一 はじめに
日本思想史の研究者として知られる子安宣邦が、『現代思想』誌上で国家神道論の連載を始めたのは、二〇〇三年七月号であった。この連載は翌二〇〇四年四月まで続き、その後、『国家と祭祀――国家神道の現在』(青土社、二〇〇四年)として単行本化された。その「批判」の対象とされた近代神道研究者からは「誹謗中傷に近い」[1]とも評されたその筆致と内容は、それらの人々に少なからぬ衝撃を与え、反発や批判を呼ぶことともなった。この本に端を発する子安の議論への批判については現在、すでに一通り出揃った感があり、今やアップトゥデートなテーマではなくなりつつあると言ってもよいだろう。
筆者はしかし、その議論の成り行きに若干の不満を持っている。この本で子安が提起しようとした問題の広がりが、その反論・批判において正当に受け止められているように見えないからである。本論文は、そのような問題意識を出発点に据え、「国家」や「国民国家」といったタームを手がかりとして、「国家神道」をめぐる議論に若干の新たな認識視座を導入しようという試みである。
二 子安宣邦の議論の大構成
もともと本居宣長・荻生徂徠など近世日本の思想史研究を専門としていた子安が、近現代の日本へと研究対象を移して刊行した最初の著作は、『近代知のアルケオロジー――国家と戦争と知識人』(岩波書店、一九九六年)であった。そして、その後も従来の専門分野である近世日本思想史の著作を精力的に出し続ける中で、上記『近代知のアルケオロジー』が増補・改題され、『日本近代思想批判――一国知批判』(岩波現代文庫、二〇〇三年)として刊行された。子安の国家神道論の連載が開始されたのはまさに、この岩波現代文庫版が刊行されようという時期である。したがって、連載開始当時の子安の念頭にあったのは、『日本近代思想批判』において増補された文章に見られる次のような問題意識であったと考えられる。
いま維新をふりかえることが意味あるとすれば、日本の明治維新が生み出し、維新が実現していった国家とはいかなるものであったのか、またあるべき維新の語りが作り出す対抗的国家像とはいかなるものであったのかを検証することにあるべきだろう。明治維新に続く二〇世紀とはまさしく国家の時代であったのだから。[2]
『現代思想』誌上における国家神道論の連載が終了した後も子安は、アソシエ21学術思想講座「日本ナショナリズムの解読」や『現代思想』誌上における新たな連載「〈近代の超克〉論――昭和イデオロギー批判」などを通じて近現代日本に関する議論を進めた。前者は『日本ナショナリズムの解読』(白澤社、二〇〇七年)、後者は『「近代の超克」とは何か』(青土社、二〇〇八年)にまとめられている。それぞれにおいて子安が述べている問題意識についても、ここで一瞥しておこう。
私の「日本ナショナリズムの解読」という作業とは、ここに記してきたような国家と戦争の二〇世紀における帝国日本を導き、支え、造り上げてきた言説を徹底して批判的に読み解こうとするものです。これは私における歴史認識の作業です。歴史認識とは、過去の持続として私たちの将来をあらしめないために欠かせない認識作業です。(傍点原文[傍点はアンダーラインで表示。以下同様―編集部])[3]
だが対米英戦の開戦が「近代の超克」の一語に座談会の主題を決めさせたとき、「近代」は日本の自分たちの外に、克服されねばならぬものとして見られることになった。「近代」とは、いま敵対する米英など既存世界秩序の支配的構成国の「近代」である。そうはいっても明治維新以来七〇余年の日本近代化の過程は、その「近代」の懸命な受容と領有の過程ではなかったのか。「近代」とは、すでに己れ自身ではないのか。とすれば克服されねばならないのは、自分でもあることにならないのか。日本で「近代の超克」を語ることは、したがって反語的たらざるをえないのだ。すなわち己れの装う仮面の「近代」を暴くような反語的な言語をもってせざるをえないのである。[4]
ここに見られる国家・戦争・近代といったキーワードは、上述の『日本近代思想批判』における問題意識と明らかな連続を見せている。そしてそれは同時に、『国家と祭祀』における次のような記述とも密接不離の関係にあると言えよう。
私の問題関心は、この近代国家の祭祀性という普遍的な問題を前提としてもちながら、日本が近代国家としてその宗教性・祭祀性をどのように成立させたかにある。国家神道とはこの私の問題関心にしたがって構成される概念である。日本の近代国家としての祭祀性・宗教性の問題を、私は国家神道の問題として考えようとするのである。[5]
近代国家にある種の宗教性を見る、といった議論はさほど珍しいものではない。その点を踏まえた上で、これまで見てきた記述を振り返れば、『国家と祭祀』において子安が取り組もうとしている〈問題〉とは次のようなものになるだろう。すなわち、「『近代国家』としての『帝国日本』とは何であったのか」という大テーマの下におけるサブテーマのひとつとして選択された「近代国家の祭祀性・宗教性」であり、その事例としての「国家神道」である。先に「近代国家」への関心があって、その延長上に「国家神道」が取り上げられるのであって、その逆ではないことを、ここではまず確認しておこう。
そこで新たな問題として浮上してくるのは、子安の問題関心を展開していくにあたって、「国家神道」はそれにふさわしいテーマだったのか、という点である。以下、この点について論じていきたい。
三 「国家神道」論の現地点(一)――島薗進の問いをめぐって
「国家神道と近代日本の宗教構造」(『宗教研究』三二九号、二〇〇一年)以来、「狭義の国家神道」概念に対置されるべき概念としての「広義の国家神道」論を唱え、精力的に議論を重ねている島薗進は二〇〇六年、『明治聖徳記念学会紀要』復刊第四三号に「神道と国家神道・試論――成立への問いと歴史的展望」を発表した。その論文において島薗は、「国家神道とは何かという問題を解きほぐすには、そもそも神道とは何かという問いに目を向けなければならない」という認識を示した上で、次のような見解を示す。
「神道とは何か」という問いに対する答が異なれば、「国家神道とは何か」という問いに対する答も異なるものになる可能性が高い。さまざまな要素を含んだ神道全体の中で、国家神道はその一部をなし、神道の歴史の中に国家神道はその位置をもつ。神道史と国家神道史の双方が見渡せるようになることが、国家神道概念の鍛え直しの鍵となろう。[6]
より具体的には、「神道はいつ頃成立し、どのような変化を経て近代に至ったのか。近代以前の神道から近代の神道へと何がどう変容したのか。近代の神道は神道史全体の流れの中でどのように成立してきたのか。近代神道にあたるものの前身はどのようなものだったのか。近代以前に国家神道にあたるものはなかったのだろうか。また、近代国家神道は近代の神道の中でどのような位置を占めるのか」[7]といった諸々の問題に対する理解の深まりこそが、島薗が言うところの「国家神道概念の鍛え直しの鍵」である。
こうした問題に対する理解が深まれば、確かに国家神道の概念をめぐる問いに答えやすくはなるかも知れない。けれどもこれはそう簡単なことではない。以下は、上記に引用した諸々の問いのすぐ後に続く島薗の記述である。
ところが、この「神道とは何か」という問いがたいへん答えにくい。人によって答が多様であり、その違いをどう理解するかについての議論もあまりなされていない。神道というものがそもそも輪郭の不鮮明なものであり、この語を用いる側の考え方によって何を指すのか意味内容が変わってしまう。だが、それにしても学問的討議が進んでいない。混迷が深く議論が進んでいない大きな理由の一つは、従来の学問的理解において近代制度史上の神道概念や国家神道概念が色濃く影を落とし、思考を止めてしまっていることである。[8]
先に列挙した問題を指摘しただけでは問題の解決にはならず、現状を打破することにもつながらない。その点を充分に踏まえた上で、たいへん答えにくいそうした問題に敢えて具体的な答えを与える―それは、島薗がこの論文で目指したことに他ならない――ことによってはじめて、国家神道をめぐる従来的な学問的討議の停滞や思考停止が乗り越えられる、とされるのである。それはまた、従来の議論が暗黙の前提としてきた西洋近代的な「宗教」概念そのものへの問い直しへとつながってもいる。
島薗のこのような議論の展開は、「神道学・歴史学の両方の系統の研究者が近代の『神道』を論じるとき、皇室神道・朝廷祭祀をほとんど取り上げることなく、神社神道の宗教制度問題を論じることを国家神道理解の主要課題としてきた」[9]ことに対して批判的な立場からなされるものであり、比較し概念批判しつつ「神道とは何か」を問うことをせず、近代宗教制度上の概念に安易に依拠してきたことが「国家神道とは何か」がわかりにくくなっている大きな理由の一つである、と論じられることになる。
ここから島薗は、近代という枠を超えて「神道とは何か」を問う方策を選択し、「そもそも神道とはいつ頃、成立したのか」という問題に分け入っていく。そこではまず、中国の影響を受けつつ日本独自の神聖国家理念を確立しようとする過程で要請された「古代国家神道ともよぶべき神祇祭祀体系(国家神道の古代的原型)」と、顕密体制の中世における仏教的神聖国家理念を経て、近世において天皇を機軸とした神道的神聖国家理念の再構築を目指す動きとが指摘される。次いで、民間の神祇信仰における神仏習合体制からの自立傾向が指摘される。そしてこれらが「近代国家神道の形成」における前史と位置づけられるのである。
こうした島薗の議論の落としどころは、最終的には次の文章に集約されることとなる。
東アジアの近世は仏教的超越性にかわって世俗的組織を聖化する新たな超越性のシステムが発展するが、日本おいて(ママ)それは国家祭祀体系と民衆の神仏習合的信仰世界の両面から進行することになる。[10]
さて、こうした島薗の考察自体の当否を論じることは差し当たり重要ではない。ここでは次に、その島薗の議論に応答した新田均の論評について見ていくことにしたい。
島薗の上記論文に対し、新田は「島薗進『神道と国家神道・試論――成立への問いと歴史的展望』を読む」(『皇學館論叢』第四〇巻第三号、二〇〇七年)と題した論評を発表している。そこで島薗の議論について論評を加えた新田は、最終的に次のような見解を提示する。
七世紀末に「神道」から「国家神道」への転換を見るのではなく、「前神道」から「神道」への転換を見るとすれば、そして、そこに近代神道の原型を見出そうとするのであれば、島薗氏の見解は、「広義の国家神道」の使用ではなくして、むしろ、それを放棄して……いわば「広義の神道」概念の使用を提唱した羽賀祥二氏の見解に近づかざるをえないのではあるまいか。[11]
島薗と新田との文章をやり取りとして読んだとき、読み手はそこにある種の〈ちぐはぐさ〉を感じずにはおれない。「国家神道とは何か」を問うために取り組まれたはずの「神道とは何か」という問いから、何故に「国家神道」という概念そのものの放棄という帰結が導かれてしまったのだろうか。
新田の論評の核心は、次の点にある。
この論文の核心である〝「神道」の成立時期についての諸学説を検討して、広義の国家神道概念の有効性を証明する〟という部分については、その意図に反して、むしろ論理的矛盾を露呈してしまっているのではないか、と思えた。[12]
すなわち、島薗によれば「国家や政治についての観念そのものが『神道』の重要な構成要素だ」ということになるが、「神道」の中にはすでに〈国家的なもの〉が不可欠な要素として含まれているとするならば、「国家」という修飾語を「神道」に改めて外付けすべきではない。とすれば、「国家神道」という用語そのものが、適切さを欠くことになるわけである。この点が「論理的矛盾」の露呈ではないかとして、新田は上に見たような見解を述べるのである。
ここに「露呈」している問題点を別の観点から言い換えれば、次のようになろう。すなわち、七世紀末に成立したとされる神道のシステムが、堅固な「国家祭祀」のシステムの整備をもって成立したとし、これを近代の「国家神道」の原型たる「古代国家神道」とみなすことによって、島薗は「国家神道」を近代の枠から解放することには成功したかも知れない。だがその反面、「国家や政治についての観念そのもの」を「神道」の重要な構成要素とみなすことによって、今度は「国家神道とは何か」という問いと「神道とは何か」という問いとの間の区別が不分明になってしまったのである。新田の指摘は、この点を衝くものであった[13]。
では、改めて問うことにしよう。このような問題点は、何故に生まれたのであろうか。
「国家神道とは何か」を問う前に、「神道とは何か」が問われる必要があると島薗は述べる。しかし、問われるべきなのはそれだけであろうか。
「国家神道」と「神道」とが別の概念であるとすれば、その区別の鍵は「国家」であろう。「国家とは何か」。「国家神道」を問うのであれば、「神道とは何か」という問いと併せて、この問いも問われなければならないのではないか。
四 「国家とは何か」という問い
「国家とは何か」という問いは、「神道とは何か」という問いと同様に、たいへん答えにくいものである。しかし、仮にも「国家神道」を考えようとするのであれば、それは避けることのできない問いであると筆者は考える。
この問いに対しては、おそらく多様な答えが用意されることになるが、一般的に言って、そうした答えは少なくとも以下の諸点に対する応答を含むものでなければならないだろう。
第一に、暴力の問題である。周知のとおりマックス=ウェーバーは、「近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めたすべての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目してはじめて可能となる」[14]とした上で、次のように国家を定義している。
国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である(傍点原文)[15]
このウェーバーの定義を足がかりにして国家についての概念的考察を行なった萱野稔人は、「国家を思考することは、暴力が組織化され、集団的に行使されるメカニズムを考察することにほかならない」(傍点原文)[16]と述べた上で、国家と暴力とをめぐる考察に次のような論点を設定する。
近代における国家とは、暴力が集団的にもちいられるひとつの歴史的な形態である。それは、たとえ暴力の独占を実効的に要求するという点で特殊だとしても、やはり暴力を手段としてもちいる政治団体のひとつとして、暴力をめぐるエコノミーの歴史的な変遷過程の中に位置している。したがってそこで問われるべきは、どのように暴力は集団的に組織化され行使されるのか、そしてその形態は歴史を通じてどのように変化してきたのか、ということになるのである。[17]
第二に、主権の問題である。「国家が主権を持つ」という点は、近代国家をそれ以前の国家と分かつ重要な特徴である。この「主権」とはどのような概念であり、どのような歴史的変遷を経て成立したのか。近代における主権国家は、自らの上位に超越的審級が存在することを否定し、地域的限定性と世俗化とを特徴として、自らを法秩序の超越的審級として位置づける。このような国家こそ、トマス=ホッブズが「リヴァイアサン」と名づけた当のものであった[18]。こうした主権と国家とはいかなる関係にあるのか。これもまた、近代において国家を考察する上で欠かすことのできない論点である。
第三に、国民(nation)の問題である。近代における国民と国家との関係については、アーネスト=ゲルナーのナショナリズムに関する有名な定義が参考になる。すなわち、「政治的な単位と国民的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である」[19]という定義である。近代国家が国民国家であるとは、政治的単位たる国家と、国民という単位とが一致すべきであり、また現にそうであると主張することに他ならない。この「国民と国家の一致」こそが、近代国家をそれ以前の国家から分かつ基本的な特徴とされる。実際、多くの近代国家は「国民とは何か」をめぐって、あるいは「国民の創出」をめぐって、試行錯誤を経験することになった。近代日本もまたその例外ではない。
この「国民」の問題が微妙であるのは、近代の国民国家においては国民と国家とが一致するものとみなされていながら、しかしやはり両者は別物である、ということがしばしば見過ごされがちな点にある。ナショナリズムとは、国民を単位として集団的アイデンティティを構成しようとする運動であり、政治的原理であるのに対し、国民国家とは、さまざまな形態があり得る中で、国民的な単位によって社会を編成する国家の形態である[20]。したがって、近代国民国家を問うためには「国民とは何か」を問うことが不可避ではあるが、その問いは決して「国家とは何か」と問うことと同じではない。
羅列的に列挙するのはこれくらいにしておこう。ともあれここで確認しておきたいのは、次の二点である。まず、「国家神道とは何か」を問うには「神道とは何か」を問わねばならないとする島薗においては、この「国家とは何か」という問い自体が欠落していること[21]。そして、国家神道論に取り組もうとする子安においては、この「国家とは何か」という問いこそが議論の出発点であったということである。
五 「国家神道」論の現地点(二)――『国家神道再考』をめぐって
「国家とは何か」という問いの欠落という問題は、独り島薗のこの論文にとどまるものではない。
ここで再び、萱野稔人を参照してみよう。
ところで、本書の出発点として右にあげた問い(「国家とはそもそも何なのか」―引用者注)は、いわゆる経験科学的なアプローチでは十分に答えられない。
たとえば、国家がどのような機構や制度によってなりたっているのかということをいくら説明しても、それは、国家とは何かを説明したことにはならない。あるいは、法が国家の役割や権限をどのように定めているかを把握することだけでは、国家が存在する理由を解明することはできないだろう。同様に、政府の決定は誰によって、どのようなプロセスでなされているのか、政治家や役人はなにを考え、どのようなパワーゲームの中で行動しているのか、といったことを分析しても、事態は変わりない。[22]
この萱野の批判は、「戦後の神道学者も歴史学者もこうした概念規定上の問題を歴史的展望の下に考察することなく、神道をまずは近代法制度上の宗教団体によって捉えてしまう傾き」[23]を指摘し、「国家神道」を制度史的な用法に限定して用いようという「狭義の国家神道概念」を批判する島薗の批判に通じよう。またさらに付言するならば、萱野が指摘するそのような研究上のアプローチは、批判する側から指摘されるだけではなく、たとえば次の言明に見られるように、当事者によって意識的かつ積極的に選択されているものでもある。
国家神道研究においては、近年盛んな、研究史の整理や、国家神道論の「言説」に注目した理論的研究も必要とはいえるが、それにも増して、膨大な近世・近代の資料の中から重要なものを拾い出し、それを丁寧に読み込む中で的確な史料批判を加えていくという基礎的な作業が最も重要であり、研究会メンバーは改めてそのことを痛感した。さらには国家神道時代を生きた官僚や神職、仏教者などの人物とその思想、相互の交流についてもまだまだ探っていく必要があり、単なる思想、観念論的な論及ではなく、丹念に史料を繙きながら先学の議論の批判を行ない、歴史的な経緯を明らかにするという緻密な研究を着実に積み重ねていくことが重要であると考える。[24]
だが萱野は、こうした立場からいくら説明を加えても「国家とはなにか」を説明したことにはならないとする。その理由は、次のように述べられている。
ではなぜ、経験科学的なアプローチでは、国家そのものをとらえることができないのであろうか。
それは、さきにあげた問いが、国家を概念的に考察することを要求するような問いだからである。国家とはなにかという問いは、概念によってトータルに答えられなくてはならない。経験科学による個別的な探求は、それが国家を考察するうえでどれほど重要だとしても、概念による総体的な把握とは別のものである。たとえば経験科学としての政治学が、国家とはなにかをトータルに把握しようとするならば、そこにはやはり概念の働きが不可欠だ。概念をつうじて国家をとらえることこそ、本書が目指すべき課題である。[25]
どちらの立場がより妥当なものであるかという一般論を問うことにはほとんど意味がない。ここでの筆者の関心は、「国家神道」と称するときの「国家」とは何であるのか、という問いに対して、経験科学的アプローチによって答えうるか、という一点にある。
表現はどうあれ、萱野がここで言っていることはあくまで仮説のレベルにとどまる。したがって、有効な反証が提示されるならば、つまり経験科学的アプローチの先に「国家とはなにか」という問いに対する答えが見出せるのであれば、その仮説は乗り越えられることになる。
しかし、残念ながら筆者は、そのような反証となり得る研究成果を寡聞にして知らない。例えば、「国家神道」をめぐる実証的研究の最新の成果の一つとして、すでに引用している阪本是丸編『国家神道再考―祭政一致国家の形成と展開』(弘文堂、二〇〇六年)を挙げることができる。精緻な実証的研究に基づく論文集であるこの本は、その一方で「国家とはなにか」という関心から読んだとき、いささかの失望を禁じえない。
「国家」という言葉は確かにこの本の至るところに見ることができる。しかし、その意味内容についてはついに了解することのないまま、読み手は本を閉じることになる。国民と国家とが元来別物であるように、内務省や陸海軍省などの政府官庁も、そこに勤める官僚や軍人も、さらには法制度や思想・イデオロギーも、それらは「国家」とイコールでは決してない。だが、その点が突き詰めて論じられることはない。かくして、「国家」という言葉の輪郭は次第に曖昧となり、「国家神道」なのか「近代神道」なのか、あるいはそうした形容を取り払った「神道」なのか、それらの用語の厳密な使い分けに困難を来たす状況が生まれることになる。ここでもまた「国家神道」の語を棚上げする新田均の立場への言及が見られる点は、興味深いと同時に意味深長でもある[26]。皮肉なことながらそれは、彼らの研究アプローチに対して批判的な立場にある島薗進の議論が陥ったのとほとんど同じ事態である。
やはり、上記の研究においてもまた、「国家とは何か」という問い自体、もしくはその問いに対する応答が、欠落してしまっていると言えよう。そして、同じフレーズを繰り返すことになるが、国家神道論に取り組もうとする子安においては、この「国家とは何か」という問いこそが、議論の出発点であったのである。
上記の立場からなされてきた「国家神道」研究について、もう少し遡りつつ見ておこう。たとえば、戦後日本社会について「神社と『国家・政府』との関係は、切断し分離されたが、神道が神道であるかぎりは日本人という民族(ネイション)との結びつきは決して消えることはない」[27]とする葦津珍彦は次のように述べ、本来的な「神道」と国家によって変質を来たした「国家神道」との区別を示唆している。
その国家神道なるものは、明治以来の真摯なる神道人の志を前提源流として出発したものではあるが、有力な非神道の政治権力や非神道の宗教勢力からの強いブレーキとの交錯が重なって、それらの諸力に「中和」されて、その精神は、まったく空白化してしまった無精神な、世俗合理主義で「無気力にして無能」なものであったというのが歴史の真相に近い。[28]
このように「国家神道」を位置づけると何がどうなるか。
そこから導かれるのは、つまるところ「国家」と「神道」との分離である。そうした分離は、経験科学的な「国家神道」研究においては、無精神・世俗合理主義・無気力・無能な「国家神道」を造りあげてしまった内務省官僚と、内務省と対立しながら悉く敗れ去ってしまった在野神道人、という構図からなる研究へと収斂していく[29]。
だが、萱野が述べたように、そうした研究はどこまでいっても個別的な研究にとどまり、「国家とはなにか」「神道はなにか」といったトータルな把握を求める問いへの応答には至らない。内務省はどこまでいっても「国家」ではないし、官僚はやはり国家そのものではない。また、在野神道人が「神道」と名指されるものをトータルに把握していたわけでもない。さらに言えば、その両者のせめぎ合いの末に作られた法制度もまた、神道そのものではない。
結果として「国家神道」は、トータルな概念的把握ではなく、ぜいぜい内務省官僚と在野神道人との間に見出される何ものかとして位置づけられるにとどまる他はない。けれども、こうした立場の研究者にとっては、神道そのものではないそれこそが「(不本意な結実としての)国家神道」であった[30]。
そもそも、島薗進が「広義の国家神道」概念を提唱したのは、こうした「国家神道」理解に対する問題意識からではなかったか。
しかし、他方、葦津のように国家神道を狭い用法に限ってしまうと、近代日本のなかで大きな役割を果たした神道的なものの多くの部分がそこから除外されてしまう。……天皇への崇敬心や、その祖とされる天照大神をめぐる宗教的な儀礼や観念が多くの人々に植えつけられ、受容されたことを「神道」のひとつの表れとする手がかりが見えなくなってしまう。これは近代日本の宗教史を理解する上で、不便なことである。狭い用法をとるとすれば、近代の神道のなかの、国家や天皇崇敬と深く結びついた局面をとらえるための代替案が提示されなければならないが、これまで有力な代替案は存在していない。そうとすれば、これまでの広い意味での用法が多くの弱点を含んでいるのを認めた上で、あらためて広い意味での国家神道の概念を再検討して用い直すのが得策であろう。[31]
そして、かく述べる島薗の「国家神道」をめぐる議論の現地点を、我々は先に見たのである。
六 関係論としての「国家神道」論
事態は一見堂々巡りにも見える。だが、これまでの検討は決して無駄ではない。
ここで、何を問題として取り出せばいいのだろうか。
まず、宗教学の世界における「国家神道」研究が、「国家神道」研究を「神道」研究(の一環)とみなし、「国家」研究の側面を疎かにしてきたという、研究アプローチ上の問題がある[32]。そこで論じられ、追究されてきたのは、究極的には「神道とは何か」という問いであった。「狭義の国家神道」概念を批判し、「広義の国家神道」概念の鍛えなおしを提唱する島薗進にあっても、「国家神道とは何か」という問いが「神道とは何か」という問いへと落ちていったことはすでに見た。そうした議論の延長線上にあっては、「国家神道」が四字の熟語たり得ず、「国家」と「神道」とに分離していくという展望が生まれても決しておかしくはない。「国家」も「神道」もそれ自体が実体的なものではなく、両者が結合されて誕生した「国家神道」もやはりまた実体的なものではない以上、そうした議論の流れが間違っているとは必ずしも言えないだろう。
しかし、そこで見えてくるのは、そうした研究には「国家」について何かを明らかにする可能性を期待できない、という問題である。問いとして意識されないテーマに答えが与えられることはない。ここで、近代国家への関心から国家の祭祀性・宗教性へと立ち入った子安宣邦の問題関心を展開していくにあたって、「国家神道」論はそれにふさわしいテーマだったのか、という問いへの解答が与えられることになる。これまで見てきた「国家神道」研究を踏まえる限り、その答えは「否」である。
この状況を何とかして打開すべく、今更ながらではあるが、村上重良の次の文章を読み返してみたい。「国家神道」研究において今なお盛んに言及される村上の著書『国家神道』の冒頭である。
国家神道は、二十数年以前まで、われわれ日本国民を支配していた国家宗教であり、宗教的政治的制度であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした。日本の近代は、こと思想、宗教にかんするかぎり、国家神道によって基本的に方向づけられてきたといっても過言ではない。[33]
ここで村上が述べている、「国家神道」が「国家宗教」であり、「宗教的政治的制度」であった、とは果たしてどういう意味なのだろうか。
「国家宗教」を素直に読めば、それは要するに「宗教」であり、「国家」がそこに形容としてかぶさっている。いっぽうで、「宗教的政治的制度」のほうでは「宗教」は形容の言葉としてかぶさる側に回っている。それは要するに「制度」であり、もう少し広く読み取れば「政治的制度」である。「政治的制度」というのはこの場合、国家のそれに他ならないだろう。
ここで村上が言っているのは、「国家神道とは、国家的な宗教たる何かであると同時に、宗教的な国家の何かである」ということではなかっただろうか。そのような〈何か〉だけが、「国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼ」し、日本の近代を「基本的に方向づけ」たのである。
とすればやはり、「国家神道」を宗教学的に「神道」の枠内で把握しようとする限り、見えてくるのはその片面にとどまることになる。「国家神道」は、政治学的な「国家」の枠組みにおいても、把握が目指されねばならないものではないのか。だからこそ、「神道とは何か」と同時に「国家とは何か」が問われねばならないのであり、「国家神道」は、両者の問いの相関として議論されねばならないのである。
実体的な何物かとして「国家神道とは何か」と問う「国家神道」論ではなく、「国家」と「神道」との相関を問う、関係論としての「国家神道」論。これが、上記の村上の記述を導きとし、これまで論じてきたことを踏まえた上で、筆者が提示しようとする「国家神道」の新たな認識視座である。
この立場からこれまでに言及した議論を見直してみれば、おそらく次のようになる。
子安宣邦が『国家と祭祀』で目指したのは、「国家の神道化」としての「国家」論であった。〈神道的なもの〉が日本という近代国家にどのような影響を及ぼしたのか。その影響のもとに、我々はいかなる「国家」を見出すことができるのか。表面的な議論の成り行きはさておき、そこで少なくとも明らかになったのは、従来「国家神道」論として理解されてきた研究は、「神道の国家化」としての「神道」論であって、「国家」論としてはそのままでは利用しがたいという事実であった。
子安のこのような立場(国家の神道化への関心)は、村上重良や島薗進の議論とも一部重なるものであった。だが、そうした議論は島薗によって狭義と広義の「国家神道」概念をめぐるものへと編成された。それはまた次第に、「神道とは何か」という、「国家」が欠落した問いへと収斂していった。
この状況を打開する鍵となるのは、「国家とは何か」という問いをそれ自体としてまず直視することであろう。物理的暴力や主権・国民といった「国家」をめぐる諸論点を、「神道とは何か」という問いと関係づけて考えていくこと。従来「国家神道」研究として一括されてきた諸々のトピックスを、「国家とは何か」という問いとの関係において一つ一つ見直していくこと[34]。それが、関係論としての「国家神道」論のあり方である。それはまた、国民国家論や政治学との接続を通じて、「国民」や「近代」といった重要トピックスと「神道」との接点をその先に見出していく手がかりともなろう。(図参照)
[1] 藤田大誠・藤本頼生「あとがき」(阪本是丸編『国家神道再考―祭政一致国家の形成と展開』弘文堂、二〇〇六年)、四一〇頁。
[2] 子安宣邦『日本近代思想批判―一国知の成立』岩波現代文庫、二〇〇三年、三二二頁。
[3] 子安宣邦『日本ナショナリズムの解読』白澤社、二〇〇七年、九頁。
[4] 子安宣邦『「近代の超克」とは何か』青土社、二〇〇八年、三一頁。
[5] 子安宣邦『国家と祭祀―国家神道の現在』青土社、二〇〇四年、二七頁。
[6] 島薗進「神道と国家神道・試論―成立への問いと歴史的展望」(『明治聖徳記念学会紀要』復刊第四三号、二〇〇六年)、一一一頁。
[7] 同頁。
[8] 同頁。
[9] 島薗「神道と国家神道・試論」、一一三頁。
[10] 島薗「神道と国家神道・試論」、一二八頁。
[11] 新田均「島薗進『神道と国家神道・試論―成立への問いと歴史的展望』を読む」(『皇學館論叢』第四〇巻第三号、二〇〇七年)、六四頁。
[12] 新田「島薗進『神道と国家神道・試論―成立への問いと歴史的展望』を読む」、六一頁。
[13] ただし、新田のこの指摘については、別の問題点を指摘できよう。すなわち新田はここで、古代国家も近代国家も区別せずに「国家」と一括することで、島薗が意図していた「近代の問題化」という問題をスキップしてしまっているのである。両者の議論の間に見られる〈ちぐはぐさ〉は、一つにはこのような点に起因するのではないだろうか。
[14] マックス=ヴェーバー(脇圭平訳)『職業としての政治』岩波文庫、一九八〇年、九頁。
[15] 同頁。
[16] 萱野稔人『国家とはなにか』以文社、二〇〇五年、四〇頁。
[17] 同頁。
[18] 長尾龍一『リヴァイアサン―近代国家の思想と歴史』講談社学術文庫、一九九四年、参照。
[19] アーネスト=ゲルナー(加藤節監訳)『民族とナショナリズム』岩波書店、二〇〇〇年、一頁。ただし元の訳文では「民族的な単位」となっている部分を「国民的な単位」と改めている(ちなみに原文ではthe national unitである)。
[20] 萱野『国家とはなにか』、一九二―一九三頁参照。
[21] 島薗において一貫して問題とされてきたのは、実は「国家」ではなく「近代」であったのではなかろうか。すなわち、「国家神道」をめぐるこれまでの島薗の議論は、実際には「近代神道」論と呼ぶにふさわしいものではなかったか、と筆者には思えるのである。
[22] 萱野『国家とはなにか』、五頁。
[23] 島薗「神道と国家神道・試論」、一一〇頁。
[24] 藤田・藤本「あとがき」(『国家神道再考』所収)、四一一―四一二頁。
[25] 萱野『国家とはなにか』五―六頁。
[26] 藤田大誠「国家神道体制成立以降の祭政一致論―神祇特別官衙設置運動をめぐって」(『国家神道再考』所収)、三五五頁。
[27] 葦津珍彦(阪本是丸註)『新版 国家神道とは何だったのか』神社新報社、二〇〇六年、一七〇頁。
[28] 同頁。
なお筆者は、現代の研究を評価するに際してもこうした葦津の主張がそのまま適用可能であると考えているわけではない。同書の解題において藤田大誠が述べているように(同書所収「解題Ⅰ 『神道人』葦津珍彦と近現代の神社神道」参照)、そこに問題点や課題があることは、現代の研究者においても理解されている。ただし、そのような指摘は、必ずしも指摘された問題点や課題の克服を意味してはおらず、いわゆる「狭義の国家神道」論者を代表するものとして、葦津の言葉をここに引用することの妨げにはならない。「国家神道とは何だったのか」という問いに対するこの葦津の応答の参照価値は、現在においてもほとんど減じてはいない。
[29] 藤田大誠「解題Ⅰ 『神道人』葦津珍彦と近現代の神社神道」(葦津『新版 国家神道とは何だったのか』)、一九〇頁。
[30] それ故に、こうした「国家神道」は本来的な「神道」と区別され、神道人の責任範囲からは切り離されて、否定的な評価のもとに押し込められる傾向を有しているのである。
[31] 島薗進「国家神道と近代日本の宗教構造」(『宗教研究』三二九号、二〇〇一年)、三二七頁。
[32] ここで、表に出てきていない前提として、宗教学という学問的枠組み自体の近代性を指摘しておかなければならない。「国家神道」研究における「近代」とは何か。島薗の議論が示唆している通り、その問いに対する取り組みもいまだ充分とは言いがたい。
[33] 村上重良『国家神道』岩波新書、一九七〇年、ⅰ頁。
[34] 例えば、先の注で指摘したように、あるものは「国家」と「神道」ではなく「近代」と「神道」との相関の問題であるかも知れない。また、民衆信仰としての「神道」の問題がまずネイションとしての「国民」の問題であるとすれば、それを「国家神道」論に繰り込むにはそれ相応の熟慮の必要があるだろう。さらに言えば、近代日本における「主権」概念と〈神道的なもの〉との関係なども、こうした観点からは興味深い問題ではないかと思われる。
「宗教研究」83(1) から著者の許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study350:101030〕