認識の格差を超えて、もはや異次元の歴史認識と言えましょう。それが伝わればと願います。
なお、以下の論考は今年の5月に、すでにここで紹介したものの続きとして書いたものですので、まだの方は→248回をまずご覧になってから以下をお読み下さい。
写真はクリックすればパノラマで見ることができます。
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(『中帰連』55号 2014年11月発行掲載分より転載)
ベルリン歳時記39 梶村太一郎
過酷体験者の記憶の力から学ぶ・続き
前回は「過酷体験者の記憶の力から学ぶ」として、ナチスの三つの強制収容所を生き延びたオーストリアのロマ民族の女性による人道犯罪の体験証言についても述べた。これを書いたのは本年の三月のこと。ところが、その後七月になってこの→チャイヤ・シュトイカーさんと思わぬかたちで「再会」することになったので、今回は続きとしてこの報告から始めよう。
チャイヤさんとの「再会」
わたしが彼女の日本訪問に付き添ったのは、ちょうど二五年前のベルリンの壁が崩壊した直後のことであり、その後は急変する世界情勢の中心のベルリンからは、彼女に関心を払う余裕もなく、一度だけ著作の朗読会にウイーンからベルリンを訪ねたチャイヤさんと会って挨拶を交わしたことがあるだけであった。したがって前回の報告は古い記憶の引き出しのなかからのささやかな記録である。ところが、この回顧に応えるかのごとく昨年一月に亡くなったチャイヤさんが、今度は何と、亡くなった家族とともに突然現れ驚かされることになった。それは以下のようなことだ。
七月のある日、「チャイヤさんの絵の展覧会をやっている」との情報があり、調べてみると確かにそうである。しかもベルリンの二カ所で同時に開催されている。
さっそく次の日曜日にそのひとつを尋ねてみた。会場は西ベルリンの大きな庭のある瀟洒なビラの明るい二階の二部屋。アクリルの鮮やかな色彩の絵画が多く展示されている。とはいえ展覧会のタイトルは「死ですらアウシュヴィッツに恐れを抱く」というチャイヤさんの言葉である。ここでは子供時代の美しい自然の中でのロマ民族の生活の光景もあれば、強制収容所の情景も多くある。彼女が日本訪問を契機に絵を描き始め、それが過酷体験克服の自己療法であることは推定していたが、やはりどの作品からも子供時代の残酷な体験を表現することの重さが伝わってくるものであった。これだけの作品が一度に展示されるのは初めてのようだ。
部屋の真ん中に据えられたモニターでは、カリン・ベルガーさん(後述)が制作したチャイヤさんの生活と証言を記録したふたつのドキュメント映画がビデオで見られる。この日はじっくりと絵画を鑑賞した。オリジナルをまとめて見る機会は二度とないからである。
帰りがけに受付に立派な→カタログがあるのを見つけて購入。ついでにゲストブックに「シュトイカー夫人との日本訪問の多くの想い出が甦りました。企画に感謝する」旨を記した。そこで庭のカフェーで一休みして、さて帰宅しようと敷地をでたところ、追いかけてきた年配の女性に話しかけられた。「チャイヤさんをご存知なのはあなたですか」「そうです随分前に一〇日ほど一緒に日本を訪問しました」「この展覧会を企画実行したのはわたしの友人たちです。彼らはあなたの話しを聴きたがるでしょうから、連絡先を教えてほしい」とのことなので、電話番号を伝えておいた。
さっそく翌日には展覧会企画者のひとりマチアス・ライヘルトさんから電話があり、彼が訪ねて来たのは数日後のことである。展覧会開催にいたる背景を聴いたところ、この経験豊富な企画者たちは、ベルリンに二〇一二年末に完成した→シンチ・ロマ追悼記念碑の建設運動に長年参加していた(注1)。その過程でチャイヤさんのことを知り、彼女をウイーンに尋ねたのが始まりであるという。また彼女の絵画作品が質量ともに膨大なものであることも確認し、展覧会と本格的なカタログ出版の企画を立てたとのことである。ところが準備中に彼女が脳溢血で倒れてしまい、展覧会は残念なことに生存中に実現できなかった。またそのため作品の分類にも困難を極めた。それに日本訪問が絵を描くきっかけになったとことは、本人も述べているのだが、その背景への証言も聴くことはできなかった。これはこれからの研究のテーマのひとつとして残されている。「そこでベルリンにあなたが出現したことに関係者のみんなが驚いている」とのことだ。
というわけで、前回に書いたようなチャイヤさんとの日本訪問の体験を話し、当時の写真をデジタル保存のため提供し、また日本訪問時の記録を日本側関係者に依頼して集めることを約束したのである。また一九八〇年半ばにチャイヤさんに体験を書くように進め、ふたつの体験記を編集し、ふたつの記録映画を制作したカリン・ベルガーさん(ウイーン大学講師・映像作家)が、近くベルリンの展覧会にやってくるとのことで是非会ってほしいとの申し出もあった。
そこで、七月末のある日、もうひとつの展覧会へでかけてベルガーさんたちと知り合ったのである。こちらには、チャイヤさんの表現では「暗い絵」が、彼女の伝記の年代順に分類展示されており、三つの強制収容所もアウシュヴィッツ、ラーベンスブリュック、ベルゲンベルゼンの順に展示されている(タイトルの写真1)。広い会場に全部で数百点の膨大な数の展示である。
この日はこの夏最高に暑く、入り口に掲げられた経歴を書いたチャイヤさんの写真にベルガーさんが「今日は暑いわね」と扇子で風を贈る情景があった(写真2)。
カリン・ベルガーさんの努力
この日、ベルガーさんにチャイヤさんの体験記の成立の背景をゆっくり聞くことができた。それによると、彼女は一九八〇年代の半ばごろ、オーストリアにおけるナチスへの女性抵抗運動を調べる過程でチャイヤさんと出会った。非常に慎重に時間をかけて信頼を得て、体験を記録として書くことを勧めたのだが、ことは簡単ではなかった。
まずは断片的に書き下ろされて手渡された手書き原稿が解読できないのであった。チャイヤさんは文盲ではないが、小学校にもほとんど通えていない。正書法など知らず、強いウイーン訛りがそのまま綴られているのであった。「これには困ってしまい頭を抱えました。しかしあるとき、声に出して読んでみると意味がつかめることに気づきました」とのことだ。不思議なことのようだが、わたしにはよく理解できた。二〇年前に、オランダ人女性の強制売春事件軍事裁判のオランダ語史料を入手した際に、オランダ語を知らないのに無謀にも解読を試みたことがあるからだ。例えば、vrouwという単語が多くある。見ただけではさっぱりわからないが、声に出すとドイツ語のFrau(女性)とそっくりであることに気づく。語源が同じ言葉は、綴りが異なっても発音が近いものであることを、このようにして体験した。ベルガーさんは、声に出しながら解読した原稿を清書して、それをチャイヤさんに返し、相互確認を何度も繰り返しながら、ふたつの体験記を出版している。チャイヤさんのホロコーストの生存者として社会的認知は、これらの著作によるものだ。日本への招待もこれによる。
その後、彼女はシュトイカー一族に関する公文書を捜す努力を始めたのだが、これも困難を極めた。アメリカのホロコーストに関する文書を捜し、手がかりを得て一九九七年になってベルリンの連邦公文書館に、ナチスの「人種衛生・民族生物学研究所」の文書が保管されていることを突き止め、膨大な史料を検索している。このナチスドイツの公式な研究機関は、その人種主義イデオロギーの正当性を遺伝優生学で立証するため、彼らから見れば「劣等民族」の遺伝的特性を掌握しようと、特に支配下のシンチ・ロマ民族を徹底的に身体検査し、詳しく記録している。ベルガーさんはこの膨大な記録の中から、ついに一九四〇年九月のシュトイカー一家の記録を探し出したのである。
展覧会で発売されたカタログには、一家の顔写真のカルテが掲載されている(写真4)。そこには当時六歳のチャイヤさんをはじめ、祖母、両親と兄弟姉妹全員の鮮明な写真が見られる。これについて、ベルガーさんは「チャイヤはこれらの写真に、特にアウシュヴィッツ・ビルケナウでチフスで亡くなった弟オッシィの写真に震撼した。そこで彼女は、家族のお祝いの時に、私たちが回しているカメラの前で、彼女の子供たちに写真を見せた。写真は帰郷した家族のように扱われた」とカタログでの解説に記している。
前回、岡山の庭先で柿をもぐチャイヤさんの姿を見て「それ以来、アウシュヴィッツで亡くなった見知らぬロマの男の子、オッスィはわたしの心の中でも忘れられない存在となったのである」と書いたわたしも、あどけない五歳足らずのオッスィの姿、また地獄の中で子どもたちの大半の命を守ったお母さんの利発でしっかりした姿を見て、深く感動したことは言うまでもない。展覧会の作品とともにチャイヤさんが、家族とともにベルリンを訪ねてくれたような気持ちになったのである。
彼女は日本での旅で、八〇年代の半ばに戦後初めてアウシュヴィッツを訪ねたときにはビルケナウで「オッスィがウサギの姿でわたしに会いにきた」と嬉しそうにわたしに話したものだ。そんな彼女は、この写真を見て「オッスィが生きて帰ってきた」と感じたに違いない。記憶の力には、しばし途方もない現実性があるものだ。
またベルガーさんは、上記のように、映像作家としての彼女の作品「チャイヤ・シュトイカー」(一九九九年)で写真に出会うチャイヤさんと家族の様子を記録している。それはまさに「永遠に失われた家族の突然の帰郷」の場面である。子供たちにとっても見知らぬ家族が、ひとりひとりの記憶のなかで姿を得て、生き始めた瞬間の貴重な記録なのである。
ベルガーさんの話しを聴きながら、「ナチスも貴重な記録を遺したものだ」と思い、一次資料のもつ力を改めて認識した。おそらくはこの史料はチャイヤさんの記憶の力をさらに強め、彼女をして作品の制作に拍車をかけたと思われる。彼女はそれからも次々と作品を描いている。
そんな彼女がベルガーさんを突然自宅に呼んだのは二〇〇五年のことだという。訪ねてみるとアトリエで絵の具をこねているチャイヤさんが、これまで決して詳しくは話さなかった、ベルゲンベルゼンでの最悪の体験を話し始めたのである。「私はあわてて小さなビデオカメラで記録を取ろうとしたのですが、話しの内容に震えてカメラがぶれないことに必死でした」という。「次の日から専門のカメラマンに来て撮影してもらいましたが、涙を押さえるのに必死でした。完成してからも当分はこの作品を観ることはできませんでした」という。
このドキュメント作品は→「床下の若緑の草」と題されている。人肉食で内蔵が空の死体の様子から始まり、ベルゲンベルゼンのバラックの床は古く朽ちており釘だらけで、とてもその上には、かりに毛布ひとつがあっても眠られなかった。そこで昼間は、子供たちは屋外の死体の山の間で休むことを覚えた。慣れると死者が怖いものではなくなり、死体と遊んでお母さんを驚かした。死体をついばむカラスも親しいものになった(絵にもカラスがしばしば登場する)。ある春先に、バラックの床板のはがれた隙間から、床下一面に芽生えた若草を見つけ、お母さんに告げると「素晴らしい発見だ、食べてごらん」というので、「口にするとその甘いこと」、また「針葉樹の樹脂は蜂蜜の味だった」などと、カメラに向かって手ぶり豊かに語るチャイヤさん。このような記憶を彼女は作品に描きつつ、同時に語るのである。この五二分の映画は、かつてランズマンが歴史的長編大作「ショアー」において試みた過酷体験者のインタビューよりも、証言者の自発性において優れている作品であるとわたしは思う。
ここまで来るのに、チャイヤさんとベルガーさんは二〇年の歳月を費やしている。過酷体験の記憶の重さをひとつずつおろしながら。このようにしてナチス強制収容所として最悪の地獄のひとつであったベルゲンベルゼンは、六〇年を経て、最も優れた証言記録を得ることになった。ベルガーさんが写真のチャイヤさんに「ご苦労さま」と風を贈る情景は、ふたりの女性の友情の姿である。
李玉善さんの日本語
さてこの展覧会とベルガーさんとの出会いから、二週間にもならない内に、もう一人の歴史の過酷体験者と出会うことになった。元日本軍「従軍慰安婦」の李玉善(イ・オクソン)さんが、八月一四日に行われる恒例の「日本軍『慰安婦』メモリアルデー」の証言活動にベルリンを訪れたのである。ここでもわたしは貴重な体験を得たのだが、この訪問の終わりに、わたしをして激怒させる、まったく苦い体験をすることになった。
彼女のベルリン訪問で行われた三つの証言集会、それに関するドイツと中国での報道に関してはブログで六回にわたって多くの写真とともに詳しく報告したのでそれを参照していただきたい(注2)。すでに七月末にアメリカ政府の高官と面談した彼女は、八七歳の高齢で車椅子で移動しながら、連日証言活動を続けたのである。
チャイヤさんがアウシュヴィッツに収容されたとき左腕に刺青されたZ6379の囚人番号を、証言集会でも決して隠さなかったように、李さんも中国東北部の慰安所で日本兵によって斬りつけられた右腕と右足指の刀傷を示しながら証言をした。これらは、肉体に烙印され、彼女らを苦め続ける過酷体験の決して消えない証であるからだ。証言集会の度に、靴下を脱いで足指を示す李さんを、長旅に付き添ってきたナヌムの家の事務局長の金貞淑(キム・ジュンソク)さんが手助けをするのだが、この時には控えめな若い彼女の目にはいつも涙が見られた。李さんの苦しみをもっとも良く知る若い世代のひとりなのだ。
李さんも貧困のため、日本支配下の皇民化教育が行われていた国民学校にすら通えず、幼い時から働かねばならなかった。それが今でも悔しいという。幼少時はチャイヤさんよりも遥かに厳しい環境で過ごしているし、チャイヤさんはドイツ語ができたので強制収容所では有利であった。李さんは慰安所では、できない日本語を暴力で強要され覚えたという。支配者の言語を身につけることは生存の大きな要件のひとつであるのだ。
日本の敗戦後、日本軍に放置されて中国の朝鮮人自治区で生き延びた彼女は、夫の死後ようやく韓国に帰りナヌムの家での生活を始めるのだが、なんとそこで彼女は「日本の国語の教科書で字を勉強しました」とわたしに日本語で話した。「日本人に私の話をしたいからです」という。かつて学校に通えなかった悔しさ、慰安所で強要され、すっかり忘れていた日本語、それらを彼女は高齢になって取り戻そうとしている。何と意志の強い人物であるのか。そして日本人向けの証言集会では「どのような謝罪を望みますか」との問いに答えて「お金など要りません、天皇に謝ってほしい」と喝破したのである。
十月二九日、国賓として天皇を訪問したオランダのアレクサンダー国王は→宮中晩餐会の挨拶で次のように述べている。
「私たちは第二次大戦中におけるオランダ市民と兵士の体験を忘れようとは思いませんし、忘れることもできません。この数年間に負わされた傷の痛みは、多くの人々の人生に暗い影を投げ続けています。犠牲者への悲しみは今日も続いているのです。拘禁と強制労働と陵辱の記憶が多くの人々の人生にいくつもの傷跡を残しているのです。」
(ブログ版の付記:英語で話されたこの挨拶はオランダ王室のホームページで読めます。引用部分の原文は以下の通りです:
英文:
So we will not forget – cannot forget – the experiences of Dutch civilians and soldiers in the Second World War. The wounds inflicted in those years continue to overshadow many people’s lives. Grief for the victims endures to this day. Memories of imprisonment, forced labour and humiliation have left scars on the lives of many.
Zo vergeten wij ook niet – zo kúnnen wij niet vergeten – de ervaringen van onze burgers en militairen in de Tweede Wereldoorlog. De wonden die in die jaren zijn geslagen, blijven het leven van velen beheersen. Het verdriet om de slachtoffers blijft schrijnen. De herinneringen aan gevangenschap, dwangarbeid en vernedering tekenen het leven van velen tot op deze dag.)
これは天皇も決して逃れられない、中国、韓国・朝鮮、そしてアジアの被害諸国の声でもある。李さんの体験も「拘禁と強制労働と陵辱」そのものであった。
面会を拒否した日本大使館
さて、ベルリン滞在の最終日に、李さんは日本大使館で大使との面会を要望した。ところが大使館は、面会を拒否したのである。昨年の夏には大使館で参事官がドイツ人と日本人代表に面会して実に丁寧に話しを聴き、日本政府への要望書も受け取っているにもかかわらずである(注2)。
拒否の理由は以下のとおりであった。「大使館には韓国語の通訳がいないので、英語かドイツ語の通訳をつけてほしい」とのことなどで、英独韓国語に堪能な日本人写真家ジャーナリストの矢嶋宰さんが通訳をすると申し入れたところ、「矢嶋氏は韓国側の人物であるので、はたして李さんの韓国語を正式に通訳しているかどうか確認できないので受け入れられない」と拒否。そこで李さんは日本語でも話せることを伝えると「彼女が日本語で意志を十分表現できるとは到底思えない」と拒否したのである。要するに外務省は元「慰安婦」を公館に入れることを世界中どこでも拒否するようである。通訳云々は言い逃れである。河野談話で認めているはずの被害者に対する日本政府の偽らぬ本音がここに露骨に現れている。あからさまな国家犯罪の被害者への恥ずべき差別である。
そこで急遽、日独韓の支援者たちによる大使館前で抗議集会が行われた。そこで昨年は大使館で参事官に面会したドイツエキュメニカル東アジアミッションの代表アルブルシャフト牧師も、今年は怒りの演説をすることになったのである(写真5)。大使館の門前で閉め出された李玉善さんの姿は、実は日本政府の「慰安婦」問題に対するジレンマの姿でもある(写真6)。この一枚の写真は、日本国家の歴史認識がいかに薄っぺらな冷酷なものであり、国際社会での日本への信頼を根底から損なっているかを語っている。人道への裏切り行為の証拠の光景である。
チャイヤさんは、晩年には学校教育での証言活動などでウイーン功労賞を授与され、連邦首相の晩餐会にも招待されている。彼女の葬儀にオーストリアのクラウディア・シュミート文化大臣は弔辞で「チャイヤ・シュトイカーは、人々の平和な共生は常なる対話と歴史への知識によってのみ到達できることを確信していた」と述べている。
この確信は日本人との対話を望む李玉善さんのそれでもある。大使館での面会を拒否された彼女は「来年も来ます」との断固たる決意を述べてベルリンを去った。来年こそは日本大使は彼女との面会と対話を実現し、晩餐にも招待してほしいものである。それこそが国際社会で日本国家の名誉と品格を高める外交なのである。
ただその実現には、歴史認識の厳しさにうとい安倍内閣の退陣が不可欠だ。この政権の崩壊も近いと思われる。
(注1)この記念碑については筆者ブログ「明日うらしま」の第150回/2013年2月24日を参照。また前回の歳時記は、同第248回・2014年5月8日に転載あり。
(注2)「明日うらしま」第261から266回・2014年8月9日から9月1日。また昨年のメモリアルデーの報告は、同第177と178回・2013年8月16日と21日を参照。
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ブログ版への追加情報
チャイヤ・シュトイカー広場が命名
以上を転載する作業をしていて、チャイヤさんに関する新たな情報を知りました。
今年の9月10日にオーストリア公共テレビ放送ORFが、ウイーンに→「チャイヤ・シュトイカー広場」が出来ると報道しています。 報道によれば、信仰深いチャイヤさんが長く住み、普段よく通っていた→ローマカトリックの教会前広場が12日にはそこで命名記念式が行われると予告しているのです。グーグル地図にはまだその名は載っていませんが、場所は:
→1070 Wien, Lerchenfelder Straße 111,vor der Altlerchenfelder Kirche です。
その→命名式の様子の動画がありました。ウイーンでも通りや広場の命名は区議会で決定するようです。この日、若い区長さんが挨拶し、チャイヤさんの息子さんと区長の手によって広場の銘板の序幕が行われてから、教会の神父さんが「お祓い」をして祝福し、多勢の市民たちも集まっている様子が見えます。
チャイヤさんはウイーン市の名誉市民の墓地に埋葬されていることは承知していましたが、こんどはウイーンの地名として彼女の名前が残ることになったことを嬉しく思います。
ついでですが、もうひとつチャイヤさんがまだお元気なころの→珍しい日常のビデオも見つけましたのでこれも、素顔の彼女の姿をよく現しているのでご覧ください。
ご機嫌の良い時のチャイヤさんは晩年までチャーミングな女性であり続けている様子を巧くとらえている貴重なものです。
説明によると、これは2009年1月に彼女の自宅で撮影されたもので、彼女がなんと小麦粉をこねて「遊び」で作った彼女の家族の人形と戦前と戦後のロマの馬車を見せてている情景です。「これがお母さん、これがお父さん、これが戦前の馬車、これが戦後のもの・・・」といった具合です。
このように歴史の過酷体験者の証言から学んでいる社会、その証言者を門前払いする日本国。両者がいまや異次元の社会になってしまっていることを理解していただきたいものです。
もうひとつ追加します。
チャイヤさんの証言などの動画は多くあるようですが、2011年に息子さんが作成した→「白黒の絵」と題するビデオがあります。これは上記の「暗い絵」を背景に、チャイヤさんが「悲しみの歌」をロマネス(ロマ語)で唱っているものです。
彼女の多彩な才能、喜びも悲しみも謳い挙げながら生き延びたこの女性の一端が偲ばれます。まさにロマ民族の素晴らしさが表現されています。
初出:梶村太一郎さんの「明日うらしま」2014.12.20より許可を得て転載
http://tkajimura.blogspot.jp/2014/12/blog-post_20.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5084:141224〕