「教職哲学」のカントの存在すると考えられるが、認識できないものが属する可想界の話で、不滅の霊魂というのも可想界に属するという説明に対して、コメントでこういう質問があった。
「霊が認識できないのは感覚されないからだということですが、現代でも霊能師などが、霊と交信したり、霊視といって霊を見たり、写真に写ったりしていますね。もし霊が超感覚的な存在なら、それはあり得ないことになりませんか?」
確かに超越神論でいけば、聖霊は精神的実体だから目には見えないはずである。病気や災いを起こす悪霊も超物質的なつまり超感覚的な存在のはずだから、悪霊が目に見えるのはおかしい。もし霊能師の扱う霊も超感覚的な存在なら見えたり、写真に写ったりはしないはずである。だから聖霊も悪霊もさまざまな霊たちも超感覚的な可想界の住人なら現れてくるのは、道理に合わないといえるだろう。
ところが『新約聖書』ではイエス・キリストは自らに聖霊を宿したエクソシスト(悪霊祓い師)である。彼が悪霊祓いをするのに驚いて、一時はブームを惹き起こしたことになっている。しかし悪霊は超感覚的なものだから、見えているのはおかしい。私が思うにあれは、十二使徒が悪霊役を演じていたのではないか、悪霊をみせないことには、せっかくイエスが悪霊を祓ってあげても、それが実感できずに、信用してもらえない。そこで演技で悪霊を見せて、効果を実感させたのであろう。
ところで日本の古い神道の場合は事情が全く違う。「霊」は「たま」とも「ひ」とも呼ぶ。そして「もの」でもあるのだ。物と霊は対極ではない。身体の中には不滅の部分があると考えられていて、これを「霊」と考えたのである。死後肉体のほとんどは朽ちていくが、霊の部分は肉体から抜け出て、蝶や鳥に変態して異界に飛んでいくという信仰があったらしい。
また人々の命を支えたりおびやかしたりする対象は、霊的存在とみなされ、信仰された。これが日本の神概念である。だから森や山や川などの自然や動植物、嵐などの自然現象、太陽や星や月など天体がそのまま霊的存在であり、神であった。そこに身体や物に、全く別の霊という精神的実体が宿るというアニミズムではなかったのである。それがいつしかアニミズムが浸透していくが、『古事記』などでもヤマトタケルは体全体が大白鳥になるなど、原始的な信仰を残している。
だから日本の場合は霊が見えてもノープロブレムである。
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